▼叔父は天使を知っている


仗助は天使を見たことがある。十字を身に付けるわけでもなければ念仏を唱えるわけでもなく、信仰心というものすら薄い仗助だけれども、天使の存在だけは信じていた。馬鹿な話のようだが、これに関しては母子ともにそうなのだ。
それは幼い仗助が苦しんだ長い月日の終わり。熱に浮かされた頭で寂しさと苦しさに耐えていたら、天使が迎えに来てくれた。これだけ聞くとお前死ぬの?と言われても仕方がない響きだが、決して雲の上への招待に来た天使ではない。裸の少年でもなければ羽も弓もラッパもないが、その天使は優しい少女の姿をしていた。
当事、原因不明の高熱で生死の境をさまよっていた仗助は、地元近くの病院から離れ、より精密な検査のためにと大きな病院に転院をしていた。母が言うは意識が戻ることはごくまれで、ほとんどの時間を意識のないまま過ごしていたらしい。だがどういうわけかその日は丁度母のいないタイミングで目を冷まし、幼い仗助はとてつもなく大きな不安におそわれた。暗い闇の奥から流れ込む冷たい冷気のような、重々しい悪意に足を捕まれそうな恐怖。語彙力のついた今なら、当事感じていたものをそう表現できる。その闇はおどろおどろしくうごめいて、その手を今にも仗助の首にまで伸ばそうとしていた。とてつもなく恐ろしかったのだ。だからふらふらの体で何度も壁にぶつかりながら白い道を歩いては母の姿を探した。結局はすぐに力尽きて動けなくなり、泣きながらに母を呼ぶしかできなかったわけだが。
恐ろしい笑い声が聞こえてくるようだった。冷たい目が闇の奥でその時を待つようにこちらを見つめている気がした。だがその不安をかきけすように降りてきた声は優しくて、声は……少女は仗助を闇から遠ざけてくれた。
細かいことは覚えていない。けれどもあの温もりから離れたくなくて、またあの闇に捕まりそうになるのではないかと怖くてたまらなくて、いかないでと少女にしがみついたことは覚えている。少女はそんな仗助を突き放すことなどせずに手を握ってそばにいてくれた。あの感覚は不思議なもので、ただそれだけで、仗助を捕まえようと手をこまねいている暗闇は遠くに行ってしまうようだった。大丈夫と、朦朧とする意識の中でそう言われた気がする。
後の記憶はなおのこと曖昧でいて、しかし何よりも強烈である。お祈りだ。少女の姿を見て仗助はそう思った。何故だろう、あの光景はよく覚えている。ぼんやりと見上げた視線は一度少女のものと交わったのだと思う。優しい目が微笑んだ記憶がある。ぼやけた視界の中にはまた祈るような姿があった。
視覚的な記憶はそこまでだ。いつの間にか途切れた意識が次に戻ったとき、仗助を苛んでいた苦痛はすっかり波を引いていた。隣にいた母が泣きながら抱き締める腕は力強く温かい。そう、温かいと思うほど、仗助の体は正常に戻っていたのだ。お姉ちゃんがお祈りしてくれた、とこっそり耳打ちしたのは、なんだかとても綺麗な秘密を目にしたような気分になっていたからだ。他の誰かに聞かれないように、母だけにこっそり教えてあげたかった。「きっと辛いのをとってってくれたんだよ」「天使だったのかも」。幼い仗助は至極真面目にそう考えた。
少なくとも夢ではなかった。母もその少女とは入れ違いで顔を会わせているし、何よりその直後に仗助の熱が引いた事実を体感している。あながち間違いでもないのかもしれない、と名も知らぬ少女に仗助が「天使」と命名することを母もあっさり受け入れて……それが我が東方家の天使信仰の始まりである。もちろん信仰なんて言葉のあやで、十字架を掲げるわけでもなければお祈りをするわけでもないけれど。しかしあれ以来、仗助は何が幸運を感じると心の内で朧気な天使の姿にありがとうを言うのが習慣になっていた。それは例えば乗り過ごしたいつもの時間のバスが事故を起こしたときだとか、うっかり服を引っ掻けて立ち止まった一瞬のおかげで赤信号に滑り込んできた車との衝突を避けることができただとか。見えないどこかでまた助けてくれたのかもしれない。彼女が私の所属はここなんですと十字架のネックレスでも差し出してこようものなら、それを首からかけて過ごすのも実のところやぶさかではない。
そして今日も、仗助は天使にありがとうを言う。ギリギリのところで祖父は命を落とさずに済んだ。大事なものが失われずに済んだのだ。
「……仗助、すまんが電話を借りていいか」
「へ?あ、いいっすよ。どうぞ」
「助かる」
本当に危なかった。承太郎が電話口までしっかりと手に持った瓶は、今はただの水が入った瓶だ。ほんの数分前まであの液体はブランデーの銘柄表示を綺麗に真似て、その姿でもって仗助の祖父を騙そうとしていた。
滑り込むようなブレーキ音を立てて到着した承太郎が「仗助ェ!瓶から目を離すんじゃねえ!!」と切羽詰った声で叫ばなければ……その声が一瞬でも遅れていたのなら、祖父はうっかり瓶の蓋を開けてしまっていたのだろう。振り向いて半周ほど蓋を捻った姿を目にした時は生きた心地がしなかった。承太郎の激しいブレーキ音に祖父が気を取られていたのも救いである。
そしてその日から、仗助の日常は非日常的な危険とお隣さん状態で過ぎていくこととなる。仗助が天使にありがとうを言う機会は、自ずと危険に比例する形で増えていった。





「億泰ゥ!ボケッとしてるんじゃねえ!」
アンジェロの事件からほんの数日。切羽詰った男の声は、ボロボロの屋敷の中で張り上げられていた。
だが、状況は少々複雑な展開を見せる。弟を庇うように駆け出した形兆と、襲い来る電気のスタンドが触れた一瞬後。割れるガラス、潰れた蛙のような声をあげるスタンド、とガラスと共に落ちてきた謎の男、とその上にさらに降りてきた二人の人影。スタンドに飲み込まれかけて解放された形兆は床に倒れ込み、億泰は受け止めようと身を乗り出した。何もかもが突然で、仗助は康一と共にただ呆然と立ち尽くすことしかできない。しかし仗助は辛うじて、目の前に立っている男の一人に見覚えがあるという状況に気づくことができた。
「弓と矢、確保。承太郎、音石は生きてるだろうな」
「息はある」
「ならいい。……虹村形兆、虹村億泰。君たちの身柄を確保させてもらう。見てわかるだろうが、抵抗はおすすめしない。大人しくしてくれればこちらも手荒な真似をせずにすむ」
億泰と形兆の方へ向かって典型的な発言をするのは特徴的な前髪の見知らぬ男。同じく見覚えはないが、彼とは違ってなぜかボロボロな意識不明の男を踏みつけているのは、白いコートを着た大男。つい先日出会ったばかりの空条承太郎である。仗助は驚きを率直に声に乗せた。
「じょ、承太郎さん!?なんでここに……ってか何が」
「……仗助、康一くんも。大事ないか」
「は、はあ……や、ひとまず今は無事っすけど……」
「そうか。到着が遅れて悪かった」
「いえ、ってか、むしろなんで完璧なタイミングでここにいるのかが不思議っつーか」
「話は後だ。ひとまずそこの二人はこちらで預かる。自分の足で帰れるな」
「ちょ、ちょちょ、待った!そいつらはどうなるんすか!?」
指を指して問うのは、つい先ほどまで対峙してきた兄弟の行く末だ。仗助とて彼らに腹が立つ部分はある。身柄を拘束されるだけの理由があるとは思う。それでもその先の扱いが気になるのは、彼らの行動の背景を知ってしまった以上は仕方がない。視線を少し下ろせば、そこには彼らの『理由』である父親の姿がある。
「悪いようにはしない。……もっとも、兄貴の方はそう簡単な話じゃあないがな」
承太郎はそう言ってから、地面に転がる虹村家の父親を見下ろした。その視線に敏感に反応したのは億泰だ。兄が自分で起き上がり支えが不必要になった途端、這うように駆け出して父親を背に隠す。確かに、事前知識無しではどうやったって怪物にしか見えない姿だ。不用意に攻撃されることを危惧したのだろう。だが承太郎は存外冷静で、無言で億泰の背に隠された存在を見下ろした後、「花京院」と静かな声でもう一人の男を呼んだ。呼ばれた男はいつの間にか形兆の両腕を後ろに拘束していたその姿勢のまま、視線だけで兄弟の父親を見下ろす。
「……酷いな。……君は億泰くんだね。安心してくれ、お父さんに何かするつもりはない」
「……!てめえら、聞いて……あ、兄貴!」
「諸々の話は後に回そう。とにかく、今は同行願うよ。極力君たち自身の意思でね」
「ふざけんな!急に現れた名前も知らねえやつについていけるわけがねえだろ!兄貴を離せよ!」
拳を握り戦闘体勢に入る億泰の意見ももっともだと仗助は思う。が、ここでスタンドを出すのは得策ではないというのも正直な意見だ。仮に今この場面で誰かがスタンドを出現させると言うのなら、それは緊張状態で銃を抜くのと同義。今の流れのままに億泰が最初の一人になった場合を考えたのなら、その後の展開を読むのはごくごく容易だった。
しかし仗助の考え全てを一瞬の間に億泰に伝えるなんていうのもまた無理な話だ。結局はザ・ハンドの出現を止めることなど叶わず、となれば当然暴走に対応するため承太郎もスタンドを出現させる。となれば弟の身を守るためだろう、形兆もまたスタンドを。これでは死人が出かねないと仕方なしに仗助もスタンドを出現させ、康一もまた自衛のためにスタンドを出現させた。一瞬で予測した通りの展開を迎えてしまっては舌打ちをせずにはいられない。
……が、どういうわけか花京院だけは涼しい顔をしてスタンドを出す気配もない。そのことに気付いた仗助は、場の動きに対応できるよう警戒態勢を保ちつつも、視線だけを静かに花京院へと向けてみた。彼は変わらず形兆の両手を拘束して、周囲のバッド・カンパニーにすら怯えた様子は無い。もしやスタンドが見えていないのか?と一瞬の疑惑を抱くが、承太郎がこんな場所に連れてくるくらいなのだから、自衛手段がある、すなわち同じスタンド使いである可能性は高いだろうと思いなおす。
もしや今この場で一番の脅威はこの人だろうか。本能に近い部分で、仗助は睨み合い状態であるスタンド以上に、一見何も無いように見える生身の人間に警戒心を働かせていた。
一方花京院はと言えば、警戒など微塵も読み取れない様子で肩をすくめて平然と口を開く。
「失礼、名乗るのが遅れた。僕はSPW財団超自然現象部スタンド対策特別班所属、花京院典明。ちなみに僕もスタンド使いで、今ここで一歩でも動いた誰かは怪我をすることになる。というわけで全員がスタンドを仕舞うまで動かないでくれよ。不必要な流血は避けたいのでね」
「何言ってんだてめえは!いいからさっさと兄貴をはな――」
「ッやめろ億泰!!」
張り上げた形兆の声にびくりと反応したのは億泰だけではない。その鬼気迫った顔に相応の理由があると察した仗助と康一もまた、身体とスタンドと共にその場に留まり周囲を警戒する。
何だってんだ、というのが正直な一言だった。仗助はあくまで、承太郎が連れてきた男に危険性があるとは考えてはいない。つまりは花京院の言葉に大人しく従えば、その言葉の通りに不必要な流血は起こらないだろうとは判断している。
が、そう簡単に話が進まないのが現状だ。なぜなら仗助がそう望み行動したからといって、全員が同じとは限らないからだ。誰か一人でも攻撃的な行動をとれば、それが原因でこの場に争いが勃発する可能性は十分にある。そうなったとき、最低でも康一の安全だけは確保してやらなければと思うのだ。だからこそスタンドを簡単には引っ込められない。それでも最終的に仗助が至りたいのは花京院が言う通りの、全員がスタンドを収めた状況である。となればやはり問題は先にスタンドを収めるかで、しかし何が起こっているのかさえわからない今、スタンドを消すと言うのはなかなかに勇気のいる行為であるというのも変えようのない事実である。仗助がちらりと視線を康一に向けると、彼もまた同じく状況に戸惑っているようだった。
そうしてどうにも状況の打破に踏み出せずにいる、この間は実はほんの二、三秒にも満たない。だがこの微妙な均衡を最初に崩したのは意外にも形兆であった。確かに、先ほど億泰を止めた彼は相応の理由があってのものであろう顔をしていた。事実、何かに気付いている様子で「周りをよく見ろ」と言い放ち、形兆はバッド・カンパニーを全て仕舞う。
その言葉に仗助、康一、億泰は揃って視線だけをきょろきょろと周囲に向ける。すると最初に形兆の言う何かに気付いたらしい康一が「あっ!?」と声を上げ、次いで承太郎が溜息と共にスタープラチナの姿を消した。
「やれやれ……昔からやる時は大胆に物騒なことをやるやつだったが……」
「仕方がないだろう。早く済ませたいんだ」
「そりゃあ俺もだ。……仗助、康一くん。スタンドを仕舞ってくれ。今、この部屋には花京院のスタンドが張り巡らされている。少しでも動けば、感知個所への攻撃が自動的に発生するだろう」
いち早く「はあ?」と理解が及ばないという声を発したのは億泰だったが、花京院に拘束されたままの形兆の表情を見て、億泰なりに承太郎の言葉に嘘は無いと察したのだろう。おかげで頭も冷えたのか、ほどなくして彼の目にも仗助がたった今気付いたような光景が映ったようだった。
「……糸だ」
呟いたのは康一だった。その言葉が何を指しているのか、今の仗助には良く分かる。先ほど承太郎が口にした通り、室内には正体不明……というわけでもないが、ともかく細く気配の薄い糸がびっしりと張り巡らされていた。一歩踏み出せば触れてしまいそうな密度に冷や汗が湧き出る。同様に緊張した様子の康一が生唾を飲み込んでエコーズを戻せば、次はお前だと言うように承太郎がこちらを向いたので、仗助もまた微妙な表情のままクレイジー・ダイヤモンドを戻した。離れた場所では、一連の流れを見届けてた花京院が満足そうに頷いている。やがてその視線は最後に残った億泰へと向けられた。
「さあ、億泰くん。あとは君だけだ。……君がここに居る誰かを攻撃をする理由はないと理解してほしい。君たちの今後の扱いを話し合わなければならないことは、君自身にも自覚があるだろう。そしてその過程の安全はSPW財団が保障する。お父さんについてもね」
「……そのSPW財団ってのはよお……名前だけは知ってるぜ。でもどうしてその名前がここで関わってくる?」
「言っただろう?超自然現象部、って。こういうことに対応する部門があるのさ。……肉の芽についても、手当たりしだいに調べていくよりよほど有用だと思うよ。分析技術においても、そもそもの情報量においてもね」
どれだけ丁寧に手を差しのべられても、億泰の戸惑いは拭われないようだ。考えるのが苦手なくせして花京院へ、兄へ、父親へと泳ぐ視線が少し可哀想で、とうとう仗助は溜息をついて助け船を出すことにした。助け舟、といっても、この一意見が実際のところは誰にとっての助けになるかなどわかりはしないけれど。
「……億泰、その人の言ってることに嘘はねえんじゃねえか。傷つけたくないってのは本当だ。実力行使で制圧するわけでもなく、こんな緊張状態っつーめんどうな状況にもってきたわけだしよ」
「……わ、わかるけどよお!兄貴と親父になにもしないっつー保証はよお!」
「さっき、あのわけわからんスタンド使いを倒してくれたわけだろ。助けてくれたんじゃねえのか。それに、なにも離れ離れにするとは言ってねえ。心配ならずっとついときゃいいんだ。俺もいくからよ」
「な、なんでだよ」
「ここまで関わっちまって、後はよろしくお願いしますなんて寝覚めが悪いだろうが。……いいっすよね、承太郎さん」
お伺い、というよりはあくまで確認という口調だったが、承太郎は特に気にした様子もなく「親御さんが心配しない時間までならな」とあっさりと許可をくれた。そのあまりのあっけなさに億泰はえっと言う顔をしてから、しばらく悩み、その末にようやくザ・ハンドをしまう。おかげでこの場に出ているスタンドは花京院のスタンドのみとなり、彼は「ありがとう」と穏やかにのべて、ようやくびっしりと張り巡らされていたピアノ線のような細いスタンドを消し去った。
あの糸が仄かに緑色に光って見えたのは光の反射だったのだろうか。仗助は軽くなった空気の中で脱力しながら考える。何にしても、そこにあると理解した瞬間から異様な緊張を感じるスタンドだった。前後左右から頭上まで余すことなく、細く鋭そうな糸がああもびっしりと張り巡らされていると、地雷地帯にでも放り込まれたような気分だ。そこから解放されてついた深い息は見事に康一とかぶってしまった。反射的に顔を見合わせてお互いどっと疲れた顔をする。
そうこうしている間にもうほとんど存在を忘れていた謎の再起不能男を承太郎が俵かつぎにし、ほんの一瞬現れたスタープラチナが虹村父の鎖を引きちぎる。花京院は形兆の腕を拘束したまま、片手に持ったままだった弓と矢を承太郎に託し、「下に車がつけてある」と言って先頭を歩き出す。虹村父のことは億泰にまかせたようだ。彼の後をその場にいた全員が追っていく。
花京院の言葉通り、屋敷前にはいつの間にか大きめのワゴンが停められていた。運転席にいた男は『SPW』とロゴの入った服を身に付け、承太郎と花京院に会釈をひとつ。ワゴンに乗る直前、また別の職員と花京院との間に「連絡はいれますか」「いや、音石のスタンドを確実に囲ってからだ」と短いやり取りがあったが、もちろん仗助には何のことだかわからない。
その後、ワゴンに揺られてたどり着いた先はSPWと掲げられた施設だった。どうやら花京院というこの男、本当に身分に偽りはないらしい。さほど疑っていたわけでもないが、改めて事実を実感して何とも言い難い気分にはなった。
屋内に案内されてから、意識不明の男だけは別室に連行されていく。形兆だけはあの男に心当たりがあったようだが、特にコメントはないらしい。代わりにそわそわしたのは康一で、登場後即始末された彼が何者であるのかを尋ねるという、地味な勇敢さを披露してくれた。疑問に答えたのは一旦部屋を出て戻ってきた花京院だ。男の名が音石明であること、電気を伝ってあちこちへ潜伏できてしまうこと、それゆえ盗聴盗難覗きなどといった山ほどの罪を犯していること、確保しておかなければ情報が駄々漏れになることなどを淡々と語ってくれた。少なくともあの屋敷でのやりとりは、全て音石明に高みの見物をされていたようだ。
その後は早速虹村兄弟の処遇について。主に花京院による虹村兄弟への取り調べ、というような雰囲気ではあったが、話が今後の兄弟の生活……資金面の不自由がないかなどの生活相談に移ったところから、仗助はやはりこれでよかったのだと感じ始めていた。資金についてはDIOの下で父親が稼いだ分が十分にあるとのことだが、未成年同士では書類上の問題も多い。というわけでの提案が、
「形兆くん、主犯となる君に関しては今後の行動に監視がつく。弓と矢についても情報を渡してもらおう。そのかわり、億泰くんと共に普通に学校に通ってくれて構わない。日常生活に関しての制限は、必要な呼び出しを除けば特にないよ。書類上の後見人を用意する。それから住居についてだが……あの屋敷、水も電気も通ってないだろう。君たちさえよければ新しい住居もこちらで用意する。お父さんについてもうちの技術での検査や治療は惜しまない」
とのことであった。
途中、承太郎が「やれやれ、甘いぜ」とため息をついたが、「君がいなければ僕も、と考えるとね。思うところがあるのさ」「会えてなけりゃあその前に死んでたろ。安心しろ」となにやら旧知の仲を思わせるやり取りがあって何事もなく収まる。会話の意味はわからない。何となく聞いてはいけないような気もして、尋ねることもしていない。
それよりも不思議と仗助の記憶に残ったのは「何より彼女がそう望むと思ったからね」という一言だった。当然これの意味もわからないが、呟いた花京院の目がやけに印象的だったのだ。とはいえ結局そのどれも深くは突っ込めないまま、ひとまず双方合意ということでその日は解散となるわけだが。
屋根の下から赤くなった空の下へと踏み出し、中身の濃い一日を終えようと深呼吸して思う。今日も無事だった。目の前で誰かが死ぬこともなかった。奇跡とも思えるタイミングで承太郎が間に合って、最悪の事態が回避された。また救われた、今日もありがとう。そろそろ本気で十字架でも買った方がいいだろうかと考え始めて、仗助が敷地内を出ようとしたところ。
「仗助、このあと時間はあるか」
家へ向かおうとする足は承太郎によって呼び止められた。仗助の濃い一日はそれだけでは終わらないらしい。
「時間、はありますけど……なんすか?」
「会わせたい人がいる。乗れ」
「もしかして親父っすか?それなら気が乗らないんですけど」
「じゃあねえから、安心しろ。てめえの姪だ」
「は?」
「会う前に話しておきたいこともあるからな……花京院、お前も戻るんだろう。あっちにも話を通しておいてくれ」
ポケットから車のキーを出した承太郎がそう言うと、少し離れた場所にいた花京院はひらりと手を振って別の車に乗り込む。たぶん了解の意味なんだろう。仗助も促されるまま、承太郎の車の方に乗り込んだ。
「姪っつーことは、承太郎さんの姉か妹?」
「妹だ」
「一緒に来てるんすか?……ま、まさかスタンド使い?」
「一般人だが、スタンドの存在は知ってるから隠す必要はない。あいつには見えないがな」
「へー……」
「それとあいつは今記憶障害を起こしてる」
「はい?」
流れていく窓の外の景色を見ながら仗助が考えていたのは、承太郎さんの妹ってどんな顔だろう、似てんのかな、やっぱ強そうなのかな、肝が据わってそうだなーと、なんとも呑気なことだ。だというのにそこにさらりと投下された爆弾はなかなかの衝撃で、仗助は運転席の承太郎の方を向いてから、とにかく反応の仕方に困った。
「……あー……っと……そりゃどういう」
「ここ十年ほどの記憶が失われている。まあ、初対面には違いないから、この件は頭に留めとくだけでいい」
「……お、俺は会ってどうすれば」
「顔合わせだけだ。あまり気を張るな」
いやそりゃあ無理って話ですよ、と突っ込みたい気持ちを飲み込み、仗助は「はあ……」と力ない返事をする。それきり視線は窓の方へと戻るが、ほんの数秒前のような呑気な気持ちにまでは戻れない。
仗助の気分はひたすらに降下した。特別嫌だという訳でもないが、当然逆に楽しみなどということもないので。しかしその気持ちは案外長続きはしない。杜王グランドホテルで承太郎に案内された部屋に足を踏み入れた途端――正確にはそこに居た女性と目があった途端、陰鬱としていた気持ちは綺麗さっぱり霧散した。
その部屋に見覚えのない男が一人いても、先に着いていた花京院が「話はしておいたから」と声をかけても、女性の隣に並んだ承太郎が「仗助、こいつが」と紹介をはじめようとしても。あまりの衝撃に聞こえてくる全てが右から左へ状態だ。そして仗助はぽつりと、つい零れてしまった一言でもって一瞬その場を凍らせる。
「……天使」
見事な静寂だった。だがそんなこと欠片も気にならないほど、目の前の女性以外がどんな顔をしているのかさえ目に入らぬほど、仗助の視界には幼き日の美しき思い出だけがあった。
周りがすっかり見えなくなったのも仕方がないだろう。いわばこの状況は十字架を前に御祈りを捧げた目の前にイエス様が登場したも同然。彼女は十年以上前から仗助にとってのそれだったのだ。たとえその心が敬謙な信者が抱くような信仰心ではなかったとしても、少なくとも別の形で天使は仗助の心に居座り続けていた。だから、唖然とする。だから、驚愕に目が離せない。
なにせ初恋だったもので。

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