文化祭/橋田 太一 side
僕は女の子が大好きだ。
抱きしめると柔らかくて、甘い香りのする女の子が大好きだ。
今までに彼女と呼べる相手は何人もいた。何人というのはけして二股とかそういうのではなく──そんなのは相手の子に誠意がないのでしない──来る者基本的に拒まず、去る者全く追わずな長続きしない恋愛を繰り返している所為だ。
勿論、僕から振るなんてことはしていない。相手が愛想を尽かせて離れていくのだ。
原因は僕にあるらしいが、そんなのはどうでもいい。興味がない。恋人なんだからとか、恋人はこうあるべきだとか、綺麗事ばかり並べられても応えようがない。
恋人か恋人でないかの線引きは、SEXするかしないかでしかない。甘く囁く言葉も甘えた雰囲気も、所詮はヤる為の潤滑油だ。──と考える辺り、僕は最低なのかもしれない。
けど、それを恥じるつもりもない。十代男子の頭ん中なんてみんなそんなものだろう。
文化祭準備期間中に告白され、文化祭前日の昨日メールで別れを告げてきた元彼女を思い出し、何やら言い訳じみた思考になっていることに気づき、気を取り直して現実に向き直る。
文化祭当日、僕は今、我がクラスの出し物"メイド喫茶"の宣伝の為、チラシ配りをしている最中だ。
「よければ、うちのクラスに遊びに来ませんか?」
爽やかに愛想よく、僕は目の前を通り過ぎようとしていた女の子にチラシを差し出す。
「ど、どうも……」
その女の子はチラシを受け取ると、僕を見てはにかんだ。優しく微笑んで見つめ返すと、頬を真っ赤にして慌てたように去っていく。
一年生だろうか? 初々しい反応がとても愉しい。
「なあ、橋田」
「何?」
「何でさっきから女子にばっか声かけてんの?」
チラシ配りのペアである昌斗が訝しむようにそう言った。
何を不思議に思うことがあるのだろうか。その昌斗の問いにさも当然の返答をする。
「どうせ声かけるなら可愛い女の子のほうが愉しいし」
愚問である。それ以外に理由はない。
先ほどのように、愉しい反応をしてくれる女の子相手の方がこちらとしても微笑む甲斐があるというものだ。見ず知らずの野郎相手に微笑んだところで何の得もない。
……にしても、さっきの女の子は可愛かったな。僕にしては珍しく食指が動く相手だった。あとで捜してみようかな。この感覚は本当に久しぶりだ。どう口説こうかとそのことばかりに思案を巡らせる。
制服ではなく、ファンタジックな妖精だと思われる仮装をしていたので、一年生でそれっぽい出し物をしているクラスを覗いて回ろう。と、早々に休憩時間の予定を決めた。
手持ちのチラシも少なくなり、一旦教室に戻った僕と昌斗を出迎えてくれたのは、破壊力抜群のメイド服姿の正也だった。
「お帰りなさいませ、ご主人──っておまえらか」
「…………ぶっ」
うわー。目に猛毒だよ。笑いが堪えられない。
「どうだぁ? 美しいだろ?」
「いや、もう。想像通りで凄いよ正也」
いや。想像以上だな。
スカートを摘まんでお辞儀をする正也は兵器と言っても過言ではない。笑い過ぎて死にそうだ。
と、その猛毒兵器に苦しんでいると可憐なメイドさんがぴょっこりと姿を現す。
これは、あれだ。目の毒だ。勿論比喩表現としての。
それが、幼馴染みの昴だと気づくまでの一瞬、その可愛さに心が奪われてしまった。不覚だ。
正也が言うように、女の子にしか見えない。
「流石、昴だね」
「え。何が流石なんだよ?」
「可愛いよ?」
そう言うと、途端に不機嫌な顔をする。からかい甲斐があるというものだ。
そんな昴も昌斗に「可愛い」と言われると、頬を染めて盛大に照れていた。
普段見ることのできない昴のその様子に愉しくなって、さらにからかうと、ぷりぷりと怒られた。
「覚えてろよっ」
ぷりぷり怒る可愛いメイドさんが、捨て台詞を吐いて接客へと向かう。
その余りの可愛さの所為か、昌斗が心配そうに昴に言いつけをしている。
「昌斗、意外と独占欲強い?」
「……なのかな、やっぱ」
こちらに戻ってきた昌斗にそう聞くと、自嘲気味なため息とともに呟きが返ってきた。
「好きなんだねぇ」
「うん。好きだな」
茶化すように言った言葉に、思いの外真っ直ぐすぎる返事をされてしまい面食らう。
「何か僕が照れるな……真っ直ぐすぎて眩しいよ」
柄にもなく、本当に照れてしまった。僕とて周りに聞かれて恥ずかしがることもなくすんなり同じ台詞は言えてしまうけれど。昌斗のその言葉と、僕が言う言葉では台詞は同じでも意味合いが大きく違うと思う。
僕が言う「好き」はなんて薄っぺらいものなんだと、我ながら呆れてしまう。昌斗や昴のように、誰かを真摯に想い、熱く滾るような恋心を抱いてみたいものだ。
そんな風に羨む気持ちと同時に、めんどくさいものだとため息も出てしまう。やっぱり僕は真剣な恋愛には向いていないのだろうな。
そんな僕だが、絶賛彼女募集中だ。恋愛はめんどくさいが、一人は寂しい。誰かに癒されたい。可愛い子ならなお嬉しい。
昴に並んで可愛いメイド服姿を披露している近藤さんを見つめる。うん、やはり本物の女の子の方が断然いい。
一人頷きながら隣の昌斗を窺うと、じっと射抜くように一点を見つめている。勿論、その先には昴がいる。
きっと、昌斗には昴の横にいる可愛いメイド服姿の近藤さんは見えてないんだろうな。
「……危ない視線になってるよ?」
昴を見つめる昌斗の視線が余りにも熱っぽくて、次第に変態じみた表情に変わりつつあったので、ここは少し注意しておく。
クールな昌斗にここまでだらしない顔させるなんて、すごいよ昴。
「オレらも仕事に戻ろう」
「んじゃ、休憩までもうひと頑張りしましょーか」
と、立ち上がった僕たちだが、ふと昌斗を振り返るとまた熱っぽい視線で昴を見つめている。
本当に呆れてしまい、耳を引っ張って教室から連れ出した。
昼のピークから幾分か落ち着きを見せ始めた屋台を眺めていると、いつの間にか昌斗の傍に昴がいた。
「あ。昴、着替えちゃったんだ?」
「休憩だからな。戻ったらまた化粧されるらしいけど」
昴はメイド服からすっかり着替えていて、デフォルトのはずのその服装に逆に違和感を感じてしまったことは言わない方がいいだろう。
休憩から戻るとまた化粧をされてしまうことが心底嫌そうにぼやいているが、正也とは違い笑い者にされていないのだからそこまで不平を全面に押し出さなくてもいいだろうに。まあ、自分に置き換えたら同じように不平たらたらだったとは思うけど。
隣の昌斗を見ると、昴が着替えてしまっていることが本当に残念だと言わんばかりの表情をしていて、少し笑いそうになった。
「残念だったね、昌斗」
「…………」
面白そうだったのであえてそう代弁してあげると、図星を突かれたのが恥ずかしかったのか、決まりの悪い顔を向ける。
その素直な反応が可笑しくて笑いを堪えるのが大変だ。
「アキト? 休憩行かないの?」
「あ。うん……橋田は?」
昴に促されて我に返った昌斗が、僕を気遣い誘ってくれる。
だが、恋人同士の大切な時間を邪魔するような無粋な真似をするわけにはいかない。それに、僕にも予定──というか、企み──があるので、ここは遠慮する。
「僕は他の子と約束してるから、二人でどーぞ」
そう断ると、明らかに嬉しそうな昴の笑顔が見えた。わかってはいるが、そこまで邪険な扱いも酷いと思うよ。
昴に負けない満面の笑みで二人の背中を見送り、僕は企みを完遂させるべく行動を開始した。
文化祭パンフレットを片手に、一年生の出し物を巡る。
まず確認したのは劇をするクラスについて。あの女の子が着ていたのは演劇の衣装かもしれない。うちの学校には演劇部はないので、一年生で劇をするクラスがあればそこにいる可能性が高い。けれど、残念ながら一年生で劇を選択しているクラスはなかった。
なので、順々に一年生の出し物を確認して回っているのだが……。
行く先々で見知った女の子が可愛い笑顔で迎えてくれる。けれど、あの女の子は見当たらない。
仮装のできるポラロイド撮影の店はあったが、店員をする生徒はみな制服だった。客寄せの為に仮装で出歩いている生徒はいるのか尋ねたが、男子生徒が着ぐるみで練り歩いているという期待を裏切る返事だった。
この時点で諦めて、普通に文化祭を愉しめばいいとは思ったのだが、ここまで捜して見つけられないのも悔しい。
もしかして一年生じゃないのかな? と考えたが、その考えはすぐに捨てた。
二年生の女子はほぼ全て把握している。三年生に関しても、あれほど可愛い子がいたのなら覚えているだろう。
──さて、困った。一年生のクラスは全て回り終えてしまった。
一体あの子はどこにいるのだろう? この学校の子じゃないのか? 仮装していたからてっきり生徒だと思っていたけど……あれが私服だったのかもしれない。いや、流石にそれはないか。ファンタジックな妖精さん衣装が私服とは考えにくい。
でも、世の中には色んな趣味嗜好の人がいるんだし、もしかしたらという可能性もあるかもしれない。
「あれー? 橋田?」
聴き覚えのある声に振り向くと、そこには木村さんがいた。
「その格好は……」
「ああ、これ? うちの部の衣装よ」
木村さんはふわふわとしたファンタジックな妖精さん衣装を身に纏っていた。
あの女の子と同じような衣装……色は違うけど。
部の衣装だということは、あの女の子も木村さんと同じ部活なのだろうか?
「木村さん、吹奏楽部だよね?」
確か、木村さんは吹奏楽部だったはずだ。
「そうよ。文化祭だし、ちょっとばかり趣きをかえて仮装で演奏会するのよ」
それはなかなか……可愛らしい趣向だ。うちの吹奏楽部は女子が多くて、しかも可愛い子が多かったし、さぞかし目の保養な仕上がりだろう。
目の前の木村さんも例に漏れず実にキュートな妖精さん姿を披露している。
捜している子はふんわりと柔らかい綿菓子のような甘い雰囲気の妖精だったのに対して、木村さんのその姿は気まぐれでいたずら好きな妖精のような印象を受ける。
「薄緑色の妖精さんもいる?」
デザインが同じ衣装だから、ほぼ間違いなくあの女の子は吹奏楽部の妖精さんだろうとは思ったが、念の為に確認しておく。
「いるわよ」
木管楽器が薄緑色、金管楽器が水色、打楽器がオレンジ色という風に分けているのだそうだ。
ということは、あの女の子は木管楽器奏者だということだ。
「木管楽器のメンバーに一年生もいる?」
「ええ。オーボエとクラリネットにいるわよ」
そのどちらかが僕の捜している子なのだろう。
「それって……」
と、掘り下げて聞こうとした時に遠くから木村さんを呼ぶ声に遮られる。視線を向けると水色妖精さんが手を振っていた。
「あ! ヤバイ! 私そろそろ体育館行かないと」
間もなく演奏会の時間らしい。じゃあね、と走り去る木村さんを手を振って見送った。そして、ゆっくりとそのあとを追う。
是非ともその薄緑色の妖精さんを確認しなくてはならない。確認して、名前を聞いてお近づきにならなくては捜し回っていた僕の時間が徒労に終わってしまう。それはいただけない。
体育館の中は薄暗く、人の囁き声でざわざわと騒がしい。
並べられたパイプ椅子にはそこそこの人がすでに腰掛けていた。
僕も前の方の空いてる席を見つけ、他の人と同じように腰掛けて開演を待った。
ほどなくして薄暗い照明が全て落とされ館内が真っ暗になる。ブザーが鳴り響き、ゆっくりと幕が上がっていく。
煌々と照らされた舞台に吹奏楽部の一団が姿を現した。そしてその中に捜し求めていた姿を見つける。僅かに胸が高鳴った。
他の誰よりも可愛らしい妖精さんがそこにいた。緊張感に強張った様子がなんとも微笑ましい。
演奏が始まると、その強張った様子も少し落ち着きを見せ、愉しそうに音を紡いでいく。
楽器には詳しくないのでわからないが、彼女が吹いているのはオーボエだろうか。可愛らしい唇にリードを咥え、小さな身体のどこからその力強い音を紡ぎ出しているのか不思議だ。
終始ただただオーボエ奏者の妖精さんを見つめ、その音にだけ聴覚を研ぎ澄まし、夢心地な気分に浸った。
「ちょっといいかな?」
演奏会が終わり、吹奏楽部の面々の出待ちをして彼女を見つけると、逸る気持ちを抑えながら声をかけた。
「……はい?」
戸惑った様子で首を傾げる仕草が可愛らしい。
「僕、橋田 太一と言います。君の名前教えてくれないかな?」
不躾に名を尋ねては失礼なので、まず自分からきっちりと名乗る。爽やかな笑顔添えで。
「……森崎 向日葵です」
照れと困惑が同居した上目遣いで僕を窺うその表情にくらくらしそうだ。
他の女の子もそんな風に僕を見つめてくることは多々あるけれど、そこにはあざとさが滲み出ていて純粋に気持ちが昂ぶることなどなかった。
この妖精さんは一体僕にどんな魔法をかけたのだろう。
日焼けを知らない透き通るような白い肌が他の誰より妖精らしさを演出している。ふわふわの衣装に似合う、柔らかそうな髪は日に透けると栗色に変わる。脱色しているような痛みは見受けられないので天然だろうか。ショートカットなのが勿体ない。ショートカットが嫌いなわけではないが、彼女には長い髪が似合うと思った。
そんな風に見惚れていると、困ったように彼女──向日葵ちゃんが僕を促した。
「あ、あの……何でしょうか?」
つい可愛らしさに惚けてしまったが、ここからが本題だ。ただ名前を知りたいが為に捜し回ったわけではない。
名前を教えてもらい、目を見て会話をし互いを認識しているこの状況にさり気ない満足感はあるけれど。
「今お付き合いしてる人はいる?」
「へ? い、いませんけど……」
予想もしていなかった問いだったのか、困惑の色の濃くなった表情で僕を訝しむ。
そんな可愛らしい向日葵ちゃんを覗き込むように背を屈めて問いを重ねる。
「好きな人は?」
「……特には……」
「なら、僕なんてどう?」
僕は渾身の微笑みで向日葵ちゃんに提案した。
自惚れではなく、僕が本気で微笑んで十中八九落とせない女の子はいない。なので普段は爽やかさ優先で構えているのだけど、今はその本気を使ってみた。
「……は?」
「タイプじゃない?」
向日葵ちゃんが驚愕に揺れたのは一瞬で、すぐに呆気にとられた表情に変わると間抜けな声を出した。
さらに問いかけると、僕の言葉を咀嚼したのか徐々に頬が上気していく。見つめ続けていると目を逸らしてぼそりと呟く声が聴こえた。
「タイプとかそういう問題じゃ……」
タイプ以前の問題? いや、違うかな? 告白されたことにかなり戸惑っている様子だ。
本気の微笑みに照れてはくれたものの、今までの子とは違う反応に新鮮さを感じて愉しくなる。──が、このままだと振られてしまいそうな気がする。けれど、何となく向日葵ちゃんは押しに弱い気もする。
ならば、畳みかけて押し切れば頷かせることができるかもしれない。
「お! 橋田、来てたんだ……って、ひなタン?」
食い下がって押し切ろうと思ったその時、邪魔が入ってしまった。
「き、木村先輩……あの……」
現れた邪魔者は木村さんだった。
向日葵ちゃんは助けがきたとばかりに、木村さんの後ろに隠れてしまった。
「どーしたの?」
「は、橋田先輩が……」
媚びるようにも思える表情で、木村さんに助けを求める向日葵ちゃんに嗜虐心を擽られるような気がしないでもない。その表情を是が非でも自分に向けさせたいと感じてしまう。
「橋田? ──ちょっと、ひなタンに何したのよ? うちの後輩虐めないでよね!」
ビシッと効果音が付随しそうなほどに指を差されて注意された。
「虐めてなんかないよ」
虐めてみたいけど。勿論、虐めたあとは蕩けるような甘えも与えてあげるけどね。
「何よ……あ! もしかして口説いてたの? あんた本当に節操なしね」
鋭い。けど、節操なしとかやめてほしい。向日葵ちゃんに悪い印象を持たれてしまうじゃないか。
「節操なし……」
ほら! 向日葵ちゃんが怯えてしまったじゃないか。
「節操なしじゃないよー。ね、向日葵ちゃん間に受けないでね?」
「本当のことでしょ。あんたE組の子と付き合ってすぐにポイしたんでしょ?」
E組……ってどの子のことだろう? 最近付き合っていた子はA組とB組と、あとは先輩だったから違うな。文化祭前の子はD組だったし。
「それは誤解だよ。僕振られた方だし」
まあ。いずれにせよ僕から振ったりはしていないのだから、答える言葉はそれだけだ。
「ほら。そうやって何ともなさそうにあっさりしてるところが、節操なしなのよ。少しは付き合った子のこと考えてる?」
切なく自嘲気味な様子を演出したものの、木村さんには通用しないらしい。というか、僕はなぜ説教されてしまっているんだろう。
可愛い子に説教されるシチュエーションもなかなかにいいものではあるけど。今は向日葵ちゃんで忙しいからあとにしてほしい。
「あ、あの、木村先輩……片付けがあるので……」
「そうだった、そうだった。一年はもう先に部室行ったわよ。ひなタンも急いでね」
「はい。じゃ、じゃあ……失礼します」
どうやって木村さんを追い払おうか考える前に、まさかの向日葵ちゃん逃亡。話はまだ終わってないのに。
「え? ちょ、向日葵ちゃん」
「橋田!」
「な、何?」
「あんたにしては必死ね? 何? ひなタンに惚れたの?」
急に語調を強めて呼ばれたので、驚きに構えてしまう。
僕にしては必死……確かに頷ける。早々に諦められるのなら、貴重な休憩時間を費やしてまで捜し回ったりしないだろう。
今日の僕のこの行動はどう考えてもいつもの僕にはあり得ないものだ。
午前中のチラシ配りの時にほんの僅かの時間、チラシを手渡した際の関わりしか持たなかった向日葵ちゃんにその瞬間から心を奪われていた。
「んー……ああ。そうか、これが……」
一目惚れというやつか。そう思えば腑に落ちる。
何だそれ、堪らなく愉しいじゃないか。僕が誰かに一目惚れする日が訪れるなど、歴代の彼女たちは信じられないと言うかもしれない。
『太一くんの“好き”は、猫が好きとか、チョコが好きとかそんな程度の気持ちしかないよね』
誰だったか忘れたが、付き合っていた子に言われた言葉。
そんなことないよ? と否定をしたのは憶えているが、全くその通りかもしれないと心中では頷いたものだ。
それでも付き合った子をそれなりには甘やかしていたとは思う。彼女たちは不満だったようだが。
『太一は誰かに恋したことあるの?』
そんなことも言われた。
それを言った相手に、今してるでしょ? と飄々とした態度で答えたのを憶えている。
もし今、その言葉を向日葵ちゃんに言われたら、嘘偽りなく「今してるよ」と断言できてしまう。それほどに、僕は向日葵ちゃんに夢中になってしまっているようだ。
初めて味わう気持ちを自覚し、心が震えそうになった。
「何よ。初恋みたいにキラキラした目して」
気持ち悪いものを見るような目つきで僕を見つめる木村さんが茶化すように言った言葉に、またまた腑に落ちてしまう。
僕は初めて恋をしたのかもしれない。
「……そうかもしれない。こんなに執着した気持ちは初めてだよ」
向日葵ちゃんは可愛い。そんじょそこらの女の子など比べるまでもなく可愛い。そんな彼女がつれないながらも、僅かな可能性をその反応に示してくれているのだ。さらに先に進みたいと思うのが男というものだろう。
その為に必死になるのも悪くない。寧ろ愉しい。
「…………本気で言ってる?」
「え? 何か不味い?」
「ひなタンのことわかってる?」
「名前だけしか聞けてないよ」
木村さんが邪魔したからね、とは言わないでおいた。
「…………」
「…………え、何?」
沈黙が意味するものは何なのか。知るのが怖い気もする。
「一年B組」
一瞬、呪文でも唱えたのかと思った。よくよく言葉を反芻して意味を理解した。
それが向日葵ちゃんのクラスだというのだろう。
「このあとは演奏会ないから、残りはずっとクラスにいるって言ってたわ。ちゃんと話して打ちのめされてきなさいよ」
振られるのが大前提な言い方が少し気に入らないけど、いい情報を教えてくれたことには感謝だ。
笑顔で感謝を述べると、なぜか鼻で笑われた。
「……嫉妬?」
「何で私が嫉妬しなきゃいけないのよ?」
「だよね。木村さんは先輩のことが──」
「へっ!? な、何で、それ……」
「あ。当たり? 先輩が好きなんだ? ……どの先輩?」
「カマかけたわねっ! 最悪っ!」
よし! 勝った──と、何の勝負なのかわからないが、負けっぱなしな感じは嫌だったのですっきりした。
悔しさと羞恥に歪む顔がとても可愛い。
可愛い木村さんは見れたし、今すぐにでも向日葵ちゃんに会いにも行きたいが、如何せんもう休憩時間が過ぎてしまっている。
演奏会が始まる時点でギリギリだったので、すでにかなりの遅刻だ。急いで戻らないと昌斗に怒られるだろうな。もう怒っているかもしれないが。
今度、昴の幼少期の写真でも渡してご機嫌とろうかな? などと考えながら昌斗の待っているであろう定位置に戻ることにした。
文化祭終了間際、一年B組の教室へと向かう廊下を歩いていた。
ほどなくして目的地に到着すると、片付けを始めている教室の中ほどに目的の人物を発見した。
近くにいた生徒に声をかけて呼び出してもらう。
「……橋田先輩……何でしょうか?」
ジャージ姿の向日葵ちゃんが、怪訝そうに顔を顰めてやってきた。
「木村さんにクラス聞いたんだ。話がしたいんだけど、いいかな?」
なおも怪訝そうに戸惑いを見せていたが頷いてくれた。
内心ほっと安堵した自分に笑いそうになる。呼び出しにすら逃げられてしまうのではと心配だったことに今さら気づく。
「あっ! 橋田先輩だ!」
「橋田先輩!」
「どーしたんですかぁ?」
見知った女の子たちが僕を見つけてキャッキャッと騒ぎ出したので、当たり障りのない笑顔であしらい、向日葵ちゃんを連れ出した。
「あ、あの……」
「大丈夫、大丈夫」
何が大丈夫なのかは僕もわからないが、これを言っておけば大概の子が流されてくれる。
……という経験を積んでいる自分に呆れてしまいそうになるけど。
「えっと、手を放して──」
「放したら逃げちゃうでしょ?」
逃れようとする手を痛くない程度に握りしめて、繋いだ手を引いて歩いていく。
「……どこ行くんですか?」
少し歩調が早い所為か、歩幅の違う向日葵ちゃんが跳ねるように歩く姿に思わず頬が緩んでしまう。
ゆっくり歩いてあげたいのはやまやまだけど、今はちょっと急ぐのを許してほしい。
「ん? 教室だよ」
振り向いてそう言うと、僕を見上げる向日葵ちゃんと目が合った。折角なので微笑んでおく。
「話って何ですか?」
「着いてからね」
僕が微笑むと同時に頬を赤らめて目を逸らされる。
早々にこの状況から逃れたいのか、急かす言葉にも焦りが見えた。
向日葵ちゃんの焦りは軽く無視をして、繋いだ手の温もりを堪能しつつ目的の場所へと辿り着く。
「誰もいない……」
「こっちは着替えに使ってただけだからね」
みんな着替え終わっているだろうと思い、ここに連れてきたのだ。
二人きりになりたかったから。途中で邪魔されたりはしたくなかったから。
「向日葵ちゃん」
いつになく真剣な面持ちで向き直って呼ぶと、向日葵ちゃんが竦んだように身体を硬くするのがわかった。
「妖精さん姿も可愛かったけど、ジャージ姿の向日葵ちゃんも可愛いね」
繋いだままの手を引き寄せて、髪に指を絡めて撫でると堪らなく幸せな気分になった。
「やっ……」
「甘い香りがする」
僕から逃れようともがく度に柔らかい向日葵ちゃんの身体からほのかに甘い芳香が広がる。
とても美味しそうな匂いがする。
「クッキー、食べてたから……」
そう呟いた向日葵ちゃんの唇を見つめる。そこもこの香りのように甘いのだろうか。
「せ、先輩? ちょっ、と……なっんっ……!」
向日葵ちゃんの頬にそっと触れて、顔を近づける。
「うん。クッキーの香りだね」
息が絡み合うほどの距離でそう言うと、向日葵ちゃんの身体がピクリと震える。
口づけてしまいたくなる衝動を抑えて、僅かに顔を離すと涙目の向日葵ちゃんが僕睨んでいた。
「……可愛い」
睨んだところで凄みも何もなく、その潤んだ瞳が男の情欲を煽るだけなのには気づかないのだろうか。
「からかわないでください」
照れた顔を隠すように俯いて震えた声を絞り出す。
本気で嫌がっているのがわかれば僕だって放してあげるのだけど、そこまでの拒絶は今のところ感じない。だから放してあげない。
このまま、僕に流されてしまえばいいんだよ。
「からかってなんかないよ。本気で可愛いと思ってるし……」
繋いだ手の指を絡めて握り直せば、向日葵ちゃんの指先が逃れようと暴れる。
頬に手を添えてこちらに顔を向かせると、僕は言葉を続けた。
「本気で付き合いたいと思ってる」
真っ直ぐに見つめて微笑めば、照れを隠すようにまた目を逸らされた。ほんのりと赤く染まった可愛らしい耳が惜しげもなく晒される。
「僕じゃ駄目?」
齧りつきたくなるその耳元にそっと囁くと、ふるりと震えて殊更赤く染まっていく肌に汗が滲んだ。
向日葵ちゃんは細い腕の精一杯の力で僕の身体を押し返し、首を激しく横に振って必死に叫ぶ。
「む、無理です! 男同士とか、おれ無理ですっ」
…………あれ? 幻聴かな?
何か今、とんでもないことを聞いた気がする。
意味を理解できずに空転する思考が、一つ一つの言葉を拾いにいく。
向日葵ちゃんの可愛らしい唇を震わせて紡ぎ出された言葉。何と言った? 男……“同士”……?
その言葉の真意を確かめるように、目の前の向日葵ちゃんをつま先から頭の天辺まで熟視する。
得られた情報は、相変わらず可愛い向日葵ちゃんの姿。先ほどまでの名残りで潤んだままの瞳。
僕の一目惚れにして初恋の相手……の、女の子……?
「……やっぱり、勘違いしてますよね?」
呆れた顔の向日葵ちゃんが、ため息を吐いて僕を見つめた。
乱れる思考の中で、受け入れたくない事実を僕はようやく飲み込んだ。
「…………男なの?」
向日葵ちゃんは申し訳なさそうな顔で、けれどしっかりと首を縦に振って頷いた。
「はい」
嘘だと思うなら見せますよ──と。
何を見せてくれるつもりなのか聞いてみたい気もする。けれど、そこまでの余裕は今の僕にはなかったようだ。
頭が真っ白に染まっていくのを他人事のように感じながら、何も言葉にできず目の前の向日葵ちゃんを見つめていた。
ただ呆然と宙空を眺めているかのような、そんな気分だった。
「おれ、片付けあるんで戻ります。……すみません」
その言葉を最後に背を向けて離れていく。そして、そのまま走り去る向日葵ちゃんの背中を呆然としたまま見送り、木村さんの言っていた言葉を思い出した。
打ちのめされるってこういうことだったのか──。
まさか、向日葵ちゃんが男の子だなんて微塵も考えてなかった。
身近に昴という、女の子に負けない可愛らしさを披露していた男がいるのだから少しは疑うべきだったのだろうか。
けれど、昴は女装していなければ女の子に間違うような容姿はしていない。顔はその辺の女の子より綺麗だが、綺麗な男という印象に留まる。体格もけして女の子に間違うようなことはない。
向日葵ちゃんは、体格も小柄で少し背の高い女の子にしか思えなかった。加えてあの可憐な容姿だ。見た目だけでは男だと判断できるものがない。
根本的な間違いに気づかず、本能が惹かれるままに口説いてしまった。僕としたことが不甲斐ない。
そう反省しつつも、考えてしまうのは向日葵ちゃんのことばかりで……。男相手に未練たらしく感慨に耽るなど、自分にあり得るはずがないのに。
夕日の差し込む教室で、足元の影を一瞥するとため息が出た。
向日葵ちゃんが走り去ってから暫く、取り残された教室で何を考えるでもなく一人ぼーっと窓の外を眺めていると、昴と昌斗のご両人が帰ってきた。
仲睦まじい二人は、どこそこで睦み合ってきたのか、その名残りをメイド服のスカートに刻んでいた。
いつもと違う雰囲気に包まれた学校。誰もいない教室──この二人がどこで睦み合ったのかは知らないが──で二人きり。少しばかり大胆にさせてしまうのは、文化祭というお祭り気分の所為だろうか? 甘えてくる恋人をその腕に抱きしめると、知らぬうちに高揚している自身の昂りに気づき、唇を重ねてしまえばあとはもう止まらない。
「青春だよね……」
何というか、羨ましい限りだ。
僕は先ほど失恋したというのに。二人が醸し出す幸せオーラに当てられてしまいそうだ。
──いや待て。僕は失恋したのか? 相手は男の子だったんだからこれは失恋ではないだろう。僕は女の子が大好きなのだ。男相手に恋などしない。だからこれは恋ではない。ただの勘違いだ。
そう思うのに、心はモヤモヤと僕を悩ませる。仮に失恋したんだとしても、いつもなら縁がなかったんだとすぐに切り替えができるのに、この蟠りはなんだろうか?
森崎 向日葵──彼のことがどう頑張っても脳裏から離れてくれない。女の子のように可愛いくせに、女の子ではないなんて。並の女の子より可愛い容姿で、口説いた時には今までの誰よりも愉しい反応を見せたのに。あんなにはにかんで僕を見つめていたくせに、最後にはあっさりきっぱりと拒絶された。
哀しい……のだろうか? 心が満たされない、そんな感じがする。そう思ってしまうこの気持ちは何だろう? 何かってことを認めてしまうと後戻りできなくなりそうで怖い。
僕は、彼──向日葵ちゃんを…………。
取り留めのない思考が終点を見つけそうな時、後夜祭開始を告げる校内放送が流れた。
はっと我に返り、気を取り直して呆然と僕を見つめる二人に笑顔を見せた。
僕はいつもの調子でその場を取り繕い、何事もなかったんだと言わんばかりの足取りで後夜祭へと向かった。
***
橋田 太一。十七歳、秋。
萌芽しつつある何かに、今はこれ以上心を持っていかれないよう、やや強引に蓋をした。
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