【2】
午前七時すぎ。
コーヒーとパンの香りで満たされた店内は今日も開店から数分も経たないうちに半分ほど埋まっている。
「はい、美紀ちゃん。これは三番ね、こっちは五番!」
「はーい」
カウンターの上に置かれたトレイを両手に持って、さほど広くない店内を慎重に移動する。
「お待たせしましたー。えっと……山さんはアメリカンと両面焼き。はい、どうぞー」
「ありがとねー美紀ちゃん」
三番テーブルに一つ下ろして奥の五番テーブルへと向かう。
「西さんは……ゆで卵、お待たせしましたー」
「いつもありがとなー」
グルッと店内を見渡して全員に出し終えたことを確認してようやくホッと一息をついた。
ここに来てからもうすぐ一カ月。
市内の短大へ進学するのをきっかけに一人暮らしをしたかったけれど、どうしても許してくれない両親が提案したのは親戚の家への下宿。
実家から通えないこともなかったけれど、行き帰りの通学時間を考えると、それは仕方ないことだった。
喫茶店を経営している親戚の家には下宿代はいらない代わりに、朝の忙しい時間だけ店を手伝って欲しいと頼まれた。
コーヒーとトーストとバナナ、それに小さいサラダと卵はリクエストOK、というモーニングのおかげで店はとても繁盛していた。
最初の頃は慣れなくてカップを割ったりしてしまったけれど、今では常連さんにも顔を覚えられてよくして貰っている。
カランカランとドアベルの軽快な音に再び入口に笑顔を向けた。
「いらっしゃいませー」
条件反射のように出た言葉、でも笑顔はその後に続かなかった。
「おっはよー、美紀ちゃん」
派手なスーツに身を包みタバコと甘ったるい香水の匂いを纏い、カッコつけて上げた右手をヒラヒラと振りながら入って来る男。
通称、竜ちゃん。
本名は田口竜之介、20歳。
聞いてもいないのに勝手に喋った自己紹介によれば、ホストになると言って家を追い出された駆け出しのホスト。
この近くに店の寮があるらしく、仕事帰りにここでモーニングを食べるのが日課らしい。
そして……。
「今日も可愛いね! どう? 俺と付き合う気になった?」
「なりませんっ!」
「ハハハッ! 竜ちゃん、頑張るねぇ〜」
本気かどうかも分からない軽口を叩かれ、いつものように素っ気なく返すと、常連のおじさん達から野次が飛ぶ。
「まだまだこれからー! ってことで、今日はこれ」
差し出したのは赤いチューリップが一本。
受け取るまで手を引っ込めないのを知っているから黙って受け取ると彼は嬉しそうに笑っていつものカウンターの一番端に腰を下ろした。
蕾が開きかけたチューリップはリボン一つない、摘み取られたばかりで一体どこで手に入れたのか不安に思ってしまう。
私がお願いしたわけじゃないんだから……どこかから勝手に持って来ても私は知らないんだから。
そう思いながら花瓶の置いてあるカウンターへと戻り、チューリップを挿して代わりに萎れかけたアネモネを取り出す。
花瓶は彼が毎日一本ずつ持ってくるおかげで、いつも色とりどりの花でいっぱいになっている。
「今度、映画見に行こうぜ?」
花瓶があるすぐ側に座った彼が私を見上げてこう言うのもいつものこと。
そして彼がここに座るのも、花を花瓶に挿すためにここに来ると分かっているから。
「行きません」
「がーん、また振られたぁ」
「当たり前だよ。うちの姪っ子をあんたみたいなロクデナシに渡せるもんかい!」
「おばちゃん、ひでぇよー」
いつものやり取りにドッと笑いが起きても彼は笑顔を絶やさない。
本気なのか冗談なのか分からないから困る。
手に持ったアネモネを眺めていると彼がタバコに火を点けてこっちを見た。
「美紀ちゃんはいい子だよな。俺のあげた花をこんなに大事にしてくれてる。ありがと」
彼の伸ばした手が私の手に重なり引き寄せられ、彼はチュッと音を立てて萎れたアネモネにキスをした。
こんな風に女性に慣れた彼のことが大嫌いなのに、私はまるで自分がキスされたいみたいに頬を熱くさせてしまった。
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