▼漫画家はその背景が見たい


異質だ。綴られた文字の意味するものを理解するより先に、岸辺露伴が『彼女の見る世界』に対して感じたのはそれだった。
矢を受けてからの数ヵ月の間に何人の人生を覗き見て来たかなど覚えちゃいない。露伴にとって重要なのはあくまでその中身であり、本にした人間の累計などではないからだ。それであっても、少なくとも両手で数えきれるほど……たとえ両足を使ったにしても数えきれるほどの人数でないことだけは記録するまでもなく明らかなことで、それだけの数を覗き見てきたからこそ、露伴の中に理解された傾向というものが存在するのである。それは己の持つ能力の詳細、本の示す対象者の心理的内面の特徴について。
普通、本の中身は乱雑だ。記憶にはその人にとって衝撃的な出来事……常に心の真ん中にあり続けるような重要な出来事もあれば、ほんの些細なことで消え去りそうなどうでもいい出来事まで存在する。彼らの中にある記憶の重要性は、その文字の大きさであるとか、記事の見出しでも飾ろうとするかのような字体であるとか、とにかく文字そのものが存在を主張するかのような在り方をする。
縦書き横書きの違いだってそうだ。それらが複合した本もあれば、一貫して縦書き、または一貫して横書きである本もある。箇条書きの文字、まとまらない思考を書き留めたようなぼんやりした記述。一つの事実を記述するにあたっても、その言葉遣いに気質というものが滲み出たりもする。
書かれている内容だけではない。その書き方にも人間性がある。どういう人間がどういったことを感じるのか。どういう人間であるからこの経験があるのか。露伴が求めるリアリティというものには、なぜ、どうして、とあらゆる背景までの探求が必要不可欠なのである。
そして今、露伴の『なぜ』は、解決されないままに空条緒都へと向いている。
空条緒都。彼女の『世界』は整然としていた。あの文面を一言で示すなら、ただそれにつきる。
大小ない均一な文字列。淡々と綴るようでいて、文体は決して乱雑としたメモではない。まるで物語の断片だ。繊細に、詳細に、客観的に。あんな文面を見たのは初めてだった。
異質。特異。あれが彼女の見る世界。彼女の世界の捉え方。まるで一線引いた外側から世界を見るような、ガラスの向こう側から箱庭の中でも覗くかのような。そこには確かな距離がある。川を挟んだ対岸に立つような距離を、露伴は確かに感じていた。
この感覚だけは、きっと彼女の兄も、その親友にも理解はされていない。だがわざわざそれを説明して知らせてやるほどお人よしであるつもりはないし、露伴には知らせる以上に知りたい欲求が先立っている。
「花京院さん、死ぬ予定だったんですか?」
だからこその、これだ。遠慮というものを知らない物言いに自覚がないわけではないが、前のめろうとする興味の前に立てる言葉は露伴の中には存在しなかったし、花京院もまたそんな露伴の気質を十分理解しているようだった。ただ露伴にとって意外だったのは、目の前で悠然と紅茶を飲む彼の反応に一切の驚きがなかったことだ。空条緒都の内側を読んだ以上は、いつかこの質問が飛んでくると予測していたのだろうか。とはいえそんな予測を立てるためには、露伴が何を読んだのかという事前情報が必要であるはずだが。この様子を見るに、あの時、承太郎と露伴が残った病室からわざわざ席を外しつつも、結局はその後に読んだ内容を伝え聞いていたらしい。さしずめ不必要な情報ではないと承太郎からの情報提供があった、というところだろう。
「死んでいてもおかしくはなかったな」
花京院はゆっくりと紅茶を飲み込んで静かにカップを置く、長い間をおいてからあっさりと答えた。
「そのリアクション、何を読んだのか承太郎さんから聞いてましたか」
「そりゃあね。君に箝口令を敷いたのは僕だぞ」
「敷かれたのは読む前でしたけどね。あなたからわざわざ念押しされたときは、余程のものが眠っているんだとわくわくしましたよ」
露伴はもとより読むことを漫画のため以外に使うことはない。話のネタに盛り込む、という意味では世間に露見させるとも言えるが、少なくとも誰がどうこうという個人情報をべらべらと口にはしないし(話してしまえばネタに使えない)、それを使って誰かをいいように脅すなんてつもりもない(相手が相当にいけすかない奴か、自分に危害を加える誰かならば話は別だが)。
ともかく岸辺露伴と言う人間は良くも悪くもストイック。それは花京院からの評価でもあったし、つまりは彼自身が露伴にわざわざ口止めをする必要はないと理解しているということを意味する。だというのに、そこにわざわざの念押しだ。
『彼女の中から得た情報に関しては、その全てを秘匿事項とする。どんな形であれ、外部への漏洩は許されない』
だからこそ、彼の所属組織外の人間である露伴にまで強制しようとするあの言葉がひどく気にかかった。
『花京院さん、それはどこまでを内部とした発言ですか?』
ああ問い返したときの自分の瞳孔は開きっぱなしであっただろう。彼の命令が、彼の守りたい領域が、恐らくは所属組織さえも外側へと弾いた狭い領域であることに――そこになにか人間臭い心理的糸の絡まりを見いだした気がして、どうしようもなく知りたい欲求が生まれたのだ。
結果としてあの時の勘は間違いではなかったわけだ。露伴は両手を組み、じっと花京院を見て釣りあがりそうになる口端をどうにか堪える。
「それで、僕はどこまでなら聞いてもいいんです?」
ようやくの本題は、露伴がわざわざ花京院に連絡を付けた最大の理由である。花京院はこの問いをも分かっていたような顔で、同じく両手を組んで落ち着いた笑みを見せた。
「君がすでに知ってしまった範囲と、今後必要となるところまで、だな」
「今後?」
「別に、何かを予定しているわけじゃあない。必要がなければそれまでだ」
「それじゃあ僕がつまらないんですがね」
「つまるつまらないで許可範囲を広げられるほど軽い事柄じゃないものでね」
寂れた喫茶店の隅で向き合ったこの男は、一向に姿勢を変える気はないらしい。空条緒都に関する決定権は恐らく空条承太郎にあるのだろう。けれども露伴はそこに明確な上下感を見出せない。ジョースターの血筋とSPW財団。この関係性については以前に聞いたことがあるし、承太郎と花京院の関係にもまた当てはまる部分があるとは客観的視点でも思う。だが良くも悪くも空条承太郎と花京院典明は対等だ。これもまた、露伴の客観的意見である。
だからこそ、これがまた、たまらなく面白い。
「露伴くん、活き活きしてるね」
花京院はやはり笑みを崩さず、見透かしたようにくつくつと喉を鳴らした。露伴はその笑顔の奥にあるものが見たい。
人には大小あれど聖域というものがある。それはごく一般に家族であったり、恋人であったり。時には思い出、場所、その意味と形は様々だ。触れられたくない、汚されたくない、奪われたくない何か。人の人生を覗き見てきた露伴にとって、聖域の存在自体に思うところは特にない。
だが今回は少し違う。今回目にした聖域の形は少々奇妙だ。『妹』『親友の妹』。彼らから見た彼女を形容するならそれがもっとも単純なのだが、三人としての関係性……彼らの間に彼女を挟んだ途端、そこに微妙な空気感を感じる。極端な表現をするならば、それは共有する信仰のような。この例えが正確にそれらを表現できているとは到底思えはしないが、何か神聖なものに触れるような、病室で見た承太郎の目にはうすら寒さすら感じたものだ。それが純粋な悪寒であったのか、未知のものへの興奮が呼び起こす類の悪寒であったのか、判定は微妙なところ。
そもそも彼らの間に挟まった空条緒都とは何者であるのか。あらゆる疑問は結局のところそこへ帰結する。
露伴があの日読んだ内容から把握していることとは断片的にも多数ある。例えばそれは彼女が不安定な足場の上にあることであったり、何らかの超自然的現象の影響を受けていることであったり。あの時露伴が読み取ったのは、緒都の深層世界のようなものではないかと考えている。それを百パーセント信頼できるとは思っていない。が、百パーセントデタラメで構成されたものであるとも思ってはいない。いわばあれは、意識の無かった彼女が見ていた夢だ。夢と言うのは決して無から構成されるものではない。細かな構成要素はあくまで彼女の中にあるものであり、それらがちぐはぐに構成されるがゆえに曖昧で意味が分からないものになるというだけの話だ。
不思議と無意識が7対3。記憶に残る落ち着いた字体が、補足するように露伴の脳裏へと浮かびあがる。
ともなれば、だ。あそこに記されていた『不思議』とは、緒都が向かい合っていた名のない『友人』が再三口にした『あちら』と『こちら』こそがその一部だろう。そんなものが存在するのかという疑問自体は、この三ヵ月近くまでスタンドと言う存在を知らなかった露伴に否定できるものではなかった。知るものが全てではない。世界には未知が溢れている。ここではないどこかが存在する可能性は十分にあって、彼女が自分ではどうにもできない力でそれらに振り回されるというのもまた事実である可能性は十分にあった。現に、彼女が『表紙を開いた』瞬間、スタンド能力は彼女には無いものとされた事実があるのだから。
「あなたたちにとっての緒都さんは聖女か何かですか?いや、いっそ罪人か?」
「おっと、斬新な見解だな。是非続きを聞きたい」
「過保護というか、束縛が強いという話ですよ。大事なら大事で、普通は危険地から遠ざけるものでしょう。承太郎さんの場合、妻子がそれだ」
「相変わらず君は情報収集能力に長けてるなあ」
「承太郎さんに関しては以前から興味はありましたからね。財団に足を運ぶ機会があれば、自然と集まる情報ですよ」
「自然と?はは、やめてくれよ。『読んだ』の間違いだろう?」
「何言ってるんですか。それは『自然と』の範囲内ですよ」
発現当初、相手に原稿を読ませるという面倒な段階を踏まなければならなかった露伴のスタンドも、花京院から指導を受けるうちに明確なビジョンとして姿を確立することが叶うようになっていった。おかげですれ違いざまにぺらっと捲らせてもらうことも可能になったわけで、その過程で自然と空条承太郎の情報が蓄積されていったのはあくまで自然なことだった。財団内の人間ならばそのほとんどに重要情報としてジョースターに関する情報が書き込まれているようなので。おかげで偏った企業理念や、十年前の彼、および今目の前で笑顔を崩さずにいる花京院が立ち向かったと言うDIOに関する情報も僅かながらに頭に入っている。これに関しては当人の経験を読めれば早い話なのだが、露伴は未だ花京院や承太郎にスタンド能力を向けられたためしがない。指導者である花京院にすっかり手の内がばれていると言うのは痛手だ。だがまあ、それで得られたものと天秤にかければ、彼に対して能力を完全開示している状態も甘んじて受け入れるだけの価値があると納得してはいるのだが。
そうこう考えていると、テーブルに腕を置いていた花京院がふと組んでいた手を解いて、軽く息を吐きながら椅子の背にそっともたれた。露伴がそんな花京院をじっと見やれば、返ってくるのは苦笑い。花京院は肩をすくめて口を開いた。
「深く考えすぎだよ、露伴くん」
「そうですか?」
「ああ。承太郎のあれは、突き詰めれば結局はただのシスターコンプレックスってやつさ。まあ、君が聖女だの罪人だのと極端な例えを持ち出した気持ちもわかるけどね」
「……自己犠牲のもと、神の声にもあたる予言を手にした。順序は逆にせよ、さながらオルレアンの乙女ってやつですかね。それとも、あなた達にとっては緒都さんが手にしたのは知恵の実だったのか」
こういった例え方が当然のように通じるから、露伴は花京院と話すのが嫌いじゃあないのである。当然彼は意味が分からないと首を傾げる様子もなく、わざわざ考え込むこともなく、率直に露伴の言いたいことを受け入れて目を閉じる。
沈黙は数秒。次にその目が開いた時には視線は茶色い天井を仰いでいて、懐かしむような声が静かに語った。
「……承太郎はね……何年前だったかな。次同じことがあったら……制御が叶うのなら、もう『見るな』と緒都ちゃんに言ったんだ」
「以前から現象の詳細は明らかになっていたんですか?」
「さてね。だが、記憶障害がそこに関係することは本能的に確信していたんだろう。承太郎は、再び妹を失ってまで予言を得たくはないと言っていた」
「それで、緒都さんは了解したんですか」
「快諾、ではなかったけどね。戸惑いながらも頷いたよ。まあ、それさえ忘れてしまっては無意味だったわけだけど」
「……」
「だからね、約束を破ったという意味では罪人でもあるだろう。そうでなくても、聖女よろしく天啓を受けたとも言えるだろうさ。……だが彼女は火刑にもならなければ、後に悲劇を生むこともない。そうさせるつもりは、毛頭ない」
花京院の目が真っ直ぐに露伴を射抜いた。とはいえそこにあるのは責めるようなそれではなく、純粋な覚悟の表れ、と言ったところか。今すぐにでもスケッチブックを取り出しそうになる手を押しとどめたのは空気を読んだからというわけではなく、単に話の腰を折ることでこの先が聞けなくなることを良しとしなかったからだ。露伴は強い眼光を記憶の中に焼き付けつつ、その傍らで数日前に読んだ文面を思い返す。
記憶に関する記述。あったにはあったのだが、それが今話題に出たような記憶障害についてをピンポイントで語っていたかと言われるとそうではなかった。
「まあ、表現の良し悪しは置いておくにしても。……納得がいかないのはなぜ記憶が失われるのか、だ」
「あなたの予測としては、代価かキャパシティオーバーってところですか?」
「そうだね。それについて『友人』は何も言っていなかったっけな」
言って、花京院は少し考える。そうしておもむろに顔を上げ、真剣な目で露伴を見た。
「先ほどの例え、否定しておいてなんなんだが」
明るい色の眉は寄り、どこか複雑そうに口許へと指が重なる。
「露伴くん、君はどう思うだろうか。『友人』は神か蛇か、どちらかな」
「そもそも、苦に至らしめるという点ではどちらも変わりませんよ。与えられるものだって、評価者が善と見るか悪と見るか……結局はどちらと感じるか、、それだけだ。……花京院さん、あなたにとってはどちらなんですか?僕はそれが聞きたいんだ」
ぱちぱちと目を瞬かせ、ほんの数秒置いてから「ブレないなあ、君は」と花京院はおかしそうに笑った。予想はしていたが、答える気はないらしい。問いかけておいてズルい人だとも思ったが、自分も二択について一択を示したわけではないので、ある意味ではお互い様なのかもしれない。それでも名残惜しい気持ちが消えずに花京院の目の奥を覗いてみる。残念ながら、彼の腹の内は隠されたままだ。挙句の果てにその目はなんてことない様子で腕時計に下り、「そろそろ時間だ」とこの場の終了を宣言する。花京院の手は会計表に伸びた。
……読みたい。
ついうずうずとしながら、露伴は財布を取り出す花京院をじっと見る。彼に倣うように自分も財布を取り出しつつも、頭の中は頼んだ紅茶の値段をふっとばし、今ここで得られる可能性の計算に全神経を注いでいた。正直形勢は悪い。いつもながら、彼に対して露伴は不利な位置にある。だからといって仕掛けることすらしないのでは、そこにあるのは百パーセントの負けだけだ。となれば、物は試しにというやつで、一発挑戦してみるくらい安いものではないだろうか。少なくとも目の前にいるのが冷酷な殺人鬼などではないことは確かなのだから。
が、それさえ見透かしたように「露伴くん」と声がかかる。
「今はやめておいた方がいいよ。怪我をするから」
そう言って花京院はおもむろに指を立て、指のはらでピンと何かを弾いた。一見何もないと思われた空での動作は、しかし、彼が解いたであろう気配によって途端に理解の及ぶものとなる。
知覚して思わずゾッとした。気配の露わになった細い糸は、スタンド一体分もスペースを許さぬ距離で所狭しと張り巡らされている。
「僕の十八番ってやつさ」
「……ヘブンズ・ドアーを発動させていたら、僕は蜂の巣だったわけですか」
「僕の意図する範囲外で触れてしまえばそうなるな」
露伴が花京院を呼び出した際、この場所が指定されたという時点で人払いのされた場所だとは予測がついていたが……そのうえでさらに警戒線まで張っていたとは、予測が足りていなかった。花京院にとってのここは手回しを済ませた、人やスタンドが立ち入るはずのない安全地帯。それでもなおやって来る存在があるとすれば、それは侵入者のみであると判断されるのだろう。
税込できっちり自分の分を会計表に乗せた露伴のはたで、「細かいのがないなあ」と花京院は紙幣を一枚取り出している。その飄々とした態度に完敗する。
「花京院さん」
立ち上がる前に露伴は口を開いた。呼びかければ当然花京院がこちらを見る。その瞳へ向けてソレを言い出すことに、もはや迷いはなかった。
「僕をローテーションに組み込んでください。あなたたちにとっての『内側』……結果的に今の僕はそこに片足を突っ込んでいる。余計に人を増やすわけにもいかない一方で、手札は多い方がいいというのも事実でしょう」
「……で、見返りは君の言うリアリティかい?ずけずけと緒都ちゃんに無遠慮な言葉を投げ掛けられても困るんだがな」
「即刻追い出されかねない行動はとりませんよ」
了承か拒否か。露伴が予測する可能性の割合は五分五分というところだ。利害の判断は判定者が何に重きを置いているかによって百八十度違ってくる。この場合、判定者は花京院典明であり、空条承太郎であり、そして空条緒都でもある。
花京院はすぐには何も言わなかった。会計表に乗せた露伴の硬貨を自分の紙幣の上に置き、皮財布を片手に立ち上がる。今すぐには答えはもらえないということだろうか。この件は保留持ち帰りということならば、それはそれで受け入れの余地があるということで構わないが。だがそうだというのなら、それなりの宣告が欲しいものだ。露伴は急かす様に花京院の名を呼ぼうとして、
「まあ、そういう流れになるだろうって、既に話は通してあるんだけどね」
さらりと告げられた言葉に、流石に唖然とした。
「さ、行こうか」
花京院は悪びれるでもなく、悪戯に笑うでもなく、なんてことない様子で露伴を振り向き会計へと向かう。深く息を吐きだした露伴が彼を追い連れ立って歩くころには、あのおぞましいほどの警戒線はすっかり姿を消していた。

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