黒い雨 12


 翼の携帯は、呼び出し音が何度か続いたのち、留守電に切り替わってしまった。
 ならば家の電話、と思ったけれど、結構粘ったのにそっちにも出ない。
 そうこうしている間にも、あたりはどんどん暗くなり、雨脚もどんどん強まっていく。
「仕方ないな……」
 急いで帰ってすぐにシャワーを浴びよう。そう決めて俺は、雨の中へと走り出した。





 玄関を入ってすぐのところに鞄を放り投げ、ズボンの裾をまくって靴下だけを脱ぎ、一目散に風呂場へ直行。
 ガラッと引き戸を開けると、そこには先客がいた。
「わっ、ごめん!」
 下は穿いていたけれど上半身は裸で、まだ濡れたままの髪から雫がぽたり、ぽたりと落ちていくさまがなんだかやけに色っぽくて、元を辿るように視線を上げると、こちらを見ていた翼と目が合った。
 しっとりと濡れた肌。水滴の伝う頬や首筋。見慣れないその姿に、心臓がドキッと高鳴る。
 そうか、翼も雨に打たれたんだ。
 シャワーを浴びてたから、電話に出られなかったんだな。
 頭では冷静にそんなことを考えるけれど、反面、早鐘を打つ胸の鼓動は一向に鳴り止まない。
「のん兄」
 少しだけ驚いた表情を見せた翼が棚から一枚タオルを取って、俺の頭に被せる。そのまま髪を拭いてくれようとした手をとっさに払いのけてしまってから、ハッと我に返った。
「あ……」
 俺と翼の間に、なんとも言えない気まずい空気が流れる。
 どうしよう、違うんだ。嫌だとかそういうんじゃなくて……!
 頭の中でぐるぐる回る言い訳は、なにひとつ言葉にならない。
 一人焦る俺とは対照的に、翼は至って冷静だった。
「のん兄も、シャワー浴びた方がいいよ。そのままじゃ風邪ひくから」
 そう言うと翼は俺の脇をすり抜け、脱衣所を出ていった。
「………うん。そう……だよ、な……」
 もう聞こえるはずがないのに返事をして、のろのろと手を動かす。
 水を吸って重くなった制服を脱ぎ、浴室に入って頭から熱いシャワーを浴びる。
 その間もずっと、心臓はうるさく鳴り響いたまま。
「ッ、なん、で……だよ……!」
 さっき見た、翼の姿が目に焼きついて離れない。
 男の裸だし。
 弟の裸だし。
 おまけに毎日見慣れてるはずの弟の顔で、ドキドキする要素なんてなにひとつないはずなのに。
 なのになんで――!
「吊り橋効果、じゃ、なかったのかよ……!」
 恨み言のように呟く。
 説明のつかないドキドキに支配されたまま、顔の火照りをごまかすように、俺は熱い湯を浴び続けていた。





 乾いた服に着替えて髪を乾かしリビングへ行くと、ソファに座っていた翼が、扉が開く音に気づいて顔を上げ、俺に向かって謝ってきた。
「ごめん、電話くれたんだ」
「あ、ああ……うん……」
「気づかなくてごめん。のん兄もカサ、持ってなかったんだ?」
「うん……まあ……。……翼も、雨に打たれたよな?」
 シャワーを浴びていたのは、きっと、雨で濡れたから。
 だけど翼がそのことを気にしている様子は全然なくて、逆に俺を気遣ってくれる。


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