黒い雨 2


 それがまた、必要以上に甘ったるい声で、おまけにその顔には、どこぞの国の王子かと見まがうほどに優雅な微笑みが浮かんでいる。
 兄貴は元々女の子受けする整った顔立ちをしているのに、そんな風に無駄なオプションをつけて「おはよう」と言われ、俺は返事をすることも忘れ、兄貴の顔を見つめたまま呆けたように固まってしまっていた。
 そう、明らかに昨日の一件を意識した兄貴の変わりように呆れていたのであって、決して兄貴に見惚れていたわけではない。
 なのに兄貴は、俺の正面に立つと、キラッと音がしそうなほどさわやかに白い歯を見せて笑い、自信満々にこう言った。
「なんだ望、お兄ちゃんに見蕩れているのか? ん?」
 違う!
 断じて違う!
 だけど俺がはっきりとそう告げる前に、兄貴の顔がだんだんと近づいてきて――。
「望、朝の挨拶といえば、おはようのキ……」
「なにしやがる!」
 その唇が俺の肌に触れる寸前、俺は兄貴に思いっきりボディーブローを叩き込んでいた。
「う、……ゲホッ、……ったく、望は乱暴だなあ」
 うずくまる兄貴を尻目にキッチンへ向かおうとすると、早くも復活した兄貴に今度は後ろから腕を引っ張られる。
 その、予想外の力強さにバランスを崩した俺は、その場でしりもちをついてしまった。
「〜〜ッテェ!」
「望、まずはおはようのキス、だろ?」
「嫌だ!」
 身を捩って逃げようとするけれど、それより早く、体重をかけてのしかかられ、起き上がることができない。
 兄貴の体をどかそうと手を突っ張れば、邪魔だとばかりに手首を掴んでそれを押さえつけられる。
 ならばと蹴りを繰り出せば、やはり同じように足も封じられた。
 優に百八十はある兄貴と、ギリギリ百七十しかない俺。体格では兄貴に到底敵わない。もちろん、力も。
「やめろ! 離せ!」
「キスが済んだらね」
 せめて、と思い言葉で抵抗してみても、意に介さずさわやかな微笑を浮かべ続ける兄貴。すっかり俺を組み敷いた兄貴が、俺の手を押さえつけている腕を使って、俺の顔をがっちりと固定する。
 真上から徐々に迫ってくる兄貴。
 近づく唇。
 あまりの気色悪さに鳥肌が立つ。
 万事休す。この状況に耐えきれず、ギュッと目をつぶる。すると、バン、と音を立てて、リビングの扉が勢いよく開かれた。
「ちょっとヒカ兄! 僕ののん兄になにするの!」
「颯っ!」
 颯の登場で、一瞬だけど兄貴の気が俺から扉の方へと逸れた。
 台詞に若干問題があった気はするけど、今はそんなことに構っていられない。俺を押さえつけていた腕の力がほんの少し緩んだ隙に腕を取り戻し、ぐいっと力を込めて兄貴の体を押しやる。そうして俺は、血の繋がった兄弟に組み敷かれているという非常に不本意な状況からなんとか抜け出そうとした。
 だけど、兄貴が黙ってそれを許すはずもなく……。
「こら望! おはようのキスがまだだろう?」
「嫌だっつってるだろ!」


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