黒い雨 7


「な……なあ翼……」
「なに?」
「何なんだよ、アレ」
 そちらの方に目を向けながら、こっそりと指差す。「ああ」と短く頷いた翼から帰ってきたのは、ひとつの単語。
「掃除」
「は?」
 意味がわからなくて問い返す。視線の先では兄貴が突然ホースから手を離し、その反動で颯がしりもちをついていた。
 その隙に兄貴が掃除機本体にしがみつく。尚もホースを引っ張り続ける颯。とうとうホースが本体から外れてしまった。
「掃除、するんだって」
「掃除?」
「うん」
 翼の説明によると、兄貴が割った皿を翼が片付けているときに、そんなことで望の機嫌を取るつもりか、などと、嫌味ったらしいことを言われたらしい。それに対して翼が、いつも家事をやっている俺には休みの日くらいゆっくりしてほしいから手伝うんだと、ぜひともその場で聞きたかったと思える、俺にとってはものすごく嬉しくて、兄弟の、いや、家族の誰も今まで言ってくれたことがないようなことを言って反論したらしいのだ。
 だけど、どうやらそれが兄貴を悪い意味で刺激したらしく、皿を割ったことで洗い物が自分には向いていないと判断した兄貴が、それならば掃除をしようと、掃除機を持ち出したのだという。
 そこで今度は颯から、「ヒカ兄こそのん兄の機嫌を取ろうとしてる」などと責められ、二人の間で掃除機の奪い合いになった、らしい。
「……ったく、掃除ったって、なにも掃除機かけるだけが掃除じゃないだろ……」
 くだらないケンカをやめさせようと、兄貴と颯の間に割って入る。だけど、俺のその行動は、タイミングが悪すぎた。
「二人ともいい加減に……うわッ!」
 俺が声をかけたことで兄貴の手の位置がずれ、弾みで掃除機の上蓋が開き、微妙に変わった力関係に掃除機本体はひっくり返り、その拍子に中に入っていた紙パックが外へと飛び出してしまった。
 年代物のこの掃除機が頑張って吸い取ってくれていたホコリやごみがあたりに散乱する。
 ごみから逃げるように後ずさった兄貴が、俺を見ながら、慌てたように言い繕った。
「ご、ごめんな望。お兄ちゃんはただ、いつも家事をやってくれている望には、休みの日くらいゆっくり休んでほしくて……な……、お兄ちゃんは望を手伝おうと思って……だな……」
「………」
 それが兄貴の自発的な行動だったのなら、俺は兄貴のことを尊敬の眼差しで見たかもしれない。たとえ結果的に役に立たなかったとしても、気持ちだけでも嬉しいと思ったかもしれない。
 けれども、翼の説明によれば、兄貴の行動もこの台詞も翼の言葉を借りたものだし、実際は、手伝うどころか俺の仕事を余計に増やしている。
 溜め息つきたくなるのを堪えて、着替えたばかりのシャツに張り付くホコリを叩き落とす。ケホッと咳き込んだ兄貴だったが素早く立ち直り、性懲りもなく俺に例の王子様スマイルを向けてきた。
「望、他に何か手伝うことはないか?」
「………ない」
 俺ははっきり「ない」と言った。だけど兄貴は、まるで聞く耳を持たない。


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