黒い雨 13


「俺は平気。それよりも、もう少し待っていてくれれば迎えに行けたんだけど……本当にごめんね」
「いや、元はといえば俺が天気予報見てなかったからだし……」
 きちんと服も着ているし、今はもう、いつもの翼なのに。
 そこへ、さっき風呂場で見た、やけに色っぽい翼の姿が重なる。
 外見だって話し方だって、翼は普段と同じでどこも変わっていないのに、どうしてか、変に意識してしまう。
 そんな自分がいたたまれなくて、俺はごまかすように頬を掻いて違う話題を探した。
「そうだ翼、制服は? 濡れただろ?」
 俺のと一緒に乾かすから、と声を掛けると、翼が立ち上がり、こちらへと近づいてくる。
 どきん、と、またひとつ心臓が高い音を立てて跳ねた。
 翼が俺に近づくにつれて、鼓動はどんどん早くなり、顔に血が集まるのがわかる。
 「弟」、なのに。
 「男」、だと、意識してしまう。
 蛇に睨まれた蛙のように動けない。その俺から数歩の距離を置いて、翼が立ち止まった。
「そんな顔されると、勘違いしちゃうよ」
 そんな顔って、なに?
 勘違いって、なんだよ?
「望」
「!」
 そんな呼び方するなよ。
 いつもどおり「のん兄」って呼べよ。もっと軽い感じで、いつもと同じ声で。
 そんな深刻な顔で、色を含んだ低い声で、呼ぶなよ、俺を。
 こんなの、知らない。
 こんな翼は、知らない。
 顔をまともに見ていられなくて、視線を俯ける。衣擦れの音。視界に翼の足が入り込む。
 距離の近さに気づいて顔を上げるけど、すぐに、それは間違いだったと気づいた。
 いつのまにか、翼が俺の目の前まで迫っていた。
「ッ、……翼……!」
 静かに持ち上げられた右手にびくりと肩を震わすと、その手がそっと、俺の髪に触れた。
 ゆっくりと近づいてくる顔。
 ――キスされる。
 そう思ってとっさに目を閉じる。
「……?」
 けれども、俺が思っていた場所にはいつまで経ってもその感触は訪れなくて、しばらくすると、代わりに額に柔らかいものが押し当てられた。
 おそるおそる目を開けると、そこにあったのは、ゆっくりと引いていく翼の顔。
 そこにあったのは何かを我慢しているような、少し辛そうで、それでいて切なさを湛えた表情だった。
 そんな翼は、初めて見る。
 いつも飄々としていて、兄貴や颯のように激しい喜怒哀楽を表に出すことなんて滅多にないのに。
 困惑して黙ったままの俺に、翼は一度短く息を吐くと、いつもと同じように淡々と告げた。
「のん兄、自分を好きだって言ってる男の前で、簡単に目を閉じたらダメだよ」
「……ッ!」
「制服、持ってくるね」
 そう言うと翼は、俺の脇をすり抜けリビングを出て行った。
 そっと額に手を当てる。
 熱を持ったようにジンジンと疼く、その場所。
 キスされたのが額だとわかった瞬間の、ほっとしたような、それでいて少し残念なような気持ち。
 どうしてそんな風に思うのかわからない。
 どうして――?
「翼――……!」
 俺は翼の名を呼び、その場にうずくまった。
 答えをもらえたはずの感情が、またわからなくなる。
 外は、雨。
 ごちゃごちゃした俺の心を代弁するかのような、黒い雨。

黒い雨・END


- 23 -

[*前] | [次#]
[戻る]

Copyright(C) 2012- 融愛理論。All Rights Reserved.

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -