Crying - 206

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「もし――」
 名前は言いかけて、モコナの体の中に消えかけていた杖の端を掴んだ。
「私が代わりに払うと言ったら、何を要求しますか?」
 吸引を止められたモコナがわたわたと手を上下させる。
「そうね――、箱かしら?」
 意地悪く笑って見せた次元の魔女に、名前はぱっと手を放した。

「それは無理ですね」
 ――自分の所持品じゃない
 と心の中で吐き捨てた。
 元より、成立した契約を覆す気がなかったのだろう。次元の魔女の要求した対価は、等価値ではない気がした。

 モコナが杖を完全に飲み込んでしまう。
「大丈夫だよー。どうせあれ、使わないからー」
 ゆるりと笑うファイに、
「それでもあなただけが支払ったことには変わりない」

 だからと言って、払うものがないのもまた事実だった。
 当然のように吐き出した言葉が空々しく感じる。過剰に自責の念に囚われているわけではないけれど、わずかな空しさが胸に広がった。
「いいんだ」とファイが笑う。
 名前は困ったように笑った。

 次元の魔女の映像が途絶え、光を失したモコナの口から、黒々とした丸い物体が飛び出す。
 反射的に小狼がつかんでいた。
「これが、秘術を破るもの」

 何事もすべては選べない。得たければ、得る分だけ失わなければならないのだ。
 小狼は羽根を取り戻す為なら、自身の犠牲を厭わない。
 その危うさを桜は切なげに見つめていた。


「――いやだ!」
 春香の声がのどかな午後に響き渡る。
「私も領主の所へ行く!」
「領主の城には秘術が施してあるしね。危険だよー」
 宥めすかすファイに春香はかぶりを振った。

「承知の上だ! 一緒に行く!」
「んー。困ったなぁ」
 ここぞとばかりに黒鋼に目をくれるファイに、
「俺ぁ、ガキの説得はできねぇからな」と黒鋼は顔を側めた。
「照れ屋さんだからー?」
「照れ屋さんー」とモコナが便乗する。

 こめかみを引き攣らせる黒鋼に、
「人は見かけによらないな」と、名前は遠くを見つめていた。

「行って領主を倒す! 母さんのカタキをとるんだ! 絶対一緒に行くからな! いいだろ!? 小狼!」
 ずっと心待ちにしていたのだろう。秘術によって阻まれる悔しさを押し込めて、ただひたすらに。一矢報いる日の為に。

 名前自身は仇を取るなんて一度も思ったことがない。そもそも人の死に嘆いたことがこれまでなかった。誰が死んでもただ見送った。側から消えてなくなったものは労せず記憶から抜け落ちて、誰に何を聞かされても何も感じなくなっていた。
 だから、死んだ人間に思いを馳せる春香の感情が欠片も理解できない。
 だからと言って、予測できないほど他人の表情が読めない訳じゃなかった。

 自分の力では叶わなかった秘術を破る力が今この場にあるのだ。引き下がるわけにはいかないのだろう。
 それは自分なんかより小狼の方がよくわかっているはずだ。

 目に涙を浮かべて小狼にすがりつく春香に、小狼が俯いていた顔を上げる。
 春香の期待の表情が一瞬で消え去った。
 下された春香の手が力なく垂れ下がる。
 目を見開いた春香の頬を涙が伝った。

「だめです。ここでサクラ姫と待っていて下さい」
 落ち着いた声で、けれど有無を言わせぬ声で突き放した小狼に、
「どうして……」
 春香のか細い声がこぼれる。
 小狼は表情を変えぬまま春香に背を向けた。

 ほんの少しも立ち止まらない小狼に、春香の瞳から大粒の涙が飛び散った。
「どうして、ダメなんだっ!」
 悲痛な叫びが沈黙を引き裂く。
 それでも小狼は振り返らない。

「私が子供で、たいした秘術も使えなくて、足手まといだからか」
 崩れ落ちる春香を桜が寄り添うように支えていた。
 どれだけ気丈に装っていても、たった一人の家族を、母を失った悲しみは癒えていないのだろう。
 遠ざかっていく家からは春香の嗚咽が静かに響いていた。


「言えば良かったのにー。春香ちゃんを連れていかないのはこれ以上迷惑かけないためだって」
 無言の最中、口火を切ったのはファイだった。
「オレ達みたいな余所者泊めて、一緒にいる所も見られてる。その上、連れだって城に乗り込んだら、領主を倒せなかった時に春香ちゃんがどんな目に遭うかわからないもんね」

 わかってはいても、春香の心境を慮れば置いていくことが正しいとは言い切れないのだろう。小狼は何も答えなかった。
「とにかく、その領主とやらをやっちまやぁいいんだろ」
 よほど鬱憤が溜まっているらしい、血気盛んな黒鋼が殺気を滲ませる。

「で、サクラちゃんの羽根が本当に領主の手元にあれば――」
「取り戻します」
 目を尖らせた小狼に、
「で」とファイが名前へと頭を回らせた。「どうして名前ちゃんがここにいるのかなー?」
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