『日日是好日』第三話『カオルと黄色いメモ』 P3
あ……剃り残し発見。
顎の下辺りに一本だけ長いヒゲを見つけたボクはそれを無性に抜きたくなった。
ボクは普通の男の人よりもちょっと薄い、手にも足にもそれほど生えてないし、毎日髭剃りをしなきゃいけないほどじゃない。
逆にガクさんは寝る頃になると朝剃ったヒゲはチクチクする。
でもその一本はチクチクを超えて5mmほどまで伸びていた。
まだガクさんは考え事をしていてボクは思い切って手を伸ばそうとしたがタイミングよくガクさんの視線がボクに向いてしまって慌てて手を引っ込めた。
「やっぱりそうだ! 日本料理の美味い店だぞ!」
よく外食しているガクさんが言うんだから間違いない。
「それなら……俺も一次会で切り上げるか!」
「どうして?」
「カオルで夜出掛けるなんて久しぶりだし、折角近くにいるなら一緒に帰りたいだろ」
「いいの?」
「いいも何も俺がそうしたいんだよ」
すごく嬉しかった。
本当はガクさんが飲み会の日はちょっと好きじゃなかった。
いつもは遅くても十時くらいまでには帰って来るけれど、その日だけは日付が変わってからでボクは興味もないテレビを点けてチャンネルを次から次へと替えて時間を潰す。
そんな日に限ってすごく時間が経つのが遅い。
でもガクさんにはガクさんの付き合いがあるって分かってるから絶対に言わない。
ホントは早く帰って来て欲しいって。
だからガクさんがそう言ってくれてボクのこと選んでくれてすごく嬉しくて舞い上がった勢いでつい言ってしまったんだ。
「ガクさんのお店、近いならボクが行くよ。多分ボクの方が早く終わる」
「来れるか?」
心配そうに顔を曇らせたけれどこの時のボクは何でも出来るような気がして頷いたんだ。
少し考えていたガクさんにボクがもう一度「大丈夫」と言うと今度は頷いた。
「それならココから店までの地図書いてやるからな」
ガクさんは目を細めて笑うと机の上の小さな黄色いメモに簡単な地図と店の名前を書いてくれた。
地図を見ると本当にすぐ近くでこれなら迷わずにすぐ行けると安心した。
それなのにやっぱりハプニングはつきものだった。
形ばかりの短い打ち合わせを済ませるとなぜか聞かされていた店とは違う店へと連れられていた。
「編集長がここ美味しいって勧めてくれたんですよ」
ニコニコと笑う担当さんの横でウンウンと頷いているのは文芸の編集長さんの姿だった。
連れて行かれたのは最初予定して店と同じ日本料理の店だったけれど、どう見てもその店の雰囲気には合わない服を着ているボクは完全に気後れした。
着物を着た人に案内された個室、畳の敷かれた長い廊下にボクはキョロキョロしながら一番後ろを付いて歩いた。
まるで大人に連れて来られた子供のようだったボクは高級な店構えと広い和室とやたら静かなことにすっかり動揺してしまい大事なことを忘れていた。
この時ガクさんに店が変わったことを伝えていれば良かったんだ。
ボクは右手のガクさんが書いてくれた、もう穴が空くほど見た地図を見た。
やっぱり分からない。
こんなことなら思い切って担当の人にここへの行き方を聞けば良かった、けれど食事が終わった後のボクはすっかりしょぼくれていた。
それは最初予定していた店じゃなかったからということもそうだけど、運ばれて来た料理がボクの嫌いな寿司のコースだったからだ。
「ここの寿司は美味いんですよ!」
そんな風に言われたら嫌いですなんて言えなかった。
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