『日日是好日』第三話『カオルと黄色いメモ』 P5
もうちょっとだ。
大きな白い紙と建物に書かれた店の名前を見比べながら慎重に確認した。
右手に持っていた小さな黄色い紙に代わって持っているのはさっき交番で書いてもらった丁寧な地図だった。
信号の名前や目印になる建物が書き込まれているその地図はとても分かりやすかった。
ちょっと恥ずかしかったけど聞いてみて良かった。
最初は驚いた顔をされたけれど丁寧に教えてくれた、ボクは何度もお礼を言ってその地図だけを頼りに店へと向かった。
言われた通り歩いて地図にある通りの信号の名前や建物があるたびに勇気付けられた。
この先にガクさんがいる。
今いる場所と目的の店までは地図で見るとこの先の信号を渡って右に曲がって次の信号に行くまでの間にある。
もうすぐガクさんに会える。
すっかり疲れていたボクの足はまるで羽根でも生えたように急に軽くなった。
歩行者用の信号が赤から青へ、もう一度紙に書いてある信号の名前と信号機の上に書いてある名前を確認した。
うん、合ってる。
一方通行の道を横切る横断歩道は短い、あっという間に渡り終えたボクは右に曲がった。
あとはこの店を探すだけだ。
ボクは大事にしまっていた小さな黄色い紙を取り出した。
「カオルー」
もう店はすぐそこなのにまたガクさんの幻聴が聞こえた。
それは頑張ってるボクを励ましてくれているみたいに優しい声だった。
大丈夫だよ、ガクさん。ボクもう着くからね。
心の中のガクさんに話し掛けるともう一度その声は聞こえた、しかも今度ははっきりとボクの耳の鼓膜を震わせた。
「カオル! カーオール!」
弾かれるように声がする方を見た、建物ばかりに気を取られていたボクは全然気付かなかった。
今朝仕事に行った時と同じ格好をしているガクさんが手を振りながら大股でこっちに向かって来る。
ガクさんだ……。
どうしよう本物だよね、今度は幻聴と幻影とかじゃないよね。
頬でも抓って確認しようかと思っているといつもの大きな手が頭の上に乗せられた。
いつもと同じ重みがそれが現実だって教えてくれる。
「ガクさん、ボク……」
「ちゃんと来れたんだな! 良かった。電話しても繋がらないし店に行ったら居ないって言われるし家に電話しても出ないし、もう十分経っても来なかったら出版社に電話して担当の人の携帯聞きだそうと思ってたところだ」
ゴメン、ゴメンね、ガクさん。
すっごい大変だったんだ、本当にすっごく大変だったんだ。
でも頑張ったんだよ。
ガクさんのこの顔が見たくて頑張って歩いて来たはずだったのに、なんでかな……ガクさんの顔がぼやけて見える。
「ヨシヨシ、頑張ったよな。疲れてないか? 飯、美味かったか? 仕事の話はどうだった? 携帯はどうした?」
ガクさん……そんな次から次へと聞かれても答えられないよ。
ボクも話したいこといっぱいあるんだ。
でも今は何から話していいか分からないほどある伝えたい言葉の中からどうしても一番に伝えたいことだけ言うよ。
「家に帰ろう、ガクさん」
「そうだな。一緒に帰ろうな。話はそれからだな」
言葉の少ないボクを理解してくれるガクさんは大きく頷いてくれた。
あんなに嫌いだった繁華街のネオンも大好きなガクさんの横で見ると少しだけ綺麗に見えることに驚いた。
それも後で話すことの中に加えなくちゃ。
ボクはガクさんの横にならんで地下鉄への階段を下りながら心の中にある小さな黄色い紙にメモをした。
end
[*前] | [次#]
コメントを書く * しおりを挟む
[戻る]