政府に提出書類もなく、やることと言えば演練の日程を確認するくらいの余暇。 夜警を買って出た不動は甘酒で酔いが回ってしまったらしく、今は隣の布団ですやすやと眠っている。気持ち良さそうに寝っている彼の寝顔はほんのり赤く、でも穏やかなものだったので寝ながら吐く心配はないだろう。 さて私もさっさと寝てしまおうかと帳簿を閉じたその時、ふと誰かが近づいてくる気配がして耳を澄ます。程なくして障子が控えめに叩かれる。 「誰かな?」 「小狐丸にございます」 そろそろと遠慮がちに開かれた障子からひょこりと、控えめに顔を覗かせる姿は小動物のようで愛らしい。いや、流石に大の男に愛らしいという表現はなかったか。 「何かあったかい? 小狐丸」 「ぬしさまに毛並みを整えて貰いたく、この小狐参りました」 「ふふ、ちょうど暇をしていたところだよ。おいで」 図体は大きいのに“ちょこん”という効果音が出てそうな座り方をした彼に差し出された櫛を受け取る。 旧式の日本家屋には似つかわしくない近代的な照明器具が照らす室内で彼の髪を梳る。透かせばきらきらと輝く銀髪は櫛通りが良く、彼の自慢であるのも頷ける。 相当気持ち良いのか小狐丸の口からは鼻歌が漏れ、心なしか耳のように跳ねた髪の束がぴょこぴょこ動いているような気もする。 この小狐丸は、太刀としては初めて入手した刀だった。 彼が来るまでは短刀や打刀ばかりであった我が本丸。合戦場が増えていくに連れ彼らへの負担も大きくなっているのは戦事に明るくない私にも伝わっていた。 戦力の補充にどうしても太刀以上の刀が欲しく、神様が神頼みというのもおかしな話だが、そんな気分での鍛刀だった。 その日は近侍も付けず瑞希と二人、事前に調べたレシピを吟味し鍛刀に挑んだ。まぁ、結局は勘で選んだのだけれど。 それから初めて四時間という長時間を示された時は心から安堵したものだ。 当時、他の審神者らにそのことを話した時は異様に羨ましがられたのを覚えている。 彼女ら曰く小狐丸は非常にレアだそうで三日月宗近と同等、もしくはそれ以上と言う者もいる。故にそれを引けた私は神懸かっている、とのこと。 この際私が本当の神であることは置いておいて、それ程レアな刀を、右も左も分からなかった時に引けたのは非常に運が良かったとしか言えない。 「あの、ぬしさま……」 などと考え事をしていたら彼が遠慮がちに声をかけてきて意識を戻す。 何処か痛くしてしまったのかと手元を見たがこれまでに少し足りとも引っ掛かった感触はない。 「ん? 何かな?」 「蛇のがぬしさまと接吻したと自慢するのですが、それは真でございますか?」 「……あー」 事実だが神使の契約の儀式に過ぎないのであれをキスと言っても良いものなのだろうか。 儀式であり私にとっては人工呼吸と同義だ。つまり、私の中ではキスにカウントされていないがそれを言ったらややこしくなるのは目に見えているので敢えて言及しないが。 無言は肯定を示してしまい、こちらを振り向いた彼は眉をひそめ口を尖らる。瑞希と小狐丸はどうしてこうも馬が合わないのか。 「あ奴とするのでしたら私にも……!」 「小狐丸」 「っ……」 少し強めに彼の名を呼べば口を噤み、眉間のしわを増やした。 キスが神使の契約であることは私と瑞希しか知らないし教えるつもりも無いため彼らの中で明確な答えはなく、答えが無いなりにキスが持つ意味を察してくれているようだ。 「触れてしまえばお前は私のいいように使われる身となるのだよ。」 神使の契約を結ぶということは私に全てを支配されるということ。瑞希は元々この社の神使だったから抵抗無く私を受け入れ私に付き従っていられる。 「小狐丸はそれでも良いのかい? これから先の何百何千という月日を私に支配され続けても」 瑞希は自らの意志で私の神使で在ることを選んだ。祭神の神使であることが彼の存在理由だから。そうでなければ存在を証明できないのだ。 けれども小狐丸は違う。刀として存在し、その意義を果たしているのだ。この戦いが終われば刀剣として元ある姿に戻らねばならない。 付喪神として、刀剣男士として顕現させられ審神者に縛られているだけでも大変なのに、更に祭神とはいえ審神者でも何でもない小娘に支配され続けるのは流石に自尊心が傷つくだろう。 それに、一分霊に過ぎない彼らは、この戦いが終われば綺麗さっぱり消えてしまうのだから、私も彼らもそのことを弁えねばならない。 ゆっくりと噛み砕きながら説明してやってもその表情は変わらない。 「っ……私は、刀としてぬしさまに振るわれるのが好きでございます。しかしこの戦いも終われば我々は再び主を失い、美術品に戻るのです」 「……」 「美術品となり刀としての本分を忘れて過ごすくらいならば私はこれから先の永い歳月をぬしさまのお側で過ごしとうございます。この身が朽ち果てるまで……」 ゆっくりと、彼から放たれた言葉はそんなもので。 彼らの中には本科が現存しているか危うい者もいるという事実を、それとなく知っていた私は押し黙ってしまった。 「それに私の本科はどこで何をしているのか分からぬ状態。ならばいっそ……!」 「んんー……」 彼の手が私の肩に触れるかというところで横から呻きにも近い、くぐもった声が聞こえて思わず肩が跳ねる。 その声にいち早く反応を示した小狐丸は伸ばした手を引き、大人しく座布団に座り直した。 そのまま上げて眠たそうに目を開けたのは酔い潰れて寝ていた不動だった。 「あー……おれ寝ちまってたか?……え、あ、わ、悪ぃ!」 眠気眼がこれでもかと開いて、慌てて飛び起きる不動。その慌てぶりに私は思わず笑みが漏れ、先程まで真剣な表情をしていた小狐丸も呆れている。 まるで今のやり取りは無かったかのように振る舞うので私も再び櫛を持つ手を動かして彼の髪を梳いてゆく。 「ふふ、大丈夫だよ。小狐丸がいたからね」 「……私が来たから良いものの、ぬしさまに何かあったらどうするつもりじゃ。今日の近侍はお前なのだから、しっかりせい」 「悪ぃ悪ぃ。ん、目ぇ覚めた。この後はちゃんと夜警すっから」 不動が気合を入れるため自身の両頬を叩く。その様子を見ていた小狐丸は静かに目を瞑り溜め息混じりに息を吐く。 それからゆっくりと瞼を上げた彼はいつもの笑みを浮かべており、振り返って私の手を取ってそこから櫛を拾い上げると、ゆったりとした動作で立ち上がった。 「我が毛並みの手入れありがとうございました。それではぬしさま、良い夢を」 「……あ、ああ、おやすみ」 恭しく頭を下げ静かに部屋を出ていく小狐丸を見送り、私は肩の荷が下りたような感覚のままに胸を撫で下ろした。 あの時、小狐丸に何も言い返せなかった。 不動が起きなければ私はきっと絆されるがままに彼の想いを許容してしまっていただろう。 そう考えると自分の不甲斐なさや意志の弱さを思い知らされたようで、無性に泣きたくなった。だからといって泣いてしまえばそれを認めているようなもの。 ぐっと奥歯を噛み締め、気合を入れるように両手で頬を叩けば不動に、俺の真似かと笑われてしまった。 << 戻る >> |