弟の追憶(ss)

黒い書物に記された話。94頁目。

物心つく前から片割れはいつも隣にいた。いつも自分の先を歩き名前を呼んでくれるその姿は片割れというよりは兄のような存在で、幼い頃何かと臆病だった自分の目標であり太陽のような人だった。
今でこそ他人には話せない家族仲も昔こそまだマシだった。

“おい、與未こっち!”
“與市、待ってよ”
“いらっしゃい市坊、みー坊。当主様方。今日も元気じゃないか”

“…あの子たち怪我しないかしら”
“子供は怪我して大きくなるものだよ、安心しなさい”

父が村を見回る時に與市が外に行きたいと強請り、それならばと家族四人で市場まで出かけることも幼い頃は確かに存在した記憶だ。いつからそんな日常が壊れたかと言えば、それは確実に自分のせいだろう。

最初はただの立ち眩みだったり、息苦しさがあったり、それだけのことだった。それが段々と酷くなり、眠気が治まらなくなり半日以上眠っていることもザラになっていた。
急に倒れることも多く、與市と共に入れる時間も目覚める度に少なっていることにも気づいていた。
体調を崩し自分が床に伏す度に、側にいる母はいつもその端正な顔を心底申し訳なさそうに歪めていた。綺麗に整えられた爪でゆっくり髪を梳かれるのは嫌いではなかったが、母のその表情を見る度に胸は締め付けられていた。
そして母はいつも決まって自分に謝り、何度も同じ言葉を言うのだ。
“ちゃんと生んであげれなくてごめんなさい”、“普通の力さえ、せめてあれば”
母にそんな顔をさせたくはない、母のせいではないという思いはあったものの、自分の意思で身体を動かせる余裕は当時にはなかった。ただ一つこの時に理解していたのは、自分が“ちゃんと”生まれて来れなかったこと、そのせいで母にも家族にも迷惑をかけてしまっている、それだけだった。
與市は段々塞ぎ込むことか多かった自分を心配していたのだろう。時々使用人や両親の目を盗んでは外に連れ出してくれた。
“秘密基地だ”なんて言いながら得意気に笑うその姿はとても眩しくて、自分の片割れ以前にこの人は上に立つべくして生まれてきたのだろう、などそんなことを思わずにはいられなかった。

『ちゃんと』とは…確実で間違いのないさま、結果が十分であるさま。
先日書物で見つけたその言葉の意味が引っ掛かってしまったことで顔に出ていたのか、秘密基地でいつものように人の目を盗み二人で過ごしていた時だ。普段は好き勝手に過ごしている與市がこちらを気にして声をかけてきた。
「與未?どうした、体調キツいか?」
「……、何で?」
「何だかすごく不安そうな顔してる」
「與市はさ、ちゃんと、って意味分かる?」
「は?何だそれ」
「…“ちゃんと”って、どういう意味なのかな…」
「きちんと、とかそういうのと同意義なんじゃねぇの?話し言葉であってそんな文章には使われないことだろうし。……誰かに何か言われたのか?」
意味が分からない、目の前にいる相手の表情はそう物語っていた。そりゃいきなりこんなことを聞かれたら誰だってそんな顔になるだろう。しかしそこは何だかんだ聡い與市のことだ、昔は今よりも感情を誤魔化すことが苦手だった自分の表情に何か感じるものがあったのかすぐにその端正な眉を顰めてほぼ確信だろうというように問いかけてくる。
「そんな言葉真に受けるなよ。お前はお前だ。」
「……うん、ありがとう、與市。」
それを言ってきたのが例えば母だと言っても與市は同じ言葉を返してくれただろうか。この時の自分は無条件に味方でいてくれる存在を手放すことが出来ずそれを問いかけることが出来なかったのだ。
それはついに彼が自分を連れ出していたことが周りにばれて、体調が完全に安定するまで外出を禁止されてしまうまで與市に言うことは出来なかった。

十を過ぎた時だっただろうか、体調はよくなるどころか悪化する一方で寝込むことの方が多くなってきていることは自分の身体故に分かっていた。與市は日々幼いながらにもその身に科せられた当主への勉学などに縛り付けられているようで顔を見れる時も大分減ってしまった。
それでも自分のことは気にしてくれているのかこっそり抜け出しては話し相手にもなってくれていたのだ。
しかしそんな日常も僕らには許されなかったのだろう、たまたまいつものように抜け出してきた與市を母が見つけてしまった。
その日は体調がまだいつもより良くて部屋から出てきていた自分のそんな姿を見て、與市は顔を綻ばせて庭から近付いてこようとしたのだ。しかし自分が口を開くよりも先に目の前に立ちはだかったのは母の姿で、與市は足を止めると酷く顔を顰めて嫌悪感を隠すことをしなかった。
「與市…?貴方どうしてここにいるの?」
「…………母上」
「また勉強を抜け出してきたのですね」
「何でだよ。まだ何も言ってないだろ」
「お父様に恥をかかせるんじゃありません。次期当主としての自覚をなさい」
「……なんだよ、こういう時だけ…」
「與市、聞いているのですか。貴方は」
「…るさい」
この頃の母はどんどん可笑しくなっているような気がした。與市のことを見なくなった、話しかけもしなかった。まるで恐ろしいものを見るような目をしているのだ。自分には何度も謝罪を繰り返し、母自身を責め出すその姿に何も言えず、じわじわと感じていた違和感も父に相談することが出来なかった。
もしこの時、自分に勇気というものがあったならば家族はこれ以上離れ離れになることはなかったのだろうか
「母様やめて…」
それでもこの時自分から出たのは愚かにも震えた小さな声だけで。
「貴方さえ、貴方たちさえちゃんと生まれたら私は…」
「っ!」
貴方"たち"、という言葉に與市の瞳が大きく見開かれる。嗚呼、彼は気付いてしまったのだろう。
いつも明るく笑っていた與市の表情が崩れていくのを呆然と見つめる。それと同時に彼を中心に何か大きな力が生じるのを感じた。妖力が低い筈の自分がその微かな妖気の変化を感じ取れたのは双子故の奇跡だったのだろうか。
「何で貴方は私の手を煩わせてばかり…!」
「っ煩い!與未以外皆…!“俺”を見てくれない癖に!!」
「與市!母様!駄目…っ!」
−止めなくては、與市に母殺しの罪を被せてはいけない
そう思ったのは一瞬のことで、気がつけば母と與市の間に入った瞬間ぐらり、と身体が重くなり母の悲鳴を最後に床に倒れ込んでしまった。

女性の泣き声が聞こえる。この声は誰だろうか。自分と、片割れの名前だ。誰かに抱えられている。目を開けることができない。自分の身体ではないくらい手足が重い。今すぐ片割れの名前を呼んで駆け寄りたいのに口から出るのはほんの微かな空気だけだった。
「この、化け物……ッ!」
−嗚呼、母親である貴女がその一言を言ってはならなかったのに。

それから簡単に言えば母親も與市も自分の側にいることはなくなった。その代わり父の部屋で療養することになった為か今まで当主の役目だの仕事だので屋敷を空けるばかりだった父が自分の側にいてくれることが多くなり、部屋で仕事をしている後ろ姿を布団から見ている日が常となった。
それでも以前のように更に動くことも起き上がることも日々難しくなっていることは子供ながらに分かっていた。
はっきりと現実を突きつけられたのは十一を数える年の紅葉が落ちる頃だっただろうか、たまたま父が部屋におらず一人で目が覚めてしまった時があった。冬に移り変わりつつある気候のせいか喉はケホ、と乾いた咳を零す。水分が欲しい、とどうにか長い時間をかけて身体を起こすと背にある翼から何枚かの羽根が抜け落ちた。
ずっと横になっているため、擦れてしまうことも多い分抜け落ちやすいのだという父の言葉を思い出し布団から羽根をどかそうとそれらに手を伸ばした時だった。まだ落ちてから数分も経っていないのに気化するように自分の羽根が消えてしまったのだ。
ドクリ、と心臓が緊張したように大きく跳ねた。そうしているうちにも抜け落ちた何枚かの羽根は全て溶けるように消える。それが何を表しているのか分からない程馬鹿な子供でもなかった。
「おや、すまないね。起きていたのかい」
「!…………父様」
書庫にでも行っていたのだろうか、抱えていた何冊かの書物を机に置けば自分の布団の横に父が座る。そのまま撫でようと手を伸ばすもその手は自分に触れることなく下ろされる。倒れてからというもの、父は自分に最低限しか触れなくなった。
羽根の消滅の早さ、日々動けなくなる体、父以外の者と会うことがないこと、側にいる父も自分には触れないこと。もう結論は出ているものだった。
ぶつり、と音を立てて二、三枚の翼を勢いよく自分で引き抜いた。その行動を見た父は驚いたように微かに目を見開いたが何も言わずに自分の行動を見つめる。抜け落ちたわけでもない羽根でも何秒かかけて手の中で消えいくのを見届けたあと、静かに口を開いた。
「…僕は、あとどのくらいもつの?」
「…………、冬を越えられるか、越えられないか……與未、お前は」
「大丈夫…何も言わないで」
謝罪など父の口から聞きたく無かった。言い訳も、ただの事実も今は聞きたく無かった。
覚悟と同時に心に突き刺さったことは次の誕生日には自分は與市の片割れとして存在できないということ、ただそれだけだった。
庭の紅く色付いていた紅葉の景色も消え、段々村の粧いも冬に変わっていく頃には自分の限界もじわじわと近づいてきていることが分かった。使用人の中にも勘づいてきている者はいるらしく、時々障子越しに人の気配を感じることもあったが止められているのか誰も部屋に来ることはなかった。
自由に動くことも、話すこともろくにできず妖力がいつ尽きても可笑しくない生き地獄のような毎日が続いている中で思い出すものは最後に見た與市の悲しみに満ちた泣きそうな表情で。どうせなら最期は笑顔が見たいと思った。
自分のことを必死に気にかけてくれた與市を、片割れをどうしたら自分は笑顔に出来るだろうか。どうしたら自分は片割れの役に立てるだろうか。もし自分のこの失われていくだけの妖力を片割れに渡せたならば、片割れが自分の妖力の半分を奪って産まれたなどという馬鹿げた噂はなくなるだろうか。片割れの妖力を奪って無理矢理産まれてきたのは自分かもしれないというのに。
そんなことばかりを考え、願い、終わりをただ待ちながら日々過ごしていた。
そんなあくる日、ガラリ、と部屋の障子が開いた音がしたと思えばどこか見知った妖気がそのまま部屋に満ちた。しかしこの部屋に入れるのは父だけだろうと、出るのは掠れた声だがどうかしたのかと声をかけた。
「っ……と、さま…?」
「…………與未?」
聞こえてきた声に一瞬耳を疑った。
とうとう自分の我儘が幻として出てきてしまったのかという思いもしたが、感じる妖気は確かに誰かがいるということを示していた。真偽を確かめたいとどうにか目をこじ開け目の前の姿を視界に入れる。
記憶の中より少し伸びた髪に、子供特有のあどけなさが抜けてきた顔。それでも赤みがかった紫水晶の瞳は変わらずそのままで、真っ直ぐに自分を映していた。
会いに来てくれた。
それだけで何も考えられない程嬉しくて視界が歪む。しかし涙を零せばこの姿は揺らいでしまうだろうと思い、ぐっと涙を慌てて堪えた。代わりに口元には自然と笑みがこぼれ落ち片割れを求めるように名前を紡ぐ。
「與市……よかった、このまま会えなかったら…どうしようかと……」
「……悪い。俺、お前の体のこと何も分かってなくて」
分厚い書物を抱えたまま少し気まずそうな、まるで言葉を探しているように與市の口が何度か開閉し発せられたのは謝罪の言葉。
嗚呼この人はもう自分の身体のことはもう知っているのだろう。ならば伝えたいことは一つだった。
自分の妖力を片割れの物にして欲しい、と。
今この時を逃せばもう與市と話せる機会はないだろう。
そんな気がしてならなくて、懸命に声が掠れていようと必死に言葉を紡いだ。
「謝ら、ないで……これは僕に架せられたものだから。與市は悪くない……ねぇ、僕は與市の役に立てるんだったら………與市?」
−どうか僕が尽きる前に妖力を奪って。
しかしそんな自分の思いを知るはずもない彼に手を握られたことによって遮られてしまう。
「なぁ、與未。今からすることはお前にとって苦しいかもしれない、痛みもあるかもしれない。それは俺の自己満足だと怒っても構わない、それでも俺はお前を助けたい。」
「………………。」
「與未…お願いだ、俺と一緒に生きてくれ」
與市の手は酷く冷えていた。ずっと外にいたのだろうかといえるほどに冷たさ持ったその手は自分の手をしっかりと握り締めてくる。まるで言葉の通り、自分を離さないと、死なせてたまるかというように震えながらも手を決して離そうとはしなかった。
母の愛は重たく苦しかった。父の愛はどこか諦めもあった。村の誰からも見放されていた。だからこそ僕はせめて尽きる前に彼の力になりたいと思った。それなのに與市は、片割れは、
「……馬鹿、じゃないの…與市がそう、望むのなら僕は…」
真っ直ぐに片割れとしての、弟としての、ただの“自分”を必要としてくれた。
それだけで自分は救われたのだ。
だから與市が必要としなくなるまでその身を捧げようと思った。
「…ねぇ、僕、は何か…」
「お前しんどいだろ。大丈夫、俺もまだ成人してねぇからさ。ちゃんとした方は出来ないんだ」
「ちゃんとした方…?」
「そう、自分の珠玉使うらしいんだけどさ。成人してないと取り出す行為自体が危ないらしくて、お前も痛み続くの嫌だろ?」
どうやら抱えていた書物は自分に関するものだったらしい。恐らくそこに書かれているのであろう文字を追う與市の顔が少々険しくなっているのを見て、果たしてその方法とやらをして彼自身は大丈夫なのだろうかという一抹の不安と恐怖が過ぎった。
そんな自分の気を知ってか知らずか…いや、與市のことだから表情には気づいているのだろう。自分の気を逸らす為かいつものように微笑んでから、前髪を掻き分けられ額をコツンと合わされた。重なっている掌と同じように伝わる温かな体温に安心して目は自然と閉じられた。
トクン、トクンと伝わってくる與市の命の音に微睡んでいたのも束の間のことで、急に自分の中に入り込んできた感じたこともない膨大な“何か”に息が詰まり握っていた彼の手に爪を立ててしまった。
咄嗟に止めなければ、とは思うものの一度入ってしまった力が抜けることはなく、與市も自分の手を離すということはしなかった。彼から流れ込んできたものは自分の中ですぐ馴染んだりすることはなく、波のように押し寄せてくる気持ち悪さに揺さぶられ続けた。
“貴方さえちゃんと生まれていたら”
“双子が悪いのは言いませんがせめてもっと集落の足を引っ張らない…”
“すまないね、お前も本当は外に出たいだろうに”
“この、化け物…ッ!!”
今まで聞いてきた周りの人々の声がガンガンと頭に響いてくる。
−ごめんなさい。僕がもっとちゃんとしていれば。僕が生まれなければ。與市のことを悪く言わないで。許して。
自分が既に何かを叫んでいるのか、意識を失っているのか、泣いているのか、全く分からなかった。
ただそれでも“大丈夫”と繰り返される言葉と手から伝わる温度に許された気がして、ゆっくりと意識は沈んでいった。

その後は目まぐるしい早さで変化していった。あの日の出来事は與市本人から力を分け与えてもらったのだと教えてもらった。
父親や屋敷の者はいつ消滅しても可笑しくなかった状態の自分が急に起き上がることが出来るほど生命力が戻ったことに酷く驚いていた。
與市が勝手にしたことだと知ったのはそのすぐ後のことで、軽く父と共に彼に説教したのはこの時が初めてだったと思う。
力は度々分けて貰わないといけなくなったのだが、無事に成人の儀も迎える事ができ與市の補佐役を任され、そんなこんなで今現在も彼の隣にいる状態が続いていた。
昔は限られた人としか関わらなかった為、最低限のことをすれば自分の世界に閉じこもっていても良かった。だが、当主の補佐となればそうは言ってられなかった。変わらなければ、そう思う程に世間の目は優しくなかったのだ。
もちろん妖力がないからと特別扱いしてもらいたくもなかった。でも妖力がここまで重要視されてしまうとも幼い頃の自分は思っていなかった。
“一族の恥晒し”、“当主の顔に泥を塗っている”
一歩外に出てしまえばそんな言葉なんて至る場所から聞こえてきた。分かっていたつもりだった。つもりでは甘かった。
一番腹が立ってしまったのは次期当主としての重荷を既に十分に抱えている片割れにまだ無様にも縋り付き、荷物を増やそうとしていた自分自身だった。
−子供じゃない。甘えてはいけない。父も與市も村のことで大変なのだ。母のことも何とかしなくてはいけない、あの人は自分のせいで狂ってしまった。
ちゃんと生まれなかった、普通じゃない、ならば自分の当たり前はこういうことなのだろう。せめて愛された分は返さなければ。
そう考えていれば全て割り切れた。楽になれた。何を言われても何も考えなくて済んだ。母と同じように可笑しくなったと言われたらそれはそれでいいだろう、紛うことなき自分はあの人の血を継いでいるのだ。ただ與市が自分を必要としなくなった場合のことを考えるとこの世界は自分にとってひたすらに生き難かった。
片割れの名前も呼ばなくなり、敬語も使い始めた。次期当主とは呼ばず兄と評したのは自分の中では当主になろうとも與市は與市だったからだ。自分の中で呼び方だけでも区別して壁を作らねばまた立場を勘違いしてしまいそうだったのだ。最初に兄と呼んだ時、彼は酷く驚いた顔と悲しそうな瞳をしたが何も言わなかった。
しかし、母親の相手を一人でしていることがバレた時は珍しく酷く怒られた。何も知らない癖に、と自分もその時は頭に血が上ってしまい殆ど初めてに近い兄弟喧嘩もした。
結局自分が折れて母親のことは互いで看ているわけだが、余所見をしたりしなければ酷くならない自分に対し、兄の怪我はどんどん酷くなる一方で翌日その姿を見ることがただただ辛かった。そんな自分の表情を見ると兄は髪を撫でて笑うのだ、力を分け与えた時と同じように一言“大丈夫だ”と告げて。本当は大丈夫なことなんてない筈なのに。

「…………、與市が朝変なことを言うもんだから…全く」
今朝、過去の夢を見た、などと零した兄のせいで今日は完全に上の空になっていたらしい。母自身をどこか見ていない自分に腹が立ったのか、単に虫の居所が悪かったのかは知る所ではないが、母に思い切り絞められた首を擦る。未だに気管が圧迫された感覚がそこにはじわじわと残っていた。ピリ、と広がった痛みは恐らく伸び放題になっている爪のせいだろう
「痕になっているだろうなぁ…あ、切り傷もある。また爪切ってあげなきゃ與市が怪我するかな……」
誰もいない屋敷の廊下に自分の独り言が響く。夜遅くということもあり、それは拾う者もいなく暗闇に広がった。痕が残るとなると兄が煩そうだが受けたものは仕方ないと首から手を離した。
月明かりもない薄ら暗い庭へ顔を向ければ、夜風が優しく頬を撫でる感覚に目を細める。何もかもを包み込む闇はとても気持ち良く、楽だった。
「このまま溶けてしまえばいいのに。」
いつからだろう、一人になった時に自然とこの言葉が出るようになったのは。自室にいても湖にいても庭にいてもいつでも口に出てしまうのだ。
兄と共にいたいと思っているはずなのに、無意識に口をついて出るのはこんな言葉だなんて。
「…馬鹿らしい。情けない。」
だからこそ自分を化かすのだ。兄が自分を糧としてくれるまで。慕う人……自分の足りない物を補ってくれる人だなんて今後現れるはずもないのだから。
「普通じゃないから、ちゃんとしなきゃ」
春風なんて吹かなくていい。叶うことならずっと雪の下で眠っていたかった。

−此れは母親の歪な愛情を受けて育ち、愛を誤解して可笑しくなってしまった弟の話。

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