夢喰 | ナノ
69

下卑た笑い。
気持ちの悪い鼻息。
触れられそうな肌が冷えきっていく。
ああ、そうだ。これだよこれ。
私はこの地獄にいたんだ。
思い出したよ。
すっかり、ぬるま湯につかってたから。
あの時、わっちは無力で無知で、何より自分の幸せに無関心だった。
生きることも死ぬことも、諦めていた。
生きる覚悟もなければ、死ぬ覚悟もない、最低に中途半端で宙ぶらりんで、それなりに不幸な奴だった。

「出来たら、優しくしてほしいなー、なんてね」

柔らかそうな羽におおわれた梟のような天人に、虫酸の走るほど気色の悪い甘ったるい声でそう乞うているのは誰だ。

「そうだなあ」
「…なんでも、なんでもするわ。だから、痛くしないで?」
「なんでも?」
「…」

答え『わっち』?
いや、ファイナルアンサーにはまだ早い。

ねだるように首もとにじゃれつけば、相手さんの反応は思ったより悪くなかった。

───智香ちゃんは本当に素直だなあ。

裏切らないって決めたでしょ。

───助けを呼べば駆けつけるだろうよ

諦めないって決めたでしょ。

───あの時の姉上と同じ目だって言ってんだ

覚悟、したんだから。

───お帰りなさい、宝生さん。

わっちは───いや、私は、宝生智香は
どうしようもなく佐々木異三郎が好きだ。
だから、ちゃんとけりをつけるまで、生きてなきゃね。

「お願い」

前言撤回。ファイナルアンサー前だったから、変更大丈夫でしょうよ。

答え『私』

大量の羽毛に覆われて肌は分からない、が私はその首筋に唇を添えて、犬歯を頸動脈に、当てて。
僅かながらの自分に与えられた牙で、肉を噛み千切った。

ぶちんっ

してはいけない、音がした。


「ぐ、あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!」

じわり。口内に広がる鉄の味と臭い。
当然、天人は首をおさえて仰け反る。これだけで絶命までは追い込む事は元より不可能だと分かっていた。重要なのは、これから!

幸いにも手は後ろで手錠に繋がれていたが、足はそのままで大きな怪我もない。これは目的が目的だったためだろうが今の私にゃ心底ありがたかった。
間髪入れずに後ろの手を支点に腰を浮かして首を足で絡めとる。所謂卍固めのように。ただ、相手が抵抗してくることは必至。何せ相手の両手は自由なのだ。だから、あんなただ絞め続けるだけの生ぬるい攻めで終わらせる気はなかった。否、この攻撃で終わらせる気だった。
そのまま、右足に思いっきり力を入れ左に横倒しにする勢いを利用して────────


ごきん。


……………………
…………………………


はっ……はっ……はっ……
後に木霊するのは、興奮した自分の荒い呼吸と機械音。
念のため脈を確認する………………よし。
視界がすこぶる悪いが、靴を脱ぐのはもし見つからなかった際に再び履くのが不可能に近いため後ろ手に手錠の鍵を探す。………あった。腰のキーホルダーに入っている2つの鍵のうちのどちらかだろう。1つは検品のための手錠の鍵。もう1つは、恐らくこいつがここに入ってくるための、この部屋の鍵!
予想的中。苦戦しながらもなんとか手錠をはずし終えた両手首は酷いアザになっていた。ああ、こういうのが好きな輩もいたっけねェ。とんと理解できる気がしないし、しなくていいか。
ここで状況を整理してみよう。奴等には、まだ私が脱走しようとしていると気づかれてない。だからまだ部屋から出るのは早い。他に有用なものはないか天人の服をまさぐる。右のポケットからもう1つ鍵が出てきた。…恐らく、個室用。ただ、こいつの部屋が何処にあるのか分からない以上使い道はないだろう。
次に左ポケットからハンカチとティッシュ。女子か。
そして懐から───拳銃。プラス、右手に何故だか天人が持ってきていたらしい私の刀。…………よそう。何に使う気だったんだとか、そういうの、良くない。やめやめ。

とにかく、これで準備としてはまあ、整った方だろう。見取り図などこの建物の構造が分かるものがあれば良かったのだが。現状、ここが何処で何をするための施設なのか全く分からない。私がいるのはただの倉庫………として使われている、なんと言うのだろう。何かの動力を作っているような機械があった。
これは何だろう。空調か、電力か、それともこの建物を司る何かか。
どれでも壊せば異変があったことがすぐにバレて私が逃げ出したこともバレる。うん、惜しいけど今はそっとしとくか。

とりあえず、鍵は入手したものの扉から出ていくのは色々まずいでしょ。
幸いにも天井は低いし、ここは何かの動力室のようだから、配線の通り道くらいあるはず。機械から程近い天井に狙いを定めた私は刀を隙間に差し込んでガタガタと揺さぶってみる。あまり大きな音をたてられない上に、時間もあまりない。小さいネジだけだ。剥がれないことはない。お願い………!!

バキンッ

私の思いが通じたのかは定かでないが、兎に角、そこそこ大きな音をたててしまったが天井の板は外れた。それをそろりと地面に下ろし、刀を鞘に納めようとした、瞬間。

プシュー、と。
背後で扉の開く音がした。馬鹿な。早すぎる!
鞘にしまうこと無く扉の方向に刀を構える。どうする?たまたま見回り、何てこともありうる。その場合なら一瞬の隙をついた奇襲も可能だろう。
ただ、扉の先の主がもしこの異変に気づいて私を捕らえに来たのだとしたら。それも、もしあの夜私を捕まえたあの男であるならば、状況は絶望極まりない。

それは時間にすれば3秒にも満たなかったんだろう。ただ、私にとっては死刑宣告か否かの時間だったのだ。長く感じないはずはない。

「全く…。お転婆もほどほどに、ですよ?」
「…生憎と、気にするようなタチでも義理立てする男もいなくてねェ」


そしてその絶望ってやつは、案外簡単にやって来る。

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