Crying - 507

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「ファイは器用貧乏ですよね」
「名前ちゃんは人見知りだよねぇ」
「いたって普通ですよ」
「そしたら生地をこうやって――」
 パン生地に四苦八苦する桜にファイが、自分の生地を両手で一塊に丸めて見せる。

「じゃあ、馴染む気がないのかなぁ」
「それはファイも一緒ですよ」
「そんなことないよー、ほらー」
 軽く肩を抱くファイに桜が小さく悲鳴をあげる。突然の出来事に驚いていた。
「セクハラですよ」
「ヤキモチさんだー」
「小狼君のことですね」
 ベルの音にファイが桜から離れた。
「噂をすれば、ですね」

「ただいまー」と入口から飛び込んでくるモコナを「おかえりー」とファイが受け止める。
「お帰りなさい!」と桜が笑顔で小狼を出迎えた。
「ただいま」と小狼もつられて笑顔になる。

「おいしそうなにおいー」
「パン作ってたんだよー」
 おでこをくっつけ合いじゃれるファイとモコナの後ろを、黒鋼がどかどかと大きな足音を立てて入ってきていた。
「ありり? 黒ワンコ、まだ怒ってるのー? 朝ごはんのことぉ?」
「そのワンコってのヤメろ!」
 朝ご飯がなんなのだろう。
 名前はファイに貰ったパンのおかわりを頬張りながら、苛立ちが黒く渦巻いている黒鋼を眺めていた。

「何か困ったことあった? 黒鋼さん、すごく怒ってるような」
 桜が眉を八の字にしてうるんだ瞳で小狼に問いかける。
「あの、帰る前にもう一回市役所へ行ったんです。情報屋へ行った後に」と小狼が苦笑いを浮かべる。「黒鋼さんが“すぐやる課”で登録名を変更しようとしたんですけど――」

 ――出来ません。名前を変更したいなら再度入国して下さい。その場合、現在お持ちの園は全て無効となります。
 と、かわいいのにどこか機械的な受付の女の子に一刀両断されたらしい。

「あははははは」
「笑いごとじゃねぇ!」
「情報屋の女まで知ってやがったんだぞ!」
 物騒な追いかけっこが始まったことをいいことに名前は、ひたすらパンをつまんでいた。



 黒鋼とファイが新種の鬼児の情報を得に酒場へと出掛け、モコナは二階で熟睡。残った名前と小狼と桜が一階のカウンター付近で店番をしていた。
 カウンターの中にいる名前が両肘をついて初々しい二人を見つめる。

 ウェイターの格好に着替えた小狼が、
「ヘンじゃないですか?」と側にいた桜に問いかけると桜が盛大に首を振っていた。
「曲がってる」と、桜が小狼の首のリボンを直すため肌に触れるか触れないかの所まで近寄る。
「ありがとうございます」
 リボンを直すことに集中している桜を前に小狼は少し照れたように礼を言っていた。

 ふと桜が右手に巻かれた包帯に視線を落とす。
 昨夜鬼児の群れと戦った時に負った怪我だ。
「独りにならないでね」と呟いた桜に、
「え」と小狼は戸惑いを隠せずにいた。


「なんでもないの!」と密着していたことに気が付いた桜が熟れた林檎のように顔を真っ赤に染めて離れる。
「あ、ファイさん達もうお店についたかな」
 誤魔化すように口にした桜の声が少し震えていた。
 どきどきしている桜を前に、小狼の頬もほんのり色づく。
「地図を渡しておいたので。黒鋼さんが少しならこの国の字が読めると言ってましたし、この国では酒場にはおれは入れないみたいですから」
「ファイさん達がいない間、二人でお店頑張ろうね!」
「はい」

「私もいれて欲しかったです」
 二人の間から顔を出すと、忘れていたと顔に出ている二人が狼狽しつつ訂正していた。
「ですが、二人の時間は貴重です。私はちょっと周辺の掃除をしてきますね」
「え、でも、夜外に出るのは」と小狼が難色を示す。

「大丈夫ですよ。鬼児が出たら、連れたまま店の中に逃げこみますから」
 満面の笑みを浮かべると、
「わかりました。必ず、逃げてください」
 厳かな表情で小狼が言った。
「いえ、そこは、嫌な顔するところで――」
「怪我する前に逃げてね……」
「いえ、ですから、そこは――」
 手を握りしめる桜の翡翠の瞳は穢れなく、一心に名前を見つめる。

「なにかあったら、おれがなんとかします」
 際限のない二人の優しさに、名前は後ろめたさで打ちのめされそうだった。
「行ってきます」と、精一杯の笑みを張りつけて外へ出た。



 夜風の涼しい風が髪をすり抜ける。
 夜のせいか辺りはしんと静まり返り、人の気配の感じられない空間にエプロンをはずして気兼ねなく背筋を伸ばした。
 頭上に垂れた暗幕の上に浮かぶ満月もまた独りを満喫しているようだった。

 箒とタオルを片手に意気揚々と裏手に回る。
 窓を拭いている時に、食器を割るような物音が店内から立て続けに響き、名前は誰だろうかと真剣に考えていた。
 小狼が落とすとは考えられないけれど、彼女とて眠そうではなかった。
 客がぶつかりでもしたのかもしれない、と腑に落ちた名前は丁度窓拭きが終わり、箒で散らばっている花びらや葉っぱをかき集める。

 建物の横に移った時に、敷地の木に烏が止まっていることに気付いた。
 ギィ、ギィ。
 ジェイド国同様奇妙な声で啼く烏にくすりと笑った。
 羽音を立てて飛び上がった烏がこっちに近づいてくる。
 鋭利な嘴の上にはぎょろりとした目玉が一つついていた。
 額に埋まった黒い瞳に殺気がこもる。
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