黒い雨 5 「ヒカ兄、やめなよ」 「うるさい、部外者は引っ込んでろ!」 助かった、と思ったのは、ほんの一瞬。 兄貴は、自分を押しとどめようとする翼の手を逆に押しのけ、さらにぐぐっと力を込めてTシャツを引っ張る。 押し問答になる、兄貴と俺と翼。 心の中で服が伸びるのを心配しつつ、どうやって兄貴から逃げようかと考えあぐねていると、騒ぎに気づいた颯までもがキッチンにやってきてしまった。 「ちょっとヒカ兄、僕ののん兄になにやってんの!」 「うるさい、お子様は引っ込んでろ」 「そんなこと言って、どさくさにまぎれてのん兄の裸見ようとしてるんでしょ!」 颯の言葉に、兄貴の手が止まる。そして聞こえる舌打ち。 「……………チッ」 マジかよ。 俺は男だぞ。しかも弟だぞ。そんな俺の裸を見たい!? 気持ち悪いやら悲しいやらで、呆気に取られる俺。その隙を狙って、兄貴がTシャツの裾を思い切り上へと持ち上げた。 「やめ……!」 外気に晒される素肌。だけどそれはほんの一瞬。 見かねた翼が、俺と兄貴の間に体を入れると、兄貴から庇うようにして、しっかりと俺を抱きしめた。 自分ではそんなに小柄じゃないつもりでも、上背のある翼の胸に抱きこまれたことで、俺の体は兄貴の魔の手からしっかりと遮断されていた。 きつく抱きしめられ、密着したことで流れ込んでくる翼の体温。合わせた胸から伝わる心臓の鼓動はトクトクと規則的なリズムを刻んでいて、それまでの騒動で波立っていた俺の心は徐々に静まっていった。 翼の腕の中は、ものすごく安心できる。でもその一方で、どういうわけか落ち着かない気持ちにもなる。 ずっとこうやって守られていたいような、今すぐにでも逃げ出したいような……。 そんな俺の心の葛藤など知らない翼は、俺を抱く腕の力を緩めることなく、顔だけで兄貴を振り返り、有無を言わせない口調で静かに兄貴を諌めた。 「兄貴、もうやめなよ。のん兄嫌がってるだろ」 弟とは思えない迫力と厳しく非難するような口調に、兄貴が一瞬怯む。それでも何か反論しようと口を開きかけたのをさらりと無視して、翼は視線を俺へと戻すと、幾分柔らかい口調でこう言った。 「それからのん兄も、その汚れた服、早く着替えてきた方がいいよ」 そうして、先ほどまでの強さが嘘のようにあっさりと腕を解くと、俺の体の向きを変え、ついでとばかりにトン、と軽い力で俺の背中を押して、部屋へ向かうように促した。 本当は、着替えなきゃならないほど服が汚れているわけじゃない。 もしかしたら翼は、兄貴から逃げたいと思っていた俺の気持ちに気づいていたのかもしれない。だから、さっき俺が言った「部屋で着替えてくる」というのをそっくりそのまま受けて、そんな風に言ってくれたんだろう。 それならば、この場は翼の言葉に乗るのが得策に思えた。 「うん、そうする。……ありがと」 一応翼にお礼を言って、何か言いたいことがありそうな兄貴や颯を振り返ることなく、俺はリビングを抜け出した。 [戻る] |