▼兄は変革をもたらす


『そうか、緒都さんが……わかった。一旦そちらへ向かおう。直接会って話すべきことだからな』
「悪いな、アヴドゥル。そっちも簡単に離れられる状況じゃなかっただろう」
『いや、むしろ一度退くのが得策だ。実際すでに彼女が言う様な孤立状態に陥りかけていてな、私たちからそちらへ連絡をつけるのは難しい状況だった。正直お前からの遣いには助かったぞ、承太郎』
「そんなにマズい状況か」
『ああ。ポルナレフが昔より突っ走らなくなったのは良いことなんだが、それにしたって分が悪すぎる。相手は統率された組織だ』
「……俺か花京院が迎えに行くか?」
『いや、すでに出国は済ませた。でなければこうも悠長に電話はしていられん。日本に着いたらまた連絡を入れよう。少し迂回をするから時間はかかるが』
「ああ、わかった。気を付けろ」
『お前もな、承太郎』
財団支部の施設内にて、承太郎は電話を受けながら広げていた資料を眺めて深く息を吐く。受話器を置いた手が自然と眉間を押さえるのは、対処すべき多事項に対する疲れのせいだろうか。
だが、その多事項をひとつとして放らずにいるからこその先ほどの通話だ。何がどうなっているのかの詳細は異国の土地にいる彼らに後日聞くとして、今はひとまず身の安全を確保できたことに満足しておくべきだろう。
しかし、緒都のあれはジョースターの血筋に関わるものだとばかり思っていたのだが。予想を外れたようにも見える警告の形につい考え込む。緒都の予知の形は単にスタンドに関する問題についてを警告するものであったのか、それともポルナレフを身内と捉えたがゆえの範囲拡張だったのか。
……考察の堂々巡りはこれで何度目だろうか。承太郎はすっかり考え込もうとしていた自分に気づき、深く呼吸をして帽子のつばを下げた。考えることを放棄するつもりはないが、ここで椅子に座って時間を潰すつもりはない。
承太郎は早々に立ち上がって財団支部を後にし、花京院に留守を任せたホテルへと車を走らせた。晴天の下、すっかり慣れた景色の中に車を止めてロビーをくぐれば、見知った顔が緩やかな礼をして承太郎を迎える。
「空条様、お帰りなさいませ。伝言を二件お預かりしております」
「ああ……」
ホテルのフロントで差し出されたメモ用紙には二人分の名前と電話番号が控えられていた。承太郎はそれらにサッと目を通し、二件の内の一件に一瞬眉をひそめてから、ひとまず用紙を胸元に仕舞いこむ。再びそれを取り出すのは部屋についてからだ。黙ってエレベーターに乗り込み、見慣れた部屋番号の扉を開いた後、「お帰り」と小さく迎えた花京院に「ああ」と答えてまず室内を見渡す。緒都の姿を探すのはもはや癖と言ってもいい。ソファの上にその姿を見つけてすぐ、承太郎は先ほどの花京院の声量に納得して静かにコートを脱いだ。
「寝たのか」
「ああ。彼女の希望通り、大学時代の教材を取り寄せただろう?ずっと読んでいたから疲れたんだろうな」
「そうか」
「向こうはどうだった?」
「無事だった。が、遣いを出して正解の状況だったらしい」
「……緒都ちゃんには恩ができてばかりだな。二人ともこっちに来るって?」
「時間はかかるがな」
「となると、ポルナレフは多少ショックがあるかな。僕みたいに」
「……『ポルナレフさん』のことか」
「緒都ちゃんのことは妹みたいに可愛がってたからね。『ジャンくん』からの落差は大きいだろう」
そう言いながら花京院は入れ違うようにかけていたコートを手に取る。先ほど仕舞った電話番号のメモ用紙を取り出していた承太郎は、そんな花京院の後ろ姿に「どこかへ行くのか」と素朴な疑問を投げかけた。
「露伴くんと会う用があってね。その後にジョースターさんを迎えに」
「何だと?」
「僕もついさっき知ったばかりだ。本当に来てしまったらしいよ」
「……あのクソジジイ……」
「でも、来ることで頭がハッキリするんなら良いことじゃないか。……で、そういう君は誰に電話をかけるんだ?」
「仗助だ。多分間田のことだろう」
「僕には二件見えるけど」
「見えてるんなら聞くんじゃねえぜ」
「自己申告してほしくて、つい。特に君が無視を決め込もうとしてる方についてさ」
コートに袖を通しながらの問いが痛いところを突く。承太郎はひとつ舌打を零して電話口へ向かった。無論、かけ直すのは仗助の方である。もう一方……妻子のいる自宅の番号に、ではない。
「他の誰かから聞くより、君から聞きたいんじゃないのかな。緒都ちゃんは」
「……『知ってる』素振りがあったのか?」
「いや?そこのところはよくわからない。今はこの街のことで必死だろうしね」
「徐倫はともかく、アイツは緒都に当たりが強い。どうせ会わせる気はねえ」
同じ保護対象でも、遠ざけている妻子と身近に置いている妹。承太郎としてはそこに危険に関しての回避可能と回避不可能という明確な理由があっての対応の差だが、妻にはそれがわからないらしい。家庭には寄りつかないくせに何かと妹に関しては融通を効かせる。それが気にくわないのであろう様子は結婚当初から見え隠れしていた。かといっていったい何が危険なのかという説明をするつもりも毛頭なかったので、全てを理解しろと言うつもりもない。離婚届を突きつけられるのも時間の問題だ。それに関してはどうなっても仕方がないとも思っている。が、承太郎が仕方がないと切り離せないのは妹と娘のことだった。
緒都に関しては今後完全に手元に置いておく気でいるが、徐倫に関してはどうすべきか。これに関しては未だ結論が出ない。緒都はもはやどこに置いておいても危険がつきまとう状況だが、徐倫は遠ざけておけば何事もなく幸せな一生を送れる可能性が残っている。ジョースターの血筋のせいで絶対とは断言できないのが痛いところだが。
「まあほどほどにな、承太郎。僕は行くから。……そうだ、一応場所と時間はそこに書いてある」
「ああ。ジジイのことは頼む」
「任せてくれ」
チラリと緒都に目をやる承太郎の背後で緩やかに扉が閉じる音がする。オートロックがかかるのを聞きつつ妹の手から拾い上げた教材には、学生時代に緒都が引いたのであろう下線や書き込みがあった。……表紙にはどことなく見覚えがある気がする。承太郎は少し考えて、そういえば徐倫が生まれた時に読んでみるかと差し出されたものだったなと懐かしさに目を細めた。
緒都はそんな自分の行動などすっかり忘れて、今もぐっすりと夢の中だ。承太郎はテーブルの上に教材を置いてから眠る妹にブランケットをかけ、今度こそメモにある電話番号を押した。呼び出し音は数回。間もなくして『はい』と出たのは仗助の声だ。承太郎は緒都との距離が近いことを考慮して静かな声で名乗り、何の用件だったのかを前置きなしに問いかけた。
『間田のことなんすけど、一応こっちで片付きまして』
「ああ……怪我はないか」
『大した怪我はないっす。んで……あ、今俺ら億泰んとこなんすよ。間田抱えて俺んちってわけにも、康一んちってわけにもいかねえんで』
「番号は見た。わかってる。虹村形兆はいるのか?」
『いますよ。つっても我関せずって感じっすけど。……それで、どうしますかね。そっちが預かりに来るっつーんならこのまま見張ってますし、放置でいいってんなら適当に解放しますけど』
「今は具体的にどういう状況だ」
『あー……その、まあ色々あってやり合うことになったんで、間田の意識は無いっすね』
歯切れの悪い返答で向こうの状況を大まかに理解し、承太郎は「そうか」と相槌を打った。そうして懐から取り出した手帳を開き、複数氏名の書かれたリストから間田敏和の文字を二重線で掻き消す。このリストから同様に名前が消されているのは今のところは音石明だけである。これはあくまで虹村形兆が『矢で射ぬいた』と自白した未遭遇のスタンド使いのリストであるため、既に財団が把握している天然もののスタンド使いの類は含まれていない。
とはいえ財団のデータベースには、既に確認済みのスタンド使いのリストもしっかり保存されている。もちろん普通に知り得るはずのない情報源からの情報……緒都から得られる類の情報は今の所そこに含まれてはいないが。
仗助も、間田のことはあくまで虹村形兆から得られた要注意人物の情報として頭に入れていただけだ。だが緒都の今回の予言は主に仗助を中心にして起こる出来事であるらしいことを考えると、仗助がスタンド使いの情報に関して無防備なままであることは問題だろう。これに関する対策は早々に打たねばならない。
『つーか、なんか承太郎さん小声?もしかして、今場所が悪いですか?』
「緒都が寝てるだけだ。聞こえづらいのなら悪いが、我慢してほしい」
『えっ!……あっ、はい、いや、大丈夫っす!はい!』
仗助のこの態度も、少しばかり問題である。
『……その、お疲れなんですかね、やっぱり。色々と大変だろうし……』
「ああ……まあ、気にするな。四六時中そばに誰かがいるってので気疲れしてるだけだろう。それより間田についてだが」
『あ、はい』
「俺は今は手が空いていない。が、財団の迎えを手配する。とはいえ花京院も今は別件でそちらには向かえそうにないからな、念のため搬送に誰かしら付き添ってもらえると助かる」
『搬送ってどこっすか?』
「重症なんだろう。病院だ。財団の監視体制が整った場所を用意する」
『俺は構いませんけど……なんか、今そんなに立て込んでるんですか?何か手伝えることがあるなら』
「……」
さて、ジョセフの件はどうすべきか。承太郎は一旦考えて口を閉ざした。ジョセフとの対面に関する問題は仗助だけが抱えるものではない。緒都もまた、大なり小なりの覚悟が必要なことだ。会いたいか会いたくないかと言う本人たちの意思も無視はできない。そうはいってもジョセフの方は当然会いたがる、というか隠し子にあたる仗助に会うために勝手にここまでやってきたわけであるから、今会わせないとなってもいつ無理を言って仗助の元へ向かうかもわからない。
となれば、やはりあらかじめ心の準備ができる猶予を与えたうえで、仗助自身の意思のもとに引き合わせる方が今後のためか。
そこまで考えてから、承太郎はチラリと緒都を見た。静かな寝息を立てている緒都は、まだ衝撃的な形では十年の経過を目の当たりにはしていない。
「……仗助」
『はい?』
「ジジイ……お前の父親に会うか」
『えっ!?……え、なんで』
「花京院の用事はそれだ。勝手にこの町まで来たのを迎えに行った。お前にその気があるのなら俺が病院まで拾いに行こう。予想もしない形で突然会うよりは、一度顔を見ておいた方がいいかもしれん」
『……俺は別に、会いたいとは……』
「会えとは言わねえ。遠目に見ておくだけだ。……どうせ緒都を連れて行く」
大人になった、と年老いた、の違いは恐らく大きい。緒都にとって、承太郎や花京院にはさほどの変化は感じていないのだろう。仗助についても、あくまで一度会った程度の小さな子が少年になっていたという程度のもの。だがジョセフに関してはそうはいかない。あれほど元気だった祖父が小さく弱々しくなってしまった姿というのは、恐らくそう簡単な話ではない。一度『見た』ことで覚悟ができていると言うのならそれに越したことはないのだが。
『…………あー……』
「どうする?」
『………………じゃあ、あの……一応……』
「わかった。なら、病院までの搬送が済んだら正面口で待ってろ」
『うっす』
浮かない声は当然だろう。承太郎は受話器を耳に当てたまま、フックを一旦指で下ろしてから続けざまにSPW財団宛の番号を押す。対応は当然花京院ではないが、財団に連絡をすること自体はしょっちゅうだ。向こうも向こうで承太郎からの連絡に慣れているし、恐らくはこのホテルの部屋の番号も向こうに登録されている。間田の搬送の手配には時間はかからなかった。
今度こそ受話器を置いた承太郎は、緒都の正面に座って一息をつく。今から自分がすべきことは眠る妹を起こして外へ連れ出すこと。ジョセフの顔を見ておけと言えば、緒都は心の内では嫌だと思っても素直に頷くのだろう。緒都は基本的に承太郎に従順だ。承太郎のすることには間違いがないと、承太郎の判断ならば信頼に足るという感覚が強いのだろう。それに関しては緒都と花京院はよく似ているのかもしれないが、二人の間には自己主張の有無という大きな隔たりがある。花京院は承太郎に絶対的な信頼を向けても意見はするし、納得できないことは納得しない。対して緒都は大抵がイエスだ。聞き分けが良いと言えば聞こえはいいが、その分内に溜めるものがある。
だからこそ承太郎は妹の心の動きを細かに推測するし、今回のように推測に基づいた判断を下す。だがその行動がどれだけ的を射ているか。完全な解答は承太郎には得られない。
「……緒都」
十年経った祖父が来ると聞いてどんな顔をするだろうか。承太郎は妹の肩を揺り動かし、先に浮かびうる妹の表情を思い浮かべた。





一瞬、花京院の目がこちらに向いた。しかしすぐに何事もなかったかのようにジョセフの方に向くのは、承太郎の意図を理解したがゆえの行動だろう。助手席の緒都はじっと窓の外を見ていた。バックミラーを覗くと、後部座席の仗助もまた同じようにして窓の外を凝視している。
コンテナの並ぶ船着き場。その影に車を止めて眺める先では花京院に支えられながら船を降りるジョセフの姿がある。そばに控えているのは岸辺露伴だ。『用』は無事に済んだらしい。
「……ホントにじーさんっすね」
沈黙の中にぽつりと声を零したのは仗助だった。ミラーには戸惑いが大部分を占めた微妙な表情が映っている。そこから視線を落としても、運転席に座る承太郎には妹の方の表情はよく見えない。
「……あー……俺、やっぱりちょっと行ってきます。酷いようだけど、母さんには会わせられないって言っとかねえと……」
「そうか」
「あ、帰りは待たなくていいです。自分でどうにかするんで」
「花京院が送るだろう。好きなだけ話せ」
「……話すっつーか……いや、まあ、行ってきます」
深いため息は複雑なのであろう仗助の心境をよく表している。車を降りてやるせなさそうに丸まる背がそれを助長するようだ。
車内が無音になる。ガラスの向こう、コンテナの隙間から見える景色の先で、曲がった腰を杖で支える祖父が仗助を見上げて何か話している。
緒都はピクリとも動かずにその光景を眺め続けていた。承太郎もまた、見えもしない緒都の視線を追うようにして、船着き場にある四人の姿をじっと見つめる。
どれだけ経ってからだろう。ふいにコートが引っ張られる感覚があって、承太郎はわずかな違和感を発した場所へ視線を落とした。
緒都の手だった。
顔は向こうへ向けたままで、それでも隣の存在を確かめようとするかのように白いコートの裾を弱々しく掴んでいる。
承太郎はその手を解いてコートを離させ、代わりに自分の手を滑り込ませた。無言で力強く握れば、緒都の手は一瞬ピクリと揺れて、それからやはり弱々しく握り返してくる。
車内は変わらず無言だった。ジョセフの姿が黒い車の中に消えていくまで。掠れそうな妹の声が「帰ろう」と紡ぐまで。

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