▼妹は少年を覚えている


病室で電話口へとカンニング情報を叫んだことについて、やべ、と緒都が重要なことを思い出して焦ったのは、ホテルのツインルームに辿り着いてからだった。何がやばいって、今この時間軸が第四部である以上、あらゆる場所に盗聴の可能性がある、つまりそういうスタンドを持つ存在がいる、ということだ。まさかあのタイミングであそこに居たなんてことはないだろう……と思いたいが、万が一、億に一でもその可能性があったとしたら、緒都の抱える危険な秘密はあっさり外に漏れたことになる。あの時は必死で考えが及ばなかった。結果、そのおかげで東方仗助の祖父が死なずに済んだというのだから後悔はないけれども。いや、だって仕方がない。あの状況で電子機器を通さずに危機を伝えるなんて無理だった。あれが最善だったに違いない。それにまだ未来知ってます宣言を聞かれたと決まったわけではないのだから。幸い、あくまで心の内でのみ連ねる言い訳を聞き苦しいと言う誰かも居やしないので。
というか、考えるのが少し遅い気もするが、承太郎たちの認識はどうなっているのだろう。緒都は恐ろしく見晴らしのいい窓を爪の先で軽くつつきながら、ちゃっかり四部のネタバレをかましてしまったことについて改めて考える。まあ三部で手帳を渡すという反則をやった後であるし、その延長線上と受け入れてくれているのだとは思うのだけれど。だからこその、承太郎から電話を受けた花京院の「何か言うことはある?」だったのではないだろうか。とはいえ、なぜ知っているのか、という細かい会話はしないままだ。緒都が失った十年間に問い詰め作業があったのかも定かではない。
いずれにせよ、この後にまだ何か伝えるべきことがあるかと承太郎に問われるのも時間の問題か。問われたときに答える意思はあるのだが、いかんせん先ほど思ったとおり、電子機器のある場所では敵スタンドに潜まれる可能性がある。話しても平気な場所をどうにか探して貰わなければ。
そうと決まればさっそくヒソヒソ話でもと思い立って、緒都はくるりと室内を振り返る。
承太郎とガッツリ目があった。うわもしかしてずっと見られてた。
「……」
「……」
特に変なことをしていたつもりはないのだけれども、意図せず観察対象になっていたとなれば当然恥ずかしい。とはいえお互い微妙な距離感で見つめ合うよりは行動を起こした方が楽だ。緒都はそろそろと承太郎に近づき、ソファの隣に腰を下ろしてくいくいと袖を引っ張った。応えて傾けてくれた頭がちょうどいい高さまで近づいたので、耳元に手を当て、小声で囁く。
「電気のスタンドの人がいるから、いつどこで盗み聞きしてるかわからない」
「!」
承太郎は驚いた顔をしてこちらを見た。それから無言のままひとつ頷き、同じホテルに宿泊しているらしい花京院を呼び出して「緒都に杜王町を案内する」とホテルを出た。言われた直後の花京院は正直「は?」という顔だったけれども、すぐに持ち直してごく当たり前のように車を用意したことにとても感心する。たぶん慣れてるんだろうな。もしくは承太郎のこういった行動に意図を見出す鋭い洞察力ゆえなのか。運転を買って出た承太郎が間もなく閑散とした丘のふもとに車を止め、電子機器の類を車に置いて山を登り始めるころには花京院も承太郎の行動に対する何らかの推測を確信に変えたご様子。丘を登り切って鉄塔や電線とも遠く距離を置いたころ、ようやく緒都が耳打ちした電気のスタンドについての話がはじまった。
何をどこまで知っているだとか、何があったのかだとか、そういう細かい話はまだ保留のようで、その時聞かれたのはあくまで即刻排除しなければならない不安要素についてのみ。そういうわけで緒都は弓と矢を持った虹村形兆のこと、そこで電気のスタンド使い……音石明が弓と矢を奪おうとすることを早急に伝えた。それにより虹村形兆が命を落としてしまうことについても。
そこからの対処はまた素早く、スタンド使いが複数人いるのならどうこうだの、索敵がどうこうだの、弓と矢の確保がどうこうだのと大人の相談事ですと言った様子のやり取りがなされるのを、緒都はただぼんやり眺めていた。こうして見ているとやはり二人とも大人になったのかなあとも思うが、もともと自分で考えて行動のできる人だったので、実際の所はそこまで顕著に成長を感じるわけでもない。まあそのおかげでこちらも必要以上なしんどさを感じずに済んでいるのかもしれないが。
緒都がこの状況を喜ぶべきかどうかと大して深刻でもないことに考えを巡らせているうちに承太郎と花京院の話し合いは済んだようで、あれよこれよと言う間に彼らは音石明捕獲作戦を進め、その間緒都のそばには岸辺露伴が待機となった。
えっ。というのがその名を聞いたときのリアクションである。いったい何がどうやったら岸辺露伴が護衛というかお付というか、つまりまあそばに待機なポジションにつくことになるのか。ついこの間アンジェロをどうにかしたばかりだというのに早くも岸辺露伴なのか、だとか、そもそもどうして呼び出せてなおかつ彼も呼び出しに応えるのか、だとか。
思うことはいろいろあった。けれども岸辺露伴の方も「あなたと話すのは花京院さんたちから連絡が来るまでお預けだ」と何やら残念そうにしていたので、音石明の確保まではうかつに何かを口にすることもできないらしいことは察した。ので、緒都も「緒都さんとお呼びしても?僕のことも名前で呼んでもらって構いません」「あ、はい大丈夫です。じゃあ……露伴さんで」というさわりの挨拶の後は大人しく口を閉じて過ごした。年下なのはわかってる。わかっているけれども、こちとら意識としては高校卒業前なもので、成人済みの彼が年上に思えてしまうのだ。ちなみに露伴は気にした様子もなく持ち込んだ原稿を黙々と仕上げていたので、こちらはこちらで簡易キッチンでお昼ご飯を作ったり暇つぶし用に貰った本を読んだりという過ごし方で時間を潰すことにした。差し入れはお気に召したようで何よりでした。
絶妙な距離感が終わりを告げたのは、日が傾いて辺りが夕焼け色に染まった頃だ。兄の用事がまだまだ長引くのなら露伴には夕飯も用意した方がいいのだろうか、そもそも承太郎たちは何か食べるのだろうか、と真剣に考え始めて、でもよく考えたらここはホテルなんだからそうなったら何か食べに出ればいいんじゃん、ということで飲み物だけ露伴に差し入れた後。来客を告げるチャイムにハッと立とうとした緒都であったが、先に立ち上がった露伴に座ったままでいるよう促された。うっかり忘れそうになるけれど、そもそも彼がここにいるのは緒都の身に何かが起こった時のための対応要員としてなのだ。となれば当然、扉に向かった露伴がのぞき穴を覗いて何やら扉の外の誰かとやり取りをする様をここで見守るのが正解。確認が終わったらしい露伴が扉を開け、客人……花京院を招き入れるまで、緒都はじっと黙ってソファに座っていた。
「やあ、露伴くん。今日はありがとう」
「いえ。原稿もはかどりましたし。……で、終わったんですか?」
「ああ……おっと、彼女を質問攻めにするのはやめてくれよ。この後用事が控えているしね。……緒都ちゃん、予告無しで申し訳ないけど、もうすぐここに君の『叔父』が来るんだ」
やけに親しげだなあ、と紙面では決して見ることの無かった組み合わせを観客気分で眺めていたものだから、突然話を振られて一瞬どぎまぎする。こちらを向く二人分の視線に勝手に急かされながら花京院の言葉を再生し、叔父、というワードをゆっくり噛み砕く。
叔父、叔父なんていたっけ。あっ、東方仗助のことか。という具合に少しばかり状況把握に至るまでが長かったのは、四部の流れをうっかり客観的に認識していたせいだろう。自分が空条であるという意識が抜けたわけではないが、まだ杜王町で起こる出来事および登場人物と言うものに現実感を掴めていないのだ。
「承太郎と話はしたよね。東方仗助くんのことなんだが」
「うん。……え、それで、来るの?」
「承太郎と一緒に。その承太郎からは、まあ顔合わせ程度だから気負うな、っていうのが伝言」
「別々に帰ってきたの?」
「君に心の準備をさせてあげたかったみたいだね」
今日も今日とて兄力が発揮されているらしい。心の準備は是非したかったので、この短い猶予でしっかり覚悟をしておこうと思う。とはいえ、覚悟したところでお互い名乗ってぎこちない会話をして終わり、という光景がありありと想像できてしまうのだが。
「……年下の叔父と年上の姪の初対面か……」
「露伴くん、君参考ついでに見ていきたいと思ってるんだろ」
「思ってますが?いいですよね、今回の報酬と言うことで。頂いたお茶も飲み終わっていませんし」
「安上がりなのか厄介なのか……緒都ちゃんに聞いてくれ」
「緒都さん、ここにいるだけなので構いませんか?」
くるっと向いた目には「はい」しかない。まあ居ても困らないというのは事実だし、貴重な時間を自分のために割いてもらった身としてはそんなことで喜ぶと言うのなら是非どうぞ、というところだ。
ただ、東方仗助と岸辺露伴の初対面がここになってもいいのだろうか。気になったのはそこだけだが……そもそもが既にあれこれ変化の起こった世界であるので、もう今更かなと気にしないことにした。どちらも悪い人ではないのだから何か恐ろしい事態が起こるということもない気がする。困ったことは後で承太郎に相談すればなんとかなるだろう。またしても投げやりの精神だが、投げやっていないとやっていけない。許容範囲としよう。
そういうわけで、許可を得た露伴は先ほどまで原稿を進めていた席に座り直し、ほんの数分前に緒都が居れたお茶を一口飲んで楽しそうな顔だ。彼のリアリティ情報箱には『年下の叔父と年上の姪の初対面』という特殊な状況風景が追加されるのだろうが、それが役立つときがやってくるのかは甚だ疑問である。あ、でもそういう人物設定を使えば簡単に使えるのか。いつか彼の作品にそんな場面が出てきたのならちょっと見てみたい。というか彼の作品自体に興味があるので、手が空いた時にでも本屋に寄ってみようと思う。
それから五分か十分か経った頃、再び部屋のチャイムが鳴った。今度は対応したのは花京院だが、大まかなやり取りは露伴と同じだ。間もなくして開いた扉からは承太郎と、年下の叔父である東方仗助がやってくる。
「話はしておいたから」
「ああ。……仗助、こいつが俺の妹でお前の姪にあたる――」
学生服にリーゼント。これまでの生活で見覚えが無いことは無い特徴的な髪形をした彼の顔は承太郎によく似ている。緒都はやってきた仗助を見て率直にそう感じたのだが、向こうはと言えば先ほどからぽかんとしていまいち反応が悪い。何をどう思っているのだろう。視界の端でじっと椅子に座っている露伴なら、彼のこの表情をどう分析するのか。
しかしこの直後、承太郎が緒都を紹介しようとする声を遮る様に呟かれた一言に、推測しようとする気力さえこそぎ取られる。
「……天使」
そして、見事な静寂である。
今度は緒都がぽかんとする番だ。相変わらず仗助はどこか呆けた顔であるけれど、緒都としては今の自分の顔が彼以上に間抜けでないことを願うばかりである。ジョースターフェイスな彼の顔はぽかんとしているとむしろ可愛い。が、彼が発した一言に関してはその真意が測れない。ひたすらに困惑、である。
沈黙はどれだけの間続いただろうか。あまりの衝撃に時間感覚がすっ飛んでしまったので体感感覚は全く当てにならない。
緒都は困った。どうしようもなく困ったので、承太郎の方を見ることにした。
「……仗助」
承太郎は仗助の方を向いていたのだけれども、おそらくは緒都の視線に気づいて停止した思考を再開したのだろう。仕切り直すように仗助の名を呼び、「こいつが緒都だ。空条緒都。散々言ったが、俺の妹でお前の姪だ」と改めての紹介をしてくれた。仗助はぱちぱちと可愛らしく瞬きをしてから承太郎を見て、それからやっぱり緒都を見て、「緒都……天使は姪で……姪が天使で……」とぶつぶつ呟いた後、一言。
「……天使は人間だったのか……」
本日の爆弾第二弾投下。どーん。
「花京院さん、僕はてっきり『年下の叔父と年上の姪の初対面』を見られると思ったんだが、これはもしかして『人が恋に落ちる瞬間』というやつだろうか」
「露伴くん、その興奮は今はちょっとしまっておいた方がいいかもね」
こそこそ喋っているお二方だが、残念ながらしんとした室内では丸聞こえである。といっても声量を押さえているのは花京院だけなので、最もこそこそすべき露伴の言葉に関しては忍ぶ気配すらなかったわけだが。
いや、そんなことよりもだ。緒都は仗助の迷言にやはり困っていた。まさか露伴が言うような一目惚れなんてものじゃああるまいし。再び助けを求めて承太郎を見る。が、求められている本人はと言えばやれやれだと何とも言えない顔で帽子のつばを下げ、今にも溜息をつきそうなご様子。それでもこの場をこのまま放置はせずにいてくれるようで、「緒都、こっちが東方仗助だ」とどうにか紹介を続けてくれた。有難い。が、こうなると次ってこっちのターンじゃないですか、と慌てて緒都も気持ちを立て直す。
「……えっと……空条緒都です。その、どうぞよろしく」
とりあえず改めての自己紹介と挨拶。となれば向こうもきっと我に返って、東方仗助っすーよろしくっすーと、まともな会話で再スタートを切れるはず。完璧な仕切り直しである。
「……っあの、俺のこと覚えてませんか!」
が、現実とは予測通りに進むものではないようで。身を乗り出すようにしての仗助の主張には残念ながら心当たりがなかった。当然、緒都は言葉に詰まる他ない。それでも仗助は気分を害した様子は無く、むしろ申し訳なさそうに「あ、でも承太郎さんが記憶障害って言ってたからな……覚えてないのか……」と独りごとを零してから、改めてこちらを見る。
「あの、覚えてないかもしれないんすけど。俺、ガキんとき高熱で五十日近く生死の境をさまよってた時があって……その時、あなたに会ってるんす。病院で、ふらふらしてた俺を見つけて助けてくれて、そんで手を握ってくれて……そしたら次に目覚めたときにはきれいサッパリしんどいのが無くなってて!俺はその、ずっとあれは天使だったんだとばっかり!」
「……へ」
「でも、実在する人だったんですね!しかも血縁で。……あっ!改めましてあの、俺、東方仗助です。その説はお世話になりました!」
ビシッと綺麗に曲がった腰で勢いのある礼。緒都は呆然とした。それからゆっくり、ゆっくりと仗助の言葉を思い返し、細かく噛み砕いて。
「……ジョウスケくん?」
合致した。ハッと顔をあげた仗助が何かを期待するようにこちらを見ている。
「……君、もしかしてあの時の……」
「覚えてますか!」
「あの、たぶん、間違いじゃなかったら……」
そりゃあ覚えてはいるとも。何しろあの少年との記憶は緒都にとってはほんの数日前。一週間もたっていないごく最近の出来事だ。実際は少年がここまで大きくなるほどの年月を経ていたとしても、精神的には大して時間は経っていない。
「花京院さん、これは思った以上に面白いですよ」
「露伴くん、繰り返すけど今は黙った方がいいと思うよ」
嬉々とした露伴の声と、もはやひそめることすら諦めた花京院の声にこっそり安心する。露伴の声調に至っては草でも生えてそうな勢いだが、何であったにしろ、仗助の主張と自分の記憶とが合致してもなお、戸惑いがここにあるもので。
天使って。天使って君。
緒都はやっぱり困って承太郎を見上げた。だが今度の承太郎はやれやれという顔では無くて、「家族会議が必要だな」と真剣な表情だ。どうやら失われた十年を生きた緒都は、このエピソードについて語ったことがなかったらしい。

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