Crying - 506
一通り片づけが終わり、名前が背筋を伸ばす。
小狼はモコナとともに先に自室に戻って書類の整理を行っていた。
「できた!」と桜が笑顔を浮かべる。
ファイに教えてもらいながらカウンター内でチョコレートを温めた飲み物を作っていた桜は、ファイに見送られながら小狼へと届けに行っていた。
「私もそろそろ戻ります」と名前が別室へと向かう。
閉店したと言うのにウエイトレスの恰好をしている必要もないだろう。もともと余計に装飾された物や色がついたものは苦手なのだ。
この恰好を引き受けたのはあくまで料理ができない自分のできることが少なかったためであり、服を買い直すのが憚られたからだった。
カチューシャをつけるのを強制されていたら構わず逃げ出していただろう。
階段を上る途中、聞こえてきた話し声に無意識に立ち止まる。
「ごめんなさい」
桜の沈鬱な声が耳に入ってきた。
フロアに繋がる扉が開き、階段で立ち止まっていた名前にファイと黒鋼が怪訝そうに近づいて来る。
立ち聞きしていた事実に名前は苦笑した。
「目が覚めた時、わたし何も分からなくて、小狼君がわたしが失った記憶を集めるために一緒に旅をしてるって教えてくれた時、『知らない人なのに?』って聞いてしまった……」と、桜が悲しげな声で訥々とこぼす。「知らない人じゃないよね。だって、わたしの羽根を探すために危ない目にあって怪我をして、こんなに遅くまで色々頑張ってくれていて……」
小狼に視線を合わせるように桜はベッドに座っていた。
「それなのに……、ごめんなさい」
「サクラ姫……」
あれは仕方がないことだった。対価の存在は彼女が生きるには不可欠で、彼女があの時口にした言葉はごく自然なことで、どうしようもないことだった。
「わたしと小狼君っていつ会ったの? もしかして小さい頃から知っててすごく大切なひとなんじゃ……!」
桜の必死な声が部屋に反響する。
刹那――彼女の身体が硬直し力なく崩れ落ちた。
「姫!」と小狼が彼女を受け止める。
失った記憶の中で彼女が取り戻しかけた感情が無機質な音を立てて壊れていくようだった。
一瞬、虚ろになった瞳がぼんやりと室内を映し出す。
「今、何のお話してたのかな……。そう……ごめんなさいって言いたくて」
ゆっくりと瞼を閉じる桜に、戸口に立っていた黒鋼が静かに口にした。
「なんだ、今のは」
「対価っていうのはそんなに甘くないってことだよ」
ファイの冷たい声が鼓膜を震わす。
「誰かが、サクラちゃんと小狼君の間にあったことを彼女に教えても、サクラちゃんの中でその情報はすぐに消去される。サクラちゃんが自分で思い出そうとしても同じだね」
「本当に、もう二度と戻らないんですね」
お互いに望んでいたとしてもどうあがいてもかなわない。
こんな形で消されるなんて思っていなかったと、名前はそっと目を伏せた。
「小狼君は分かってたのかもね。こうなるって。羽根を探してサクラちゃんが記憶を取り戻して、小狼君との関係に疑問を持っても、差し出した対価は戻らないって」
「だから、ガキは姫に言わなかったのか。以前、自分と姫がどういう関係だったのか」
「それでも“やる”って決めたことは“やる”んでしょう。彼は」
「いつか、羽根が全部戻ったら……小狼君の事も思い出せるよね、きっと……」
眠りに落ちる桜の髪をそっと撫でた小狼は、優しげに微笑んでいた。
「その思い出におれがいなくても、必ず羽根は取り戻します」
後悔も迷いもなく、ただ彼女が今を生きるために。元の世界に戻れるように、彼女の帰るべき場所を取り戻すために。
黒い窓に映り込んだ無数の鬼児に小狼は、そっと桜から離れた。
小狼が部屋から出て来るより早く黒鋼が外へと向かう。
側にいたモコナに見守られながら桜は静かに眠っていた。
「知っているのに知らないことが誰かを傷つけることもある」
ぽつりとこぼした言葉にファイが反応する。
「次元の魔女が言っていたんです。最初は二人のことだと思ってましたけど、でも――それって誰にでも言えることだと思いませんか?」
向き合う二人の表情が重なる。
「気づかないふりをしたことで誰かが傷つくことなんて、そんなにめずらしいことじゃない」
脳はいつだって自分の為に記憶を書き換える。
あの時、確かに彼は救いを求めていた。何もできないままただ怯えるしかできなかった幼い頃の私に。
見えていたはずなのに、気づいていたはずなのに、私は自分を救うほうを選んだんだ。
――行かないで
泣いてつなぎとめようとしたあの言葉は、すべて私のためだった。
名前は胸を締め付けるような苦しさに、切なげに笑った。
――あなたの対価は真実を伝えられないこと。その結末を知れないことよ。
記憶の中の次元の魔女の赤い瞳が、まるで血のように揺蕩っていた。
――――
「一番最後ですか……」
不眠で重たい目を擦り、カウンターに項垂れる。
「わたしもさっき起きたばかりだから! 大丈夫だよ!」
カウンターの内側の台で、小麦粉とその他の材料を混ぜて作った生地を捏ねている桜が必死に名前を励ます。
頬に生地の一欠片をくっつけている桜に、
「ありがとうございます」と曖昧に笑い、生地を指差した。「小狼君にですか?」
「ファイさんに教えてもらって――あ、名前さんも一緒に作る?」
笑顔を咲き誇らせ、一旦右斜め上を向いた桜が視線を戻す。
誘いは嬉しいけどと名前は首を振った。
「私はやめておきます。カウンターが真っ白になりそうなので」
「真っ白?」
小首を傾げる桜の右から細長くしなやかな手が伸びてくる。
パンとジャムと飲み物が乗ったトレーが名前の前に置かれた。
「名前ちゃんの分だよ」
「あ、おはようございます」
「おはよー。今気づいたって感じだねぇ。これ、つけて食べてねー」
ジャムを指差すファイに朝食へと視線を落とす。
「いただきます」と、口に含んだパンに口元が緩む。
よく租借した名前は飲み込むと、真顔に戻った。
小狼はモコナとともに先に自室に戻って書類の整理を行っていた。
「できた!」と桜が笑顔を浮かべる。
ファイに教えてもらいながらカウンター内でチョコレートを温めた飲み物を作っていた桜は、ファイに見送られながら小狼へと届けに行っていた。
「私もそろそろ戻ります」と名前が別室へと向かう。
閉店したと言うのにウエイトレスの恰好をしている必要もないだろう。もともと余計に装飾された物や色がついたものは苦手なのだ。
この恰好を引き受けたのはあくまで料理ができない自分のできることが少なかったためであり、服を買い直すのが憚られたからだった。
カチューシャをつけるのを強制されていたら構わず逃げ出していただろう。
階段を上る途中、聞こえてきた話し声に無意識に立ち止まる。
「ごめんなさい」
桜の沈鬱な声が耳に入ってきた。
フロアに繋がる扉が開き、階段で立ち止まっていた名前にファイと黒鋼が怪訝そうに近づいて来る。
立ち聞きしていた事実に名前は苦笑した。
「目が覚めた時、わたし何も分からなくて、小狼君がわたしが失った記憶を集めるために一緒に旅をしてるって教えてくれた時、『知らない人なのに?』って聞いてしまった……」と、桜が悲しげな声で訥々とこぼす。「知らない人じゃないよね。だって、わたしの羽根を探すために危ない目にあって怪我をして、こんなに遅くまで色々頑張ってくれていて……」
小狼に視線を合わせるように桜はベッドに座っていた。
「それなのに……、ごめんなさい」
「サクラ姫……」
あれは仕方がないことだった。対価の存在は彼女が生きるには不可欠で、彼女があの時口にした言葉はごく自然なことで、どうしようもないことだった。
「わたしと小狼君っていつ会ったの? もしかして小さい頃から知っててすごく大切なひとなんじゃ……!」
桜の必死な声が部屋に反響する。
刹那――彼女の身体が硬直し力なく崩れ落ちた。
「姫!」と小狼が彼女を受け止める。
失った記憶の中で彼女が取り戻しかけた感情が無機質な音を立てて壊れていくようだった。
一瞬、虚ろになった瞳がぼんやりと室内を映し出す。
「今、何のお話してたのかな……。そう……ごめんなさいって言いたくて」
ゆっくりと瞼を閉じる桜に、戸口に立っていた黒鋼が静かに口にした。
「なんだ、今のは」
「対価っていうのはそんなに甘くないってことだよ」
ファイの冷たい声が鼓膜を震わす。
「誰かが、サクラちゃんと小狼君の間にあったことを彼女に教えても、サクラちゃんの中でその情報はすぐに消去される。サクラちゃんが自分で思い出そうとしても同じだね」
「本当に、もう二度と戻らないんですね」
お互いに望んでいたとしてもどうあがいてもかなわない。
こんな形で消されるなんて思っていなかったと、名前はそっと目を伏せた。
「小狼君は分かってたのかもね。こうなるって。羽根を探してサクラちゃんが記憶を取り戻して、小狼君との関係に疑問を持っても、差し出した対価は戻らないって」
「だから、ガキは姫に言わなかったのか。以前、自分と姫がどういう関係だったのか」
「それでも“やる”って決めたことは“やる”んでしょう。彼は」
「いつか、羽根が全部戻ったら……小狼君の事も思い出せるよね、きっと……」
眠りに落ちる桜の髪をそっと撫でた小狼は、優しげに微笑んでいた。
「その思い出におれがいなくても、必ず羽根は取り戻します」
後悔も迷いもなく、ただ彼女が今を生きるために。元の世界に戻れるように、彼女の帰るべき場所を取り戻すために。
黒い窓に映り込んだ無数の鬼児に小狼は、そっと桜から離れた。
小狼が部屋から出て来るより早く黒鋼が外へと向かう。
側にいたモコナに見守られながら桜は静かに眠っていた。
「知っているのに知らないことが誰かを傷つけることもある」
ぽつりとこぼした言葉にファイが反応する。
「次元の魔女が言っていたんです。最初は二人のことだと思ってましたけど、でも――それって誰にでも言えることだと思いませんか?」
向き合う二人の表情が重なる。
「気づかないふりをしたことで誰かが傷つくことなんて、そんなにめずらしいことじゃない」
脳はいつだって自分の為に記憶を書き換える。
あの時、確かに彼は救いを求めていた。何もできないままただ怯えるしかできなかった幼い頃の私に。
見えていたはずなのに、気づいていたはずなのに、私は自分を救うほうを選んだんだ。
――行かないで
泣いてつなぎとめようとしたあの言葉は、すべて私のためだった。
名前は胸を締め付けるような苦しさに、切なげに笑った。
――あなたの対価は真実を伝えられないこと。その結末を知れないことよ。
記憶の中の次元の魔女の赤い瞳が、まるで血のように揺蕩っていた。
――――
「一番最後ですか……」
不眠で重たい目を擦り、カウンターに項垂れる。
「わたしもさっき起きたばかりだから! 大丈夫だよ!」
カウンターの内側の台で、小麦粉とその他の材料を混ぜて作った生地を捏ねている桜が必死に名前を励ます。
頬に生地の一欠片をくっつけている桜に、
「ありがとうございます」と曖昧に笑い、生地を指差した。「小狼君にですか?」
「ファイさんに教えてもらって――あ、名前さんも一緒に作る?」
笑顔を咲き誇らせ、一旦右斜め上を向いた桜が視線を戻す。
誘いは嬉しいけどと名前は首を振った。
「私はやめておきます。カウンターが真っ白になりそうなので」
「真っ白?」
小首を傾げる桜の右から細長くしなやかな手が伸びてくる。
パンとジャムと飲み物が乗ったトレーが名前の前に置かれた。
「名前ちゃんの分だよ」
「あ、おはようございます」
「おはよー。今気づいたって感じだねぇ。これ、つけて食べてねー」
ジャムを指差すファイに朝食へと視線を落とす。
「いただきます」と、口に含んだパンに口元が緩む。
よく租借した名前は飲み込むと、真顔に戻った。