Crying - 701

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 ――懐かしい匂いがする。
 背中から投げ出された名前は床に寝そべったまま、古木の匂いを含んだ澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 長い歳月を思わせるような和風な建物は、三方向に伸びた長い通路を照らすように屋根のへりに等間隔に提灯がかけられている。

 とりあえず立ち上がったものの、辺りには誰もいず、しんと静まり返っていた。
 静謐な空気が辺りを満たす中、背中から痛いほど気配を感じる。
 奇妙な模様の描かれた厳かな扉は、今にも勝手に開いてしまいそうなほど、入らなければいけないような切迫感が頭を支配していた。

 おそるおそる扉に触れた手が氷のように冷たくなる。
 ぐっと力を込めた瞬間――ざわざわと人の声が近づいてきていることに気がついた。
 長い廊下は吹き抜けでここから逃げたとしてもすぐに見つかってしまうだろう。
 冷たくなる指先に反して体が熱くなる。
 誰もいないで――

 鈍く軋む扉をわずかに開いて横から体を滑り込ませる。
 瞬間、冷気が一気に押し寄せ、月明かりに照らされた人影に肩が飛び跳ねた。
 扉に肩を打ちつけて、ようやく我に返る。

 仏像だ。随分と精巧に作られた仏像は、とても美麗な若い長髪の男を象っていた。
 台座の上に鎮座した男が、突き立てた刀に右腕を回し支えている。閉じられた両目は右目にだけ大きな刀傷がつけられていた。
 その傷のせいか、この空間の様子のせいか、どこか穏やかじゃない印象を覚える。
 円状の広い空間の中央に据えられた仏像の周りには、結界のようなものが施され、部屋中にしめ縄が張り巡らされていた。

 壁に沿うように一周した通路は扉側にある階段を使って、一段下がった場所にある仏像のところに行けるようになっていた。隠れられるとしたら仏像の裏側だけだろう。
 扉のすぐそばに誰かがいる気がして、駆け足で仏像の裏に隠れる。
 と、タイミングよく扉が開いた。

「これも何かのご縁」
 泰然とした声に息をひそめる。
「お話ししましょう。今、起こっていることを」
 足音が三つ。近づいてくる。

「――この夜叉像のことを」
 間近に迫った声に、ハッと息をのむ気配がした。
「血!?」
 重なった二つの声に思わず身を乗り出しそうになる。
 台座の装飾に隠れて下から顔を出すと、見知った人影が仏像を見上げ目を瞠っていた。

「一年に一度、月が美しい秋頃になると、この夜叉像は傷ついた右目から血を流すのです。それが遊花区に居を構えている『鈴蘭一座』が旅から戻ってくる日と毎年一致しているものですから、陣社に仕えてくれている氏子達が……」
 仏像に背を向けた形で、ファイと黒鋼に話す和装の男がこの“神社”の主らしい。

「遊花区のヤツらがどうのこうのと騒いでやがったのか」
 黒鋼が睨みつけたのか離れた場所から小さな悲鳴が上がった。
「毎年ってどれくらい前からなんですかー?」
「私がこの陣社を受け継ぐよりもっと前。先々代の陣主(マスター)であった曾祖父が残した文に、血を流す夜叉像のことが書き記してありました。『鈴蘭一座』の前身である旅の一座が今、遊花区と呼ばれる所に住み始めてから怪異が起こったことも」

「しかし、なんでその一座が戻って来るとこの像が血を流すんだ?」と黒鋼の問いに名前も頷いた。
「曾祖父は『鈴蘭一座』が守り神としている阿修羅像が関係していたのではないかと考えていたようです」
 “神主”の話の途中ファイの表情がにわかに歪んだ。そう悟らせないほど微弱な動揺に、知ってか知らずか黒鋼が掘り下げる。

「阿修羅か。この国でも戦いの神なのか」
「戦いと災いを呼ぶ神とされています。夜叉神は夜と黄泉を司る神。阿修羅神が呼ぶ厄災は人々を黄泉の国へと送るものではないか。夜叉像の血の涙は阿修羅像が呼ぶ厄災への警告ではないのかと曾祖父も祖父もそう考えて……」

「――蒼石様、祭事のお時間です」
「今行きます」と神主が扉へと歩を進める。「結界を越え、貴方達がこの時期に陣社にいらしたのには理由があると私は考えています。どうかお連れの方とお会いになれるまで、ここでゆっくりお休み下さい」
 会釈して去っていく蒼石とともに扉が閉じられる。

 静まり返った空間に、黒鋼の低い声が響いた。
「何か言いたそうだな」
「うーん。というかー、この像、警告とかそんなので泣いてるのかなぁ。もっと何か別の理由があるような気がするんだけど」

 生きていると自分を軸に出来事を判断しそうになる。
 その出来事が自分とは全く関係のないことだったとしても、ほんの細やかな繋がりを見出しては自分と絡めて判断してしまうことの方が多い。
 二つの像が近づいて怪異が起こったことが事実であっても、それがここに住まう人々と関連すると決めたのはここに生きる人々だ。

「そう思わない? 名前ちゃんも」
 仏像の裏に座り込んだまま考え込んでいた名前は、ぎくっと身を縮めた。
「気づいていたのですか?」と、そっと顔を出す。
「そんなに一途に見つめられたら気づいちゃうでしょー」
「見つめてません」

「んなことより、白まんじゅうたちはどうした?」
「いえ、私もまだ。遊花区の方に落とされてしまったのかもしれませんね」
「あいつらもばらけてんのか?」
「二人は多分一緒だと。モコナに飲み込まれても彼女を離さないことは実証済みですし」
「それじゃー、サクラちゃんのことは小狼くんに任せて、オレたちは休んじゃおっかー」

 モコナについて触れないのはわざとなんだろうか。二人と一緒の確立が高いとはいえ、一番重要な存在のはずなのに。と、悩んでいた名前は案内された先に届けられた大量のお酒を見て絶句した。
 ――え、それ飲むの?
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