Crying - 114

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「気になっていたことがあったんです」
 下宿屋へとひた走る小狼を前に、名前は唐突に口にした。
 隣を走る二人が同時に名前を見る。
「彼は、彼女と一緒に来たんですよね」と名前の目はずっと小狼を追っていた。
「彼の対価はなんですか?」
 二人を見つめた名前に、答えが返ってきたのはしばらく経ってからだった。

 羽根を手に入れてすぐに帰路へと急いだ小狼は、下宿屋の戸先で出迎えた二人への挨拶をそこそこに、桜の眠る部屋へと駆け込んだ。
 一目散に桜の隣に膝をつき、桜の胸元に羽根を手放す。
 溶け込むように体の中へと消えた羽根に、小狼は祈るようにそっと桜の手を取った。

 ――小狼君の対価は――

 ふいに、ファイの声が脳裏を過った。
 ゆっくりと瞼を上げた桜に、小狼の顔がほころぶ。
「さくら!」
 うれしそうにあどけなく笑った小狼に、桜はぼんやりと口にした。
「あなた、だあれ?」

 ――サクラちゃんの小狼君との記憶だよ――

 目を瞠り、止まってしまった小狼からは笑顔が消えていた。
 そっと手を離し、桜から視線を逸らす。堪えるようにきつく唇を噛みしめると、白くなるほど拳を握り締めていた。
 それでも、顔を上げた小狼は笑っていた。


「おれは小狼。あなたは桜姫です。どうか落ち着いて聞いて下さい。あなたは他の世界のお姫様なんです」
「他の、世界?」
「今、あなたは記憶を失っていて、その記憶を集めるために異世界を旅しているんです」

「……一人で?」
「いいえ。一緒に旅している人がいます」
「あなたも、一緒なの?」
「はい」

「知らない人なのに……?」
「……はい」
 悲しげに微笑む小狼の声は、とても優しげだった。

 黒鋼とともに戸口で見守っていたファイが、静かに部屋へと入っていく。小狼の肩を叩くと、桜を見てゆるく笑った。
「サクラ姫、はじめましてー。ファイ・D・フローライトと申します。で、こっちはー」
「黒鋼だ」
「で、彼女がー」
「名前です」
「で、このふわふわ可愛いのがー」
「モコナ=モドキ! モコナって呼んでっ。よろしくあくしゅ」

 うつむきがちに部屋を後にする小狼を、名前は何も言わずに見送った。
 中では、モコナと桜が楽しげに話している。羽根が足りないのか、桜はいまだに夢うつつにぼんやりとしていた。

 小狼にとって桜は幼馴染であり、大切な人なんだとファイは言っていた。
 それがどれほどのものなのか測れるわけもなかったけれど、火傷を顧みないほどに、その手当を惜しんで彼女に寄り添うほどには、彼女のことで頭が一杯だったのだろう。それ故に、無垢な彼女の言葉が刃のように彼を貫いていた。

 彼とて認識していたはずだ。もう二度と以前のようには笑い合えないことを。でも、それでも、頭の片隅で、もしかしたらと期待する気持ちがあったのかもしれない。
 目を覚ますのを心待ちにしていた小狼の瞳は温かく、それでいて待ちきれない様子は年相応に見えた。

 対価になりうるほど大切な記憶は、桜にとっても大切なかけがえのないもので、以前の彼女にとってあんな風に彼を傷つけることが不本意ならば、
 ――知っているのに知らないことが傷つけることもある
 対価を渡す時に次元の魔女が言っていたあれは、二人のことだったんだろうか。


 いつの間に降り出していたんだろう。
 暗い窓を伝う雨粒に、名前は窓辺へと足を進めた。
 右隣にファイが、その奥の壁に黒鋼がもたれかかり、二人とも窓の外を見下ろしていた。

「泣くかと思った、あの時」とおもむろにファイが口を開いた。「サクラちゃんは小狼君の本当に大切な人みたいだから。だからこそ、“だれ?”って聞かれた時、泣くかと思った」
「今は……泣いているのかな、小狼君」
 酷くなる雨の中、佇む少年の肩が震えているような気がした。
 ほんの少し開けた窓から雨粒が入り込む。

「さぁな。けど、泣きたくなきゃ強くなるしかねぇ。何があっても泣かずにすむように」
「うん、でも……泣きたい時に泣ける強さもあると思うよ」
 降りしきる雨の中、三体の巧断は、立ち尽くす少年を包み込むように寄り添っていた。
「泣けなくても――誰かが泣いてくれたら、案外、救われるのかもしれない」
 窓から伸ばした名前の手にあたって雨粒が弾けた。



「うふふ」
 黒鋼が箸でつかんだお好み焼きをモコナが箸で制す。
 丸っこい手で器用に箸を操るモコナの妨害に堪えかねてか、黒鋼が自身の分のお好み焼きをかっ込んでいた。

 それでも隙を見て奪いにかかるモコナに黒鋼の意識が集中する。
 その隙に乗じて、名前は自分のお好み焼きを黒鋼の方へ押しやっていた。
 三度、繰り返したところで黒鋼に凄まれた。
「てめぇは自分で食え」

「好きなら、全部、奪ってしまえばいいのに」
 真剣な顔で呟いた名前に黒鋼の手が止まる。こちらを向いたまま固まっている黒鋼に、名前はそっとお好み焼きを押しやろうとしたが武骨な手に阻まれた。
 三つ巴のお好み焼き戦争を行っている中、正面にいた小狼は正義に礼を言っていた。

「正義君、ほんとうに有り難うございました」
「僕も――、巧断もずっと弱いままだったから。だから――」
「だから!」と正義が意気込む。「ちゃんと渡せてほんとに良かったです!」
「弱くなんかないです」
 そう言って笑顔を浮かべた小狼は、昨日のことなど微塵も感じさせないほど落ち着いていた。
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