黒い雨 6


 兄貴から解放されて嬉しいはずなのに、心のどこかに釈然としない思いが残る。
 二階へ向かう階段を昇りながら、俺はTシャツの胸元をぎゅっと握り締めていた。
 なんだろう、これ……。
 胸の中のもやもやが、なかなか消えてくれない。
 俺を好きだとはっきり宣言してからさらに過剰になった兄貴のスキンシップにはうんざりするし、さっきみたいに俺に構う兄貴を見るたび、いつでもどこでも割って入ってこようとする颯は正直うざったい。
 だからこそ、ニュートラルな翼の存在にはずいぶん救われている。だけど――。

 ――翼は本当に俺のことが好きなんだろうか……?

 自室に入り、着ていたTシャツを脱いで、タンスから代わりのものを出す。
 袖を通しながら俺は、ほとんど無表情に近かった翼の顔を思い浮かべていた。
 兄貴と翼と颯。今のところ、俺にとって一番害がないのが翼。
 だから、あんな風に迫り来る兄貴から助けてもらえると、心の底からほっとする。それなのに翼は、そんな風に兄貴の手から俺を救い出しておきながら、次の瞬間には、俺への執着なんてまったく見せずに、あっさりと俺を離した。
 俺のことを気遣ってくれる優しい言葉と、柔らかい声。だけど、その顔からは何を考えているのか、何をどう思っているのか、感情がまったく読み取れなくて、正直俺は戸惑っていた。
「……俺のこと、好きなんだよな……?」
 思わず口にしてしまってから、はっと口元を押さえる。
 俺、何物足りないようなこと言ってるんだ!
「だから、みんな男で、兄弟なんだってば!」
 自分に言い聞かせるように、かなり大きな独り言を叫ぶ。
 今度は簡単に捲られないような、あまり伸び縮みしない、体のラインにぴたりと沿った綿シャツ。
 そのボタンをきっちり留めてから、俺は階下に戻った。
 割れた皿、どうしただろうか? 洗い物の続きは……やってないだろうな。
 そんなことを考えながらリビングの扉を開ける。だがしかし、俺の足はそこで止まってしまった。
「な、な……、なにやってんだよっ!」
 兄貴と颯、その間に……なぜか掃除機。二人はそれぞれ逆方向にホースを引っ張り合いながら、なにやら揉めている。
 俺の姿なんて目に入っていないのだろう。俺の問いかけも、完全に無視されている。
 兄貴が腕にぐっと力を入れて引っ張り、勢いに負けて颯がよろめく。その隙に、肩を押して掃除機から颯を引き剥がそうと試みた兄貴だったが、颯も意地なのか、絶対に手を離さない。
 兄貴が颯を睨みながら、常套句を浴びせかける。
「お子様は引っ込んでろ!」
「ヒカ兄こそ、年寄りは引っ込んでてよ!」
「年よ……、俺はまだ二十三だ! ピチピチなんだぞクソチビ!」
「チビじゃないもん! これから伸びるもん!」
「今チビだからチビって言ってんだろうが!」
 なんて低レベルな言い争い……。
 原因と、そして掃除機を持ち出した理由がわからず、俺は極力二人を刺激しないように、壁を伝うようにして部屋の隅を歩き、俺の疑問に答えてくれそうな翼のところまで行った。


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