30/
「ただいま」
玄関を入り、そう言葉を発してみるものの返答はない。
買い出しの荷物をとりあえず机におき、彼女の様子を伺いに部屋へ向かう。
もしかしたら眠っているのかもしれないと感じた俺は、そっと扉を開く。
萌は、すやすやと寝息をたてていた。
その穏やかな表情に安堵する。
彼女が体調を崩すのも無理はない。
本来ではあり得ないことが起きているのだ。
全ての元凶は俺にあり、彼女に迷惑をかけている。
それがわかっているから余計、申し訳ないと思う。
扉を閉め、ひとつため息がもれると同時に重い体を椅子へ預ける。
何とか買い出しを終えることが出来て良かった。
かなり気を遣ったが、周りに違和感を感じさせることなくやり終えた。
『私は、清正のことが……』
しんと静まり返る部屋で甦る彼女の声と表情。
脳裏に焼き付いて離れない彼女の言葉。
必死な表情。
最後まで聞けなかった。
聞く勇気が俺にはなかった。
最後まで聞いてしまったら、きっと、俺は。
……俺は、萌を。
頭に浮かんだ叶えられない想いをかき消す。
いや。
それは、俺の欲でしかない。
俺の存在は、彼女を傷つけ苦しめている。
愛しているから。
誰よりも大切だから。
もうこれ以上彼女を傷つけたくはない。
迷惑をかけることもしたくはない。
ふと、この間ゲーム機に起きた異変を思い出した。
それ以降、電源をつけることを躊躇っていた。
彼女と離れてしまうことが怖かったからだ。
だが、それは、俺の勝手な欲に過ぎない。
帰らなければならない時がきたのだ。
彼女の為にも。
俺の為にも。
彼女の病が治ったら、もう一度。
決心した俺は、迷いなく立ち上がった。
***
良い香りがする。
食欲をそそるような、懐かしくて、優しい香り。
その香りに誘われるようにゆっくり目を開くと、辺りは真っ暗だった。
急速に覚醒し、訳のわからない不安に苛まれた私は、かばっと身体を起こす。
暫く耳を澄ましていると、トン、トン、トンと何処かぎこちない包丁の音と一緒に部屋中に香る美味しそうなご飯のにおい。
胸をほっと撫で下ろす。
良かった。
他の誰でもない。
ちゃんと、清正がいる。
どこにも消えていない。
私のそばにいる。
眠ることが怖い。
離れることが怖い。
いつかいなくなってしまうのではないかと、毎日おきる度に不安で……不安で。
清正はこの世界の人ではない。
急に消えてしまうことだって有り得る。
お別れさえ言えない状況になることだってあるかもしれない。
理解しているのに、それでも胸の奥が痛くなる。
彼がいなくなることを考える度、いつもこんなに胸が締め付けられる。
少し軽くなった体をおこし、リビングへの扉を開くと、部屋の光が射し込んでくる。
眩しさに少し目を細めた。
先に見えるキッチンに清正が立っていた。
「起きたか?」
「……うん。
なんだかいいにおいがしたから」
『起こしてしまってすまない』と、綺麗な眉を下げる清正の側へ、『何を作ってるの?』と近付く。
彼が握っている手元の鍋の中には鮮やかな黄色の卵粥が見えた。
「これ、もしかして……?」
「ああ。
以前俺に作ってくれた卵粥だ。
お前や、お前の祖母のようにはいかないと思うが……」
『ありがとう』と言うと、『ああ』と笑顔で言葉を返した清正は焦げないようにゆっくりとお玉で鍋の中を掻き回していた。
清正に作ってあげた後、卵粥を気に入った清正にレシピを教えたのだ。
やはり器用な人なのか、一度教えただけなのに、それらしいものになっていることが凄い。
それより何より、私のことを想ってしてくれている。
さっきまで不安だった心が、温かさで包まれていく。
自信なさげに話す清正だったが、彼の気持ちがとても嬉しく、思わず口元が緩んでしまう。
「体は大丈夫か?
少しは楽になったか?」
「うん。
おかげで楽になった」
「そうか。
良かった」
ふっと安堵したように微笑んだその顔はまた鍋に向けられる。
『もうすぐ出来るからな』そう言って優しく向けられた視線。
駄目だ。
胸がいっぱいになって、また締め付けられる。
苦しさじゃない。
とても温かい気持ち。
これは、彼が愛おしいから。
本当に愛おしくて。
貴方が凄く大好きだよ。
清正。
こんなに好きになれた人は今まで初めてだから。
何よりも誰よりも愛おしくて、大切に想えた人も初めてだから。
だから、貴方には誰よりもなによりも幸せになって欲しい。
私のいない世界でも。
貴方が貴方らしく生きられる世界で。
そうだよ。
寂しいなんて思っちゃいけない。
離れたくないなんて望んじゃ駄目。
それは私の欲望でしかない。
私の勝手なわがままでしかない。
清正が幸せなら、私も幸せなんだから。
こうして近くに彼を感じることが出来なくなっても。
こうして恋した彼への想いは、一生消えないのだから。
心に強い想いを抱いて、私は色鮮やかな温かい黄色を見つめていた。
***
『頂きます』の後、ふたりで卵粥を食べる。
一口食べると、卵のまろやかさと出汁の旨みが広がる。
小さい頃に食べたおばあちゃんの味とそっくり。
どこか懐かしくて、優しい味。
「美味しい!」
「そうか?」
「うん。
おばあちゃんの卵粥にそっくり」
予想外の美味しさに目を丸くする私を見て、嬉しそうに目を細めた清正は、『ありがとう』と言って笑った。
「美味しくて食べ過ぎちゃいそう」
「しっかり食べろ。
体力をつけなければ治らないぞ」
「うん、そうだね」
ははっと短い声をもらした私は一気にお椀の卵粥をペロリと食べてしまった。
空のお椀を見て、『まだ食べるだろ?』と手を差し伸べる清正。
彼の優しさが体に染みこんだ今なら言えるかもしれない。
勇気をもって、私の想いを。
「清正」
名を呼ぶと、視線がかち合う。
不思議と心は落ち着いていた。
「この間は、ごめんなさい。
清正の気持ちも考えずに自分の気持ちを押し付けようとして……」
「……萌」
「清正は別の世界の人で。
私とは住む世界が違う。
これからも、この先も、一緒にこのまま過ごすことなんてあり得ないのに……」
「……」
「今までひとりで平気だったのに、一緒に暮らすうちに何だか欲がでてきちゃうのかな?
一人が寂しくなっちゃったのかもしれないね」
冷静を保てていたのに、清正がいなくなることを考えると急に心が苦しくなって、涙が出そうになる。
笑顔でいなきゃ。
笑顔で。
何も入っていない空のお椀を両手で包む。
彼の優しさが詰まっていたお椀。
この想いを大切にしたいから。
今は、笑顔で伝えなきゃ。
「元の世界へ戻る方法。
最近調べてなかったよね?
これからもっと積極的に調べようね。
清正が一日でも早く戻れるように」
銀色の瞳が揺らいでいた。
「清正は元の世界でやらなきゃいけないことをしなきゃ。
清正がいなくなるのは……少し……寂しいけど。
だけど。
ほら、私達は親友でしょ?
お揃いのネックレスも持ってるし。
もう一生会えなくてもそれは変わらないでしょ?」
自分自身にもう一度言い聞かせるかのように紡いだ言葉。
『ね?』と同意を求めると、何故か悲しげに苦笑をもらした清正はそのまま目を伏せた。
言いにくいことを伝えていることはわかっている。
清正が何も言えなくなることをわかっていて。
ちゃんと、伝えなくてはいけない。
そう思うから。
だけど。
だけど、私は。
「私、後悔してないよ?」
伏せていた彼の視線が戻る。
呼び覚まされたような表情をした清正は私を正視した。
「清正に出会えたこと。
私は、後悔してない。
今も。
今、この時も私は幸せだから」
何秒見つめ合っていただろう。
ほんの数秒の間かもしれないけれど、凄く長い時間のような気がした。
心に夕立の後のような清々しさを感じていると、刹那、大きな掌が伸びてきて、茶碗を包んでいた手にふわりと重なった。
「清正……?」
「俺も。
お前に出会えたことを悔やんだりなど、一度もしていない。
お前と過ごす日は何よりも大切で、幸せだから」
清正は笑っていた。
日向にいるかの如く、あたたかい笑顔だった。
心が明るさで照らされるような、そんな笑顔だった。
「……ありがとう」
ああ。
また、だ。
また感じるこの感情。
何だろう。
安堵する気持ちと、同時に感じる空虚感。
私の胸を締め付ける悲しみに似た幸福感。
心は穏やかな筈なのにどうして?
両手に触れる彼のあたたかさ。
柔らかい笑みをたたえている清正を見つめ、再び感じた相反する感情に戸惑いを覚えた。
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