▼妹と反則の告白


「……今日はもう疲れたか」
承太郎からそう声がかかったときにはもう、窓の外には綺麗な夜景が広がっていた。その頃には緒都は先に入浴後の髪も乾かし終えて、寝支度をしっかり済ませた状態でベッドの上でうつぶせに転がり、気疲れした体を休めながら今日の出来事を思い返していた。言わずもがな、仗助の天使発言以降のくだりである。
そこにやってきた承太郎は風呂あがりの濡れ髪で、隣り合ったベッドに腰掛け緒都を見下ろしている。サイドテーブル一つ分の隙間という距離でそんな承太郎を見上げ、緒都は短く「平気」と返した。精神的には疲れたが、肉体的にはただひたすら室内で大人しくしていただけなので。直接スタンド使いの確保に向かった承太郎の肉体労働に比べれば大したことはない。
「承太郎、もう寝る?」
「髪が乾いた頃にな」
「乾かさないの?」
「めんどくせえ」
「じゃあ乾かしてあげよう」
ひょい、と起き上がってスリッパを履き、鏡台前にあるドライヤーを取ってくる。コードをサイドテーブルのコンセントに繋ぎ直して承太郎の後ろに膝をついたら、温風を出して濡れた髪に指を差し込んだ。固めのクセ毛が軽さを取り戻すまではゴオゴオという暴風の音がするだけだ。会話なんてできる状況ではないので、緒都は手首を小刻みに揺らしながら、黙って髪の根本から水分をとばしていく。
クセのある髪はジョースターの血筋だろうか。仗助の場合はリーゼントに仕上げられているから、くたりとしている時の髪質はいまいち想像できないが。
……それにしても、仗助のあれには驚いた。幼い仗助との記憶は緒都の中に保たれているギリギリの記憶だ。熱にうなされる手を握ったあの後にはどうやら彼の母親である東方朋子にも会っているらしいのだが、そこまでの記憶は残念ながら存在していない。承太郎と仗助と顔を突き合わせての情報のすり合わせによれば、あの辺りが丁度DIOとの決着がついたタイミング……すなわちストーリーの終結であったらしい。分かっていたことだけれども、仗助の高熱が引いた理由は承太郎の決死の戦いのおかげだろう。なんというか、そうであるにも関わらず、たまたま居合わせただけの緒都に恩を感じられると申し訳ない気持ちになる。いわばあれだ、人魚姫の手柄を奪う形になった、倒れている王子を見つけただけのどこかの女性のような。一応その旨を伝えて、解散時には普通に「仗助くん」「緒都さん」という関係性にまで修正させて頂いたわけだが。
まあ、ひとまず今日の成果は得られたのだからよしとしよう。何事も少しずつ着実に、だ。緒都はそういうことで自分を納得させ、ドライヤーの温風を冷風にして承太郎の乾いた髪を整える。最後に風を止めて手ぐしを通したら今度こそ完了だ。「おしまい」とドライヤーをたたんで、膝立ちの状態からぺたんと正座の状態に移った。
「……承太郎」
それから神妙に兄の名を呼ぶのは、これからちょっとまじめな話をするつもりでいるからで。
「あの手帳の話だけど」
「ああ」
「……そのことって、どうなってる?」
緒都が目覚めて数日。そう、色々あったつもりで実は今日まで大して日は経っていない。その間に承太郎から話をしてもらったことと言えば、これまでの緒都の主な生活、承太郎やホリィや貞夫の現在など、ごく一般的な記憶喪失者に対する表面的な説明のみだ。ちなみに、花京院の呼び名についてもそこに含まれる。典明くんってまじでか、と思ったものの、そう呼んでやってくれと言われればそうするほかない。まだほんの数回しか呼んでいないので気恥ずかしさが抜けないが。
一般的でない事柄の方については未だ深くは触れていないし、問い詰められてもいない。有難いことだがその奥に彼の真意が見えない分困惑もある。緒都は恐る恐る承太郎を見上げた。
「俺がエジプトから帰ってきた記憶はねえんだったな」
「うん」
「……向こうでDIOの野郎に勝ってから、俺とジジイと花京院で日本に帰ってきた。お前はそのあとすぐに緊張の糸が切れたらしく、しばらく体調を崩してたんだが」
「……あー」
「まあ、花京院もしばらく入院だったからな。何だかんだ、落ち着いたのは一か月近く後だった。その頃には妹の墓に報告に行くとフランスに向かったポルナレフも、そっちに付き添ったアヴドゥルとイギーも、それぞれ怪我の具合も落ち着いてたからな。一ヵ月後、挨拶ついでに日本で再集合になった」
「……全員生きてるの?」
「誰一人欠けちゃいねえ。……それを先に伝えるべきだったな。悪かった」
「ううん、いい。その事実だけで嬉しい」
正直、聞くに聞けなかったと言ってもいい内容だ。この数日間ごたごたしていたけれども、結局緒都にとっては結果待ちの日々の延長線。実は心の底でずっと気にしていたことであったので、ここにきてようやくつっかえが取れた気分になる。花京院については、すでに実際にその存在を確認しているので疑いの余地もなかったのだけれども。アヴドゥルとイギーに関しても死亡フラグを折ってくれたらしい承太郎にはさすがとしか言いようがない。緒都には、どこで誰がどの行動をすることによってフラグをブチ折れるのかを判断できるほどの頭がないもので。そして変更による余波が新たな犠牲を生むようなこともなかったのだろう。ポルナレフは変わらず無事で……いや、けれども彼は五部では無事とは言えないのか。いまいち時間軸が頭の中でハッキリしていないのだが、今の彼の安否が気にかかる。
「今はみんなどうしてるの?」
変化の余波がどこにどれほど起こっているのか。それも含めて、緒都が特に聞きたいことはここにあった。原作をきっちり読んできた身としては、あらゆる権力によって孤立無援で追い詰められたポルナレフというのが想像するだけでキツすぎる。
「ジジイは、前にも言ったがアメリカだ。イギーも歳だからな。ジジイと一緒にのんびりしてるぜ。ポルナレフとアヴドゥルは何だかんだと行動を共にしているらしい。今はヨーロッパで別件を追っているはずだ」
おおう、安否の判定が難しい。
緒都は眉を寄せて少し考えてみる。ヨーロッパ、ということは彼はすでにイタリアにいる可能性が十分にある。けれどもそこにアヴドゥルが一緒となれば、彼が単身孤立している可能性はぐんと低くなるわけだが……周囲が丸ごと敵という状況では二人でもどう判断すべきか。
「何か気になることがあるのか」
ベッドの端に腰かけた上体を捻った承太郎は、そのまま片足を乗り上げて緒都に向き直る。黙り込んだ気配にすぐに気付いたのだろう。隠すことでもないので「ポルナレフさんとは連絡が取れてるの?」と聞いてみることにした。するとどういう訳か承太郎は少し微妙そうな顔をしてから、間をおいて「ここしばらくは連絡を取っちゃいねえな」と返事をする。ううんそれはヤバいのかも……と緒都は不安を抱くが、承太郎の表情がまだ少し妙であることに気づいてつい首を傾げる。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもねえ。……それで、ポルナレフの野郎がどうしたって?」
「あ、うん……その、あんまりよくわからないんだけど……ちょっと危ないかもしれなくて」
「……SPW財団に所在の確認を依頼する。少し待ってろ」
くしゃりと頭を撫でて承太郎が立ち上がる、と共に沈んでいたベッドが浮き上がったので、この反発力が筋肉の重み……と感慨深く思いながら緒都はベッドに手をついて承太郎の後姿を眺めた。宣言通り受話器を取った承太郎は「俺だ」「ポルナレフとアヴドゥルの所在を確認したい」「ああ、折り返し頼む」と受話器の向こうの誰かと簡潔な会話をしている。こんな時間に仕事を請け負うことになってしまったのかもしれない財団職員にちょっぴり申し訳ない気持ちになるけれども、詳しい時間軸を把握できていない以上、迅速な行動は取られるに越したことはないとも思う。どうぞよろしくお願いします。ひとまず心の中で応援しておいた。
電話を切った承太郎は、肩にかけたままだったタオルを置きに一旦脱衣所へ向かった後、また少し寄り道をして未開封の段ボール箱から何かを取り出す。小さな本のような何かに緒都が首を傾げていると、承太郎は再びベッドに座り直して「ん」とそれを差し出した。反射的に受け取りながら黒い本を見下ろした緒都はこれが何であるのかをすぐに察する。記憶よりずっとくたびれてはいるものの、紛れもなく緒都が承太郎に託した手帳だ。
これを今手渡す意図が何なのか、視線だけで問いかけてみる。
「旅自体がどうなったのかはそこに書いてある」
え、そうなんすか。緒都は視線を落として手帳の表紙をめくった。最初のページにあるのは、懐かしの迷子防止メモ。続く緒都の家族情報があって、その後に歯抜けであるはずのスタンド使い情報。はず、というのは、ひょろひょろとした緒都の筆跡の合間に承太郎の字で情報の補完がなされているからで。
もしかして、と思ってその先もぱらぱらとめくっていくと、びっしりと情報が書き足されている。というより、これは実際の旅の記録と言うか、日記と言うか。
「……これ、もしかして帰ってきたときにくれた?」
「ああ」
「そっか……一番のお土産だね」
一言二言ずつの小さな日々の積み重ね。手帳のポケットに挟まれた半券。切羽詰った旅だと言うのに、なんて洒落たことをするのだろう、この兄は。
「一緒に連れて行ってくれたみたいでなんだか嬉しい」
手帳、スケジュール帳を取っておくタイプではなかったけれど、これは絶対捨てられない。ちなみにぱらぱらと目を通す旅の記録に時々笑いを零している間、承太郎はずっと黙って満足するのを待っていてくれた。そのことにハッと気づいてから、今なすべきことはここから少し進んだ先にある、と思い出す。
「承太郎、あの」
「ん」
「この続き……のような、ちょっと違うようなものが、あるんだけど」
「ああ。さっきのポルナレフの話もそれだな」
「うん。でも、この手帳の時以上に役に立たないかもしれなくて」
この町で見れば、大きな変化は花京院の生存だろうか。その影響なのか、岸辺露伴との距離が彼を通して近しいものとなっているわけだし……一人の存在の有無によって生まれる変化が大きいことは明らかだ。
だがそんな緒都の思考を放って、承太郎はまず「これは間違いなく役立った」とハッキリ言い切った。続いて、情報の有用性や使い方に関しては承太郎が検証し承太郎の判断の元に利用すること、とにかく心配はいらないという点をイケメン風に言い聞かせられる。俺の判断に任せろってやつか。俺を信じて委ねろってやつか。承太郎兄貴、かっこいっす。
しかし色々とあっさり受け入れられているこの状況のなんと幸運なことか。カミングアウトの恐怖はほぼいつぞやの電話口で乗り越えていたし、面と向かっての話し合いに関しては記憶が無いが、これも恐らくは乗り越えられているのだろう。たぶんきっと、緒都のカンニングはなんだかよくわからない不思議な現象として片づけられている。
お兄様の言うとおり、で生きていけるなんて楽すぎる。記憶障害かタイムスリップか定かではない障害を経ているにしても、人生イージーモードすぎである。なんて考えていたら、
「緒都、約束しておきたいことがある」
楽観視すんじゃねーぞと戒めるように兄から声がかかった。いや、実際承太郎がそんな意図で声をかけたのではないとわかっているが。
「ひとつ、一人で行動しないこと。基本的には俺がいるが、無理なときは花京院……それも都合が会わないときは今日のように岸辺露伴という可能性もあるが、とにかく誰かをつける。こいつはしんどい、というのがあれば配慮はするが」
「大丈夫、だけど……そんなに心配しなくても」
「必要なことだと判断した」
仗助は一度試用期間をとらねえとな、と呟く声には今は深く触れないことにする。
「ふたつ、お前が知っていることは他言無用。俺を介して以外に誰かに伝えようとはするな」
「うん」
「みっつ。何かあれば必ず俺に言え」
「わかった」
言われなくても基本的にはお兄様と一緒に居たい妹ですけどね。とはわざわざ口にせず、差し出された無骨な小指に緒都も小指を重ねる。軽く上下に振って切るのは空条家の慣わしだ。ゆーびきーりげんまん、と可愛らしく歌うホリィに嫌々指を取られていた承太郎が、今では恥ずかしげも無く指を差し出す側だとは。月日の流れは偉大である。
ちなみに記憶の中では伏せったままのホリィの現在はと言えば、隠し子騒動でジョースター家に滞在しているとのこと。それ以前は子供が二人とも巣立ったということで、貞夫について海外を点々としていたようだ。
会いたい、というのが正直な気持ちではある。人づてにすっかり回復したという事実を聞いてはいても、記憶にある弱りきった姿を塗り替えられたわけではない。けれどもやんわり聞いた現状によれば、緒都の現在の状況はまだ親族には伏せられているとのことであるから、いますぐ会いに行くというわけにもいかないだろう。危険のはびこるこの街に家族を寄せつけたくない気持ちはよくわかる。杜王町の危険なスタンド使いを思い浮かべてからホリィが人質になる場面を想像してみたら、むしろそうして下さいと頼みたくなった。そういえば原作にはジョセフがやってくる展開があったけれど、音石明を確保した状況ではそれは起こるのだろうか。それがなくとも、仗助に会いたい気持ちが彼を突き動かすのか。
そうしてぼんやり今後起こりうる出来事を考えていたら、軽く額を小突いた承太郎にベッドに入るよう促された。ヘッドランプを付けて部屋の電気を消して、承太郎も自分のベッドに横になる。疲れているつもりは無かったのに、薄暗い環境で横になった途端に瞼が重くなったのは、他者のいる空間で気を張っていた事実があったからかもしれない。
緒都は眠気の波が耐えきれないものになるまで、ベッドに横になりながらぽつぽつとこの先のことを話し始めた。音石明という要素を早期排除することによってネズミのスタンドは発現前に排除したも同然だけれども、本来どうなるはずであったのかは説明できる範囲で余すことなく伝えるつもりで。だってもしかしたら、何かしらの影響であれこれ変化があって、ネズミのスタンドが別ルートで発生した、なんてこともあり得ることだろうから。弓と矢に貫かれてスタンドを発現させる要素のある存在、としてでも承太郎の頭の片隅に置いておかれたのなら、少なくとも緒都は安心できる。
この後はデッサン人形のようなスタンドがいて、山岸由花子の騒動があって、岸辺露伴と仗助たちの出会い、宇宙人なのかそうじゃないのかよく分からない誰かだとか、金券をめぐったハーヴェストとのあれこれ、他にも細かな事件がたくさんあって。それから、一番大きな問題である吉良吉影。
うつらうつらとしながらの話をどこまでハッキリ伝えられたのかという記憶は不鮮明だ。ただ眠る寸前まで仄かな明かりの向こうでこちらを見る承太郎の視線がそこにあって、語る内容の不穏さにも関わらず、緒都の胸中は安心感に満たされていた。ずっと帰ってきてほしいと望みながら過ごしてきたから、望みが満たされた満腹感のようなものだろうか。
失くしたくないな。そう改めて思った。この安心感。絶対的な安全基地。緒都にとっての大事なもの。ずっと先にやってくるかもしれない最悪の展開を、どうにか破り捨てたいと思う。

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