▼妹は割とおいてけぼり


おじいちゃんショックから早数十日。四部の流れのあれこれをすでに承太郎へ伝達済みの緒都は、あちらへこちらへと忙しい承太郎たちを部屋で見送り、ひたすらに運動不足を加速させる日々を過ごしている。
ジョセフの件は確かにショックだった。紙面で見ている段階ではやはり他人事にしか受取れていなかったという事実を、現実として目にした瞬間に実感する。明確な時間の経過、緒都が抱える大きなギャップ。普通に過ごしていてもふとした瞬間に両親の老いを実感して寂しくなる、という話は聞いたことがあったが、恐らくあれはその種の感覚だろう。とはいえ今回の件は両親ではなく祖父だったわけで、いずれホリィを前にすることを考えれば、先に耐性をつけられたとでも考えておくべきだろうか。
何にせよ日を経れば緒都も現実を飲み込むことはできる。ジョセフが同じホテルに滞在するとなれば、適応するのにもそう時間はかからない。
というわけで、緒都の目下の悩みは十年のギャップではなく、もっと先、直接的に空条家に関わってくる第六部の複雑さにあった。
まだ時間的猶予がある状況だ。説明が即座に求められるわけではない。が、いずれは緒都の口からどうにか説明しなければならない事柄であることには違いなく、説明するということはそれだけ緒都が理解できていなければならないというのも事実。というわけで記憶にある記述を思い返してはややこしい話をどうにか理解しようとしているのだが、五部から一気に複雑化したスタンド戦同様、六部の時間を加速して一巡がどうのこうのというのは緒都にとっては複雑極まりない。それでも休み休み考えてみるその過程で、ふと気づいたことがある。
そう、大変なことに気づいてしまいました、だ。いつぞやのジョースターエジプトツアー御一行の敵はタロットだけじゃないんだぜショックなんて霞んで消えるほどの衝撃。緒都は片手間に衣服を畳んでいた手を止め、その衝撃に思わず目を見開いた。膝の上で右袖だけを畳んだ兄のインナーをじっと見下ろし、これはやばい、と思考は明後日の方を向いている。いや、正しくは明後日というよりうん十年後の未来の方向。一巡した先の世界について。
緒都にはスタンドが適用されない。緒都には時間の停止が適用されない。それは緒都の存在が本来生まれたままの世界……すなわち不思議現象の存在しない世界のルールで生きているからだ。
となれば、世界の一巡は緒都の身にどう受け止められることになるのだろう。そもそも一巡と言う概念が理解しきれていないのだ。一巡前と一巡後が存在するとして、一巡後に向かうということは一巡前の世界が死ぬというのと同義なのだろうか。
そうなったら緒都は?緒都のルールでは、世界は一巡などしないし、死にもしない。時間は加速するものではない。もしかして、加速した世界は緒都を置いてずっと先へ行ってしまうなんてこともあり得るのだろうか。そうなったら。例えばそう、今それが起こったら。同じ部屋にいる承太郎も、露伴も、杜王町のどこかにいる花京院やジョセフ、仗助も、皆一瞬の間に何処かへ行ってしまうことになるのだろうか。いや、むしろ逆か?緒都の目で見たらごく普通の速さで進む時計の針も、周囲には恐ろしく素早く回って見えるという可能性を考えると、むしろ緒都から見た全員が低速に……すなわち某神父が見るような世界が眼前に広がるということになるのか。
なにそれ怖すぎる。時間が止まるなんて比じゃない恐ろしさだ。想像して背筋がうすら寒くなった。不安のせいで一緒にお腹の底がぎゅっとなる。一巡の概念を理解しきれていない以上、今の想像はあくまで想像の域を出ないとはわかっていているのだけれども。
とにかく一度わき起こってしまうと止めどないもしもの恐怖。そこに緒都がすっかり意識を持っていかれてから実時間としてはどれだけ経ったころだろうか。
「!」
唐突に腕を掴みあげられて、緒都は心臓と共にびくりと肩を跳ね上げさせた。と同時に胸元辺りまでどっぷり浸かりかけていた不安から一瞬にして現実に引き上げられて、引っ張り上げてくれた存在……承太郎をはたと見上げてみる。
「……今、何してた」
「………………承太郎の服を畳んでた?」
「……」
「……」
はい、そういうことを聞いてるわけじゃないことはわかっています。無言時間に気圧されながら緒都は逃げる様に視線を下げる。
……あれ、でも私悪いことしてなくない?
居たたまれなさについ悪さをした子供の気分になっていたけれど、よくよく考えればそもそも何も叱られるようなことはしていない。ちょっぴり思考の海に浸って、ちょっぴり無意識に承太郎のインナーを握りしめて皺をつくってしまっただけだ。いや、やっぱり皺を作ったことに関しては無罪とは言い難いかもしれない。イエス、ちょいギルティ。そこだけはひとまず認めましょう。
だからこの手は離してほしい。というかこの無言時間から解放してほしい。何故って、今この空間には露伴もいるのだ。緒都が意識を遠い未来の方向へ飛ばす少し前までは、ヘブンズ・ドアーの操作可能範囲についての相談会が展開されていたのだから当然である。何やら、捕えたスタンド使いの処遇について、露伴の能力が相当役立つとかで。所々を聞きながらヘブンズ・ドアーの有能性にひたすら感心していたものだ。
ともかく今現在の状況は他人様の前。そこで叱られるようなこの状況はさすがに恥ずかしいしご遠慮願いたい。緒都は困って視線を泳がせ、ちょっとこの体勢から逃げるつもりで、掴まれた腕をぐいぐい引っ張ってみた。びくともしねえ。というわけでそれは早々に諦める。
「……」
「……」
沈黙、沈黙、沈黙。……重い。重いです兄上。
必死の訴えは心の中で。そもそも何を叱られているのかがよくわからない。服の皺については絶対に違うと断言できるから、余計に原因探しが難航する。
しかし助け舟は意外なところからやってきた。ガリガリガリ、といっそ恐ろしくなるほどの筆圧音だ。それが場の空気をある意味で和らげている。音に気付いてそちらを向けば、視界の端で承太郎も同じ方向を見た。
「あ、お気になさらず。どうぞ続けてください」
音の正体はわかりきっていたが、やはり間違いなく岸辺露伴であった。当の本人はと言えば、二人分の視線を受けても全く何も気にした様子もなく鉛筆を動かし続けている。
「……はあ」
承太郎が深いため息をついた。と同時に掴まれていた腕が解放されて、兄は「悪かった」という謝罪と共に妹へ頭撫でを贈呈。返答に困る緒都の横にどかりと座った巨体から、少し間をおいて「……出かけるか」と謎の提案がやってきた。
「平気なの?」
「丁度二人いるしな。気分転換、何か欲しいだろ」
「出かけて良いなら本屋に行きたい。……でもなんで二人?」
「何かあった時のための足止め役と護衛役が欲しいから、だ」
「……なんか申し訳ないな」
いつの間にかお守りのローテーションに組まれているような露伴に対して特にそう思う。自然と下がる肩は気持ちの表れだが、露伴はといえばやはり気にした様子もなく、当然のようにスケッチブックをしまって鞄を片手に立ち上がっている。「承太郎さんの車ですか?」「ああ」というやり取りに彼もまた成人済みの免許持ちだということを思い出して、何とも言い難い気分になった。身体的には年下であるはずの露伴の方がよほど自立して見える。
「緒都さん、本屋以外も希望はありますか?今思いつく範囲で」
「え?あ、ありません」
「なら普通に商店街の大きな本屋でよさそうですね」
「……よろしくお願いします」
「いえ、運転は承太郎さんですから」
尊敬したい、このさばさば感。いや、ハキハキ感?
話は出来ても何かとどもることの多い緒都としては、彼のこの感じはぜひとも見習いたいポイントだ。先を歩く二人の背を眺めながらそう思う。そしてきっと思うだけで終わるんだろうなとも思う。自分のことは自分でよくわかっていた。虚しき。
「承太郎さん、まさか蛇だと思いました?」
「……あれきりだと思うか」
「断言はできませんけど、蛇が来たなら僕が呼ばれたときと同じ状況になると思うので。この間、花京院さんもそっち寄りの意見じゃありませんでした?」
妹、お話についていけない。虚しき。





「露伴さんの出版社ってどこですか?」
ハードカバーを一冊と文庫を一冊腕に抱え、緒都は一歩後ろを歩いていた露伴を振り返り問いかける。岸辺露伴著作の作品が気にならないわけがないというやつである。車に乗っていた時点でこれを機に買ってみようと思っていたのだ。といっても今の資金管理は承太郎が行っているので、買ってもらうという形になってしまうのだが。まあその辺りのやりくりは身内相手なら追々どうにかできるので、特にこだわるつもりはない。
「買わなくても、家にあるのでお貸ししますよ」
「え、でも保存版とかじゃないんですか?」
「ああ……まとめ買いのボックス版なんかが出ると自然と重複することになるので、それぞれ一揃え以上ありますね。緒都さんが気にならないのなら、僕は特に問題ありませんけど。どうします?」
「露伴さんが構わないのなら、是非。読んでみたかったんです」
ピンクダークの少年、タイトルがまずオシャレだ。早くもわくわくし始める緒都から視線を外した露伴は、少し奥の棚の前に立つ承太郎を見て「承太郎さん」と呼びかける。帰りに露伴宅へ寄ってもらうよう頼むつもりなのだろう。案の定、こちらへ数歩でやってきた承太郎に続ける言葉はほぼ予想通りのもので、しかし承太郎から返ってきたのは予想外の言葉であった。
「緒都の家にあったな、そういえば」
「え?一人暮らしの?」
「ああ。……とはいえ、そっちまで取りに行くとなると時間がかかる。貸してもらえるってんなら貸してもらえ。帰りに寄ろう」
記憶喪失前の空条緒都は岸辺露伴のファンであったらしい。……失われた期間の緒都が本当に緒都であったのかという疑問は解消されないままであるが、記憶喪失が正解であった場合は純粋な興味でその本に手を出したんだろうなと思う。事前知識として岸辺露伴と言う名前は頭の片隅にあっただろうから。
しかしなんだろう。ちょっと恥ずかしい。今まで何事もなく接していましたけど実はしっかり作品を買い揃えたファンだったんです、とおおっぴらに明かしたような気分だ。耳がほんのり赤らんではいまいかという照れくささは「二回も初見気分で楽しめるのはお得ですね」ともっともな感想を述べることで誤魔化してみる。その後は心なしか逃げる様にレジへ向かってしまったので露伴からのリアクションはいまいち覚えてはいないが、店を出る頃には少なくとも普通の様子だったので、それほどぎこちない誤魔化し方ではなかったのだろう。ホッとして、緒都は人の往来がある通りに目を向ける。
「……あれ?」
そこに見覚えのある姿を目にしたので、緒都は承太郎の腕を軽く叩いて注意を引いてみた。
「承太郎、仗助くん」
「仗助?」
何やらそわそわした様子で『FAMILY CLUB』という看板の下前に立つリーゼントの少年。その腕の中にはどういうわけか赤ん坊が……あっ。
「……あ!?緒都さん!た、助かった!あの、赤ん坊の世話ってわかります!?」
通りの向こうでこちらに気付いた仗助は、声を張ってブンブン手を振っている。今にも駆けて来そうな彼の表情には心底ホッとしたとでかでかと書かれており、流石に可哀想になって緒都は自ら向こう側へと駆け寄った。遠目に見た通り、彼の中には裸に布を巻いた可愛らしい赤ん坊が。どうやら今は透明な赤ちゃんのお話の真っ最中らしい。ということは。「見えないかもしれないっすけど、実はここに赤ん坊が」と必死な仗助の訴えも重要だが、それ以上に急を要する事項がこの店内にあるはずだ。この状況から察するに、今はジョセフがベビー用品を無茶買いしようとしている最中だろうから……そう思って店内を覗いてみれば、予想通りレジで大量の用品を紹介されているジョセフが見える。
確かあれで相当の金額を使ってしまうのだ。十二万だか十三万だか。それもやっぱり可哀想なので、緒都は承太郎の腕を引いて店内に入ることにする。背後では「うわ、本当に何かいるな」「赤ん坊の世話なんてわかんないっすよーもー」と平和的な会話をしている露伴と仗助というレアな光景が広がっていたが、優先事項はあわあわと可哀想なおじいちゃんだ。
「……おいジジイ、まさかそれを全部買おうとは思っちゃいねえだろうな」
「お?おお、承太郎!緒都!助かったぞ、何が何だかよくわからなくてのぉー」
子育て経験有りの現役パパが来たなら百人力だ。しかも同じ女児の子育て経験となればなおのこと。心なしか店員が頬を引きつらせていたのはせっかくのカモが逃げようとしている状況への名残惜しさからだろうが、ここはキッパリ諦めていただくしかない。援軍の到着に肩を撫でおろしたジョセフに緒都もつられてホッとする。
が、次の瞬間目の前で起こることには戸惑わずにはいられない。
「承太郎なら、じょ」
不自然に途切れたジョセフの声。いや、間違いなく途切れさせられたという方が正しいのだが。何かを言いかけたその口を、承太郎の手が素早く塞いで言葉を遮ったのだ。
「……じょ?……承太郎、何してるの?」
「…………ジジイの入れ歯が飛び出そうだったもんでな。……緒都、先に外に出てろ。野郎二人で赤ん坊を見てるよりは、お前もついている方がいいだろう。何より、見える目があった方がいい」
承太郎らしくない、苦しい言い分だ。緒都は本気で首を傾げた。しかしスタンドが無効化される緒都の目があった方がいいという意見ももっともなので、大人しくそれに従って店を出る。
先ほどの「じょ」が「徐倫」と続くはずだったのであろうことに気付いたのは店を一歩出た直後だった。承太郎はまだ娘の存在を隠しておきたいということだろうか。緒都も、六部の説明ができる状況ではないので、別に今すぐ明かされなくとも構いはしないけれど。
「あ、緒都さん!あっちはどうなってました?」
「今承太郎が一緒に商品を見てくれてるところ。……仗助くん、抱っこ代わろうか?」
「それは助か……あ、いや、やっぱりまだいいです。こいつオムツも付けてないんで、万が一があると……」
「オムツならすぐに……あっ、露伴さん。その辺りは目があるから、頬っぺたならもう少し下です」
むにむにと頬を突っつきたい気持ちはわからないでもないが、見えない分指先が向く先は重要だ。緒都は露伴の手を頬にまで誘導して「ここなら大丈夫ですよ」と頷いて見せた。それからハッとして仗助を見るが、彼は驚きつつも思ったような大きなリアクションはなく、むしろ納得したような様子で「やっぱりそうなんすね」と意味深な独り言を零した。
それに「えっ」と思ったのは緒都だったが、戸惑いを代弁してくれたのは露伴だった。
「今のはどういうことだ?」
少なくとも露伴の知る範囲では、仗助が緒都のスタンド無効化云々を理解していることにはなっていないらしい。ということは承太郎から話が通されているという可能性は低いわけで。問われた仗助は困ったように片手で頬をかくが、「いや、単なる予測だったんすけど」と目を瞬かせて答えてくれる。
「あー……ほら、ジョースターさんが。今日、町に来た目的を話してたら『緒都がまた写らなくなった』みたいなことを言ってたんすよ」
「……え?」
「あの人のスタンド能力って念写なんすよね?俺も少し前にダチの居場所を探すのにちょっと手を借りたんで……それに写らないってどういうことだろうって考えてたんです。スタンドが効かないとかなら、割と納得がいったというか」
聡い。登場時から思っていたけど、基本的に彼は頭がいい。
いや、それよりも。気になるのは彼がそう考えるに至った要素。町に来た理由が『緒都がまた写らなくなった』とはいかに。確かにやって来るのが多少早いかなとは感じていた。その時点で原作から外れた部分の影響を必死に考えてはいたけれど、よくよく考えたら緒都の存在そのものが原作を外れた要素だ。緒都がいるというだけで及ぶ影響もある。
その全てがいい方に転ぶかはわからない。例えば今なら、この先にある展開をどう変化させるか。それによって何が変化するのか。
「……あ、承太郎さん」
カランカラン、と鳴るドアベルの方を見て仗助が呼んだ名に、緒都はやはり判断を仰ぐばかりで。
ジョセフと並び立って店を出てきた承太郎は、片手に一通りの必需品を納めた袋を掲げ、彼の目には何もいないように見えてるのであろう仗助の腕の中を一瞥する。それから一行を引き連れてひとまずは最寄りのベンチへ向かい、最優先で赤ん坊の身なりを整えた。問題なく赤ん坊が見えている緒都が主体となってのお着替えタイムだったので、暇な時間に保育系の教材を読み込んでいてよかったと心底思う。
ちなみにこの後の展開予測は承太郎も把握済みなので、赤ん坊の身柄はこのまま受け入れるつもりでいるようだ。赤ん坊、ジョセフ共々身を危険にはさらしたくないというのは当然の考え方だろう。そのおかげで仗助とジョセフの距離が縮むのだとしても、水中で多量に血を流す祖父はもちろんのこと、水の中に投げ出されて沈んでしまう赤ん坊なんて普通は受け入れられない。
というわけで赤ん坊は速やかにホテル内に保護したいのだが、せっかく着せた服も叩いたベビーパウダーも、徐々に透明化が始まっているらしい。緒都にはそれが全くわからないが、ざわめきだした周囲のリアクションがそう語っている。「ワシの腕が!」と騒ぐジョセフの手も変わらずそこに見えるし、愛らしい赤ん坊の姿もバッチリ見えるけれど、彼らにはなんとも不思議な光景が映っているのだろう。
その光景、少し気になる。のんきにそんなことを思いながらぽかんとしていた緒都だけれども、間もなく承太郎から赤ん坊抱っこ係に指名されて、ずしりと重い温もりを受けとることになった。ひとまずホテルの室内につくまで、見失うことがないように。赤ん坊の透明化範囲が広がっても、彼らの目にも緒都はかわらず有色で映るらしい。
それに関して特に文句はないのだけれども、本来ここで起こるはずであった親子の新密度アップイベントのスキップについては思うところがある。というわけで。
「仗助くん、この後は暇?」
「へ?」
「よかったら一緒に来てこの子と遊んでくれるかなって。時間があればなんだけど」
奪ってしまった親子の時間を提供したい。確執をどうにかできるシチュエーションというのは、決して真っ赤な池には限定されないはずだから。

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