『日日是好日』
第三話『カオルと黄色いメモ』 P4


 生魚の嫌いなボクは仕方なく息を止めて口の中に入れてお茶で流すという動作を繰り返した。

 けれど他の人たちは注文した日本酒を飲みながら美味しそうに寿司を食べ、酒が入ったせいか陽気に話に花を咲かせていた。

 完全にボクは取り残されてしまった。

 でも時々自分に向けられる言葉には笑顔で対応した、だからきっとボクが寿司が嫌いなことも早く帰りたいと思っていたことも誰も気付かなかったと思う。

 その証拠に店を出ると作家さんも編集長さんもボクの手を握って酒臭い笑顔を近づけて「よろしく」と何度も言った。

 早く一人になりたかったボクは別の店に行くと誘われたのを丁重に断った。

 でも今はそれも後悔している。

 こんなことになるならこの後予定があってこの店に行きたいから道を教えて欲しいと言えば良かった。

 それもこれも今この状況になって初めて思ったことだった。

 ガクさんどうしよう、ボク本当に迷子になった。

 電話を掛けたくても携帯の電池がない、公衆電話から掛けたくも電話番号は携帯の中、時計を持ってないから時間も分からない。

 ガクさんの飲み会は終わっただろうか。

 今朝になってやっぱり俺が行こうかって言ってくれた心配そうなガクさんの顔。

 ちっとも現れないボクにもしかしたら今もそんな顔をさせてしまってるかもしれない。

 幸い地下鉄の駅は見つけて先に一人で帰ろうと思ったけれどそれは出来なかった。

「一緒に帰りたいだろ」

 そう言ってくれたガクさんに申し訳ない。

 何にも出来ないボクだけど少しでもガクさんに喜んで欲しい。

 それなのに今のボクははっきり言ってサイアクだ。

 無理矢理詰め込んだ寿司がちっとも消化してくれなくて気持ちが悪いし、結局何も出来なくていつもガクさんに迷惑かけるばかりだし、細っこくてスーツ着たってガクさんみたいに格好よくなれないし、いい年した大人なのに夜の繁華街を一人で歩くの怖いし。

 ボクの心はすっかりやさぐれていた。

 あっちこっち歩き回って足も痛くてそのまま座り込みたかった。

 タクシー乗るほど財布にはお金がなくてしかもATMを探すことも出来ないダメなボク。

 もう泣きたくなってきた。

「カオルー、どうしたぁ? ん?」
 ガクさんっ!?

 ボクは慌てて顔を上げた、周りをキョロキョロ見たけれどガクさんの姿はどこにもなかった。

 どうやら幻聴が聞こえるほど疲れているらしい。

 目を閉じたら眉毛を上げてボクの顔を覗きこむガクさんの顔が浮かんだ、エッチをしている時以外でボクが一番大好きなガクさんの仕草だ。

 ガクさん……。

 大好きなガクさんの顔がボクに元気をくれた。

 こんなとこでメソメソしてる場合じゃない、一緒に帰ってガクさんの願いを叶えてあげるのがボクの仕事だ。

 ご飯だって作れない、洗濯だってしたことない、出来るのは風呂掃除くらい、何の役にも立たないボクだけどそれでもボクがいいって言ってくれるガクさん。

 こんなことで挫けてる場合じゃないと顔を上げた。

 急にやる気になったボクは足が痛いのも忘れてもう一度歩き出した。

 待っててくれてるガクさんの元へ絶対辿り着く、大袈裟なんかじゃないそうしないと本当にボクはダメになってしまうような気がしたんだ。


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