黒い雨 4


 洗い桶の中から茶碗や皿を取り出しては洗い、また次に手を伸ばす。
 四人分の食器ともなると結構な量なのに、翼は文句も言わずに、淡々と作業を続けている。
 そういえば昨日の夜も、翼が洗い物をしてくれたんだっけ……。
 昨夜のことを思い出しつつ、翼の横に立ったままなんとなくその手元を見ていると、手を止めないまま、翼がぽつりと呟いた。
「のん兄もさ、休みの日くらい、ゆっくりしてよ」
 それが上辺だけの言葉じゃないっていうのは、進んで俺を手伝ってくれる翼の行動から充分感じ取れた。
 本当に俺を思ってくれているからこその言葉が、澄んだ音色を響かせる楽器のように、俺の心を静かに揺さぶる。
「翼……」
 だけど、俺の密かな感動の時間は、長くは続かなかった。
 テレビを見ていたはずの兄貴がやってきて、並んで立つ俺と翼の間に割って入ったのだ。
「おお翼! 望の手伝いか? よし望、お兄ちゃんも手伝ってやろう!」
 そう言うと翼を押しのけその手からスポンジを奪い、皿を手に取り力任せにぎゅっぎゅと擦り始める。
「兄貴、そんなに力を入れなくても……」
 なんだか手つきが危なっかしくて思わず声を掛けると、何を勘違いしたのか、兄貴が満面の笑みで俺を見た。
「望、お兄ちゃんは望が大好きだからな! 何でも言ってくれ! 何でも手伝うぞ!」
 その拍子に手から外れた皿が落下しシンクに置いてあった別の皿に――。
「兄貴っ!」
 ガシャン。
 ぶつかり合った皿同士が嫌な音を立てる。
 しかも、慌てた兄貴が無防備に割れた皿へと手を伸ばそうとするので、それを止めようと横から身を乗り出したら、まだスポンジを持ったままだった兄貴の手に当たって、俺の服に泡が付いてしまった。
「う、わ」
「あっ悪い!」
 もっと慌てた兄貴が、急いで俺の服に付いた泡を拭おうとするけれど、その手はまだ泡まみれ。
 俺は、完全にこちら側を向いている兄貴の体をシンクの方へと押し戻すと、水道の蛇口をひねった。
「いいから手、洗って! あとは俺が片付けるから」
 言われたとおりに泡を洗い流し、タオルで手を拭く兄貴。素直に俺のいうことを聞くその姿に、俺は完全に油断していた。
 この兄貴が、このままおとなしく引き下がるはずなんてなかった。
 あろうことか兄貴は、きれいになったその手を、俺が着ていたTシャツの裾へと伸ばしてきたのだ。
「それより望も、その汚れた服をすぐに脱がないと」
「いいよ、俺、部屋で着替えてくるから」
 ちょっと泡がついただけだから、本当はたいして汚れていない。ただ、なんとなくこのままここにいることに危険を感じて、俺は、兄貴から逃げるためだけにそう言って、二階にある自室へ向かおうとした。
 だけど兄貴は、俺の言葉などまったく聞き入れずに、親が小さい子供に対してそうするように、裾を持ち上げ、Tシャツを脱がそうとしてきた。
「ほら望、バンザイして! 早く服脱いで!」
「ちょ、やめっ……、やめろって……!」
 引っ張る兄貴に、押さえつける俺。そこへ伸びてくる、第三者の手。


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