▼妹と先を行った世界


なんだかとてもシリアスチックな夢を見た気がする。もう名前も思い出せない親友と百合ごっこをしてなんだかものすごくうまい具合に話をまとめられた気がする。誰がうまいこと言えと……あの女めウィンクまでかましやがって。そしてそれが様になるからまた困るのだ。きっとあの後一人でドヤ顔をしていたのであろうことを考えると、思わずジンと来てしまった時点で負けた気がする。
……ところでここはどこでしょうか。緒都は気だるい体で瞼を持ち上げ、眩しさにしばし目を細めた。ぼやける視界は寝起き独特の感覚。鮮明さに欠ける視覚ではあるが、それにしたってこの天井には馴染みがない。
「緒都ちゃん?」
「!」
僅かに身じろいで状況の把握に努めていた思考は、突如かけられた声にハッとして一時中断となった。声の方を向くのは反射だ。とはいえ体がやはり寝起きの鈍さを抱えていたので、動きはゆっくりと、視線が先を行ったわけだが。そうして目を向けた先に居たのは、一応は見覚えのある顔である。だがしかし、視覚情報の処理に頭がいまいち追い付かない。おかげで数秒間無言のお見合い状態が続く。
「……」
花京院典明。明るい髪と独特の前髪から、辿る必要もないほど手前の記憶からその名をひっぱり出した。実際に顔を合わせたのは合計しても一時間にも満たないかもしれない程度だが、人違いと言うことはないだろう。一応、画面上と紙面上で見慣れた顔でもあるので。
しかしそんな彼がなぜここに。というか何だろうか、この違和感は。記憶にある彼のようで彼ではないような気もする。髪切った?なんて問いかけも出来ないほどの関わりであるというのに、緒都は目の前の彼に言い知れぬ違和感を抱かざるを得なかった。何だろう、やはり何かが違うような気がするのだ。
「自分が誰だかわかるかい?」
そうこうしていたら沈黙をゆっくり押しのけるように、花京院の方からの穏やかな問いかけがあった。緒都はぱちぱちと瞬きをして、戸惑いつつも「空条、緒都」と思いのほか掠れた声で回答する。それから辺りをゆっくり見回して、どうやらここがどこかの病室らしいことを理解した。病室で、しかもベッドに横になっているとなると、緒都が倒れでもした可能性は高い。……そういえば、直前まで初対面の男の子の手を握っていたのだった。夢の中では驚くほど不鮮明だった記憶がじわじわと鮮明に戻ってくる。あれは病院であったから、そこで疲労でも溜めて倒れてしまったというのが一番妥当な推測だろうか。となると、この質問は異常の有無を確認のための簡単な問診、ということだろうか。
「君の家族は?」
「空条、承太郎、ホリィ、貞夫……ジョセフ、スージーQ……」
「僕が誰だかわかる?」
「……花京院、典明?」
あれ、でもそれならそれで何故彼がここにいるのだろう。彼は遠い地で宿敵との決着に挑んでいるはずで……ああ、もしかして先ほどから感じる違和感は彼が着ている服のせいだろうか。落ち着いたカッターシャツは、彼を印象付ける学ランとはかけ離れているから。いや、それはそうとやはり彼がここにいることが何よりの疑問だ。緒都はゆっくりと体を起こしてから眠りすぎによる鈍痛に頭を抱え、疑問をそのまま本人にぶつけてみることにした。
「……あの……えっと、花京院、さん?いつ帰って……承太郎は?」
しかし聞いた途端、花京院の笑顔が不自然に固まる。それから「……少し待ってもらえるかな?ごめんね」と傍にあった電話の受話器を片手で取り、どこかへの番号を押してからすぐに受話器を下ろした。ワン切りとかワンコとか言われるアレだ。本当に少しで終わった待ち時間に唖然としながらも、こちらに向き直った花京院に思わずびくりと肩が揺れた。顔を合わせたことがあるとはいえ彼とはほぼ初対面。話したことなんて「お邪魔してます」「どうも」程度しかなかった気がする。
「まだしばらくかかるかもしれないけど、承太郎も来てくれるから。大丈夫だよ、緒都ちゃん」
「……承太郎も帰ってきてるんですか?」
「……ああ。ひとまず、君の話を聞いてもいいかな?ここで目覚める前まで、君は何をしていたか覚えている?」
「何、って……病院で……あの、私どこかで倒れでもしたんですか?だとしたら、私誰かに迷惑を……ジョウスケ君にも」
「……え、待って。仗助?」
「はい?」
「仗助って、」
何やらまた深刻そうな顔。しかし驚きも交じっていたその顔は、直後に激しく鳴りだした電話の音に掻き消されて言葉ごと中断となった。花京院はハッと受話器に手を伸ばして「はい」と答える。待って、というように広げられた手に黙って頷けば、花京院は心なしか顔を背けて電話の主と話をはじめた。
「落ち着いてくれ、ひとまずは大丈夫だ。最悪の状況ではない。すぐに来られるか?……ああ、いや、それならそっちの方が急用だ。大丈夫、ついているから。今すぐどうこうという話じゃない。……ああ。なら、問題が片付いたらまた連絡をくれ。東方家の電話番号なら控えてあるし……」
「東方?」
ぽろりとつい復唱した名前に花京院が目を見開きこちらを向いた。緒都はハッとして口を押える。いけない、つい反応してしまった。東方と言えば、緒都が読んできた四部以降、というかまさに四部の主人公だ。今度こそ持ち帰ってこられた記憶は原作である漫画からの知識で、承太郎に託したあの手帳よりもずっと正確な情報がある。おかげで四部の主人公は東方仗助、とキッチリとした意識があったので、ついつい東方と言う名に反応してしまった。そういえば、あの男の子の名前も同じジョウスケだ。もちろん四部が始まるにしては早すぎる時期だろうから、今しがた花京院が口にした東方も関係ないと思うのだけれど……思うのだけれども、彼のこの目は何だろう。電話口の相手を放っての無言にもごもごとした機械越しの低い声が微かに聞こえる。それにハッとした花京院が「すまない」と謝るが、視線は緒都に向けられたままだ。やけに緊張する。そしてじわじわと今のこの状況がほぼ初対面にも等しい人との一対一の空間であることを思いだして緊張が増していく。
「……承太郎、少しそのまま待ってくれ」
「え、承太郎?」
「緒都ちゃん、君はもしかして東方仗助を知っているのか?」
「えっ」
だが承太郎の名と花京院からの問いにあっさり打ち砕かれた緊張は、ありありと肯定を示すような間抜けな驚きの声を上げてしまった。花京院はぐっと眉を寄せて、受話器を耳に当てたまま続ける。
「緒都ちゃん。今、承太郎は東方仗助の家に向かっている。アンジェロと呼ばれているスタンド使いを仗助くんが捕えたと報告が入ったからだ。……今ここで、何か承太郎に伝えなければならないことはあるかい?」
淡々と告げる花京院はどこか難しそうな顔をしていた。しかしそれ以上に緒都の思考状態の方が難しいことになっていた。
東方仗助、アンジェロ。そのワードは、状況はまさに四部の序盤。緒都は戸惑いに目を見開いて息をのむ。何故、どういうことなのだろう。承太郎と花京院がいつのまにか帰ってきていたことに加え、まだ十年ほど先であるはずの四部が始まっているなどと……これが緒都が変えたことによる変化の形だとでもいうのだろうか。それにしたって説明がつかない。だって、それでいくと本来十年ほど後に高校生であるはずの仗助が、今……つまり四歳か五歳か六歳かでアンジェロを捕まえたということになってしまう。いや、それはさすがに。それじゃあまるでつい先ほどまで緒都が手を握っていた幼いジョウスケ君のようではないか。いや、だから、それじゃあ辻褄が合わないんだって。
混乱を極める思考回路は意味のない堂々巡りを続けていく。しかし花京院の「緒都ちゃん」という声がひとまず意識を引き戻したので、状況がどうであれ四部が始まってその展開が繰り広げられているというのなら、確かに伝えなければならない犠牲があるということを思いだした。焦りが緒都の声を張り上げさせる。
「仗助のおじいさんが死んじゃう!」
「!」
「承太郎が着いた時に仗助が目を離して……その隙にブランデーに化けて、それでおじいさんが瓶を開けちゃって……!」
花京院が受話器をこちらに向けて、緒都が上げた声を向こう側へと拾わせる。先程わずかに聞こえた声は承太郎なのだろう。今の訴えは届いただろうか。受話器を耳にあて直した花京院が「聞こえたか?」と尋ねても言い直しがないということは、先程の声はしっかり届いたということなのだろう。その後はああだのうんだの少しのやり取りを終えて電話が切られる。ともかく承太郎に伝わったのなら大丈夫、と安堵した緒都は急に声をあげて驚かせてしまった喉でつい軽く咳き込んだ。花京院が慌てたように背中をさすってきたが、別にそんなに危険な事態じゃない。大丈夫、と掠れた声で笑ったら、それはそれはホッとした様子で花京院も笑った。今までの冷静な印象から一転、笑顔ひとつでなんだかかわいく見えてくる。一応彼はひとつ年上であった気がするのだけれども。
「……今の件は片付けばあちらから連絡が来ると思う。ひとまずは待とう。その間は……そうだな……どうしようか」
「……この状況が、よくわかっていないんですけど……あの、承太郎は帰ってきてるんですよね?ママはどうなりました!?」
「ホリィさんは元気だよ。大丈夫。……緒都ちゃん、疑問は山ほどあるだろうけど……どうか承太郎が到着するまで待ってくれないか?その話をするには、彼がいる方が君のためだと思うから」
困り笑いは何かに耐えるような顔だ。そんなものを見せられては、緒都はもう何も言えやしない。





なんということでしょう。状況の説明を受けた緒都の最初の呟きはそれだった。もちろん心の中で、という補足がつくが。言葉を失った緒都の手は今、大きな手に強く握られている。ごつごつとした手の甲は心なしか様子が変わっただろうか。実のところあまりよくわからないが、それでも見定めようとするようにいつまでもこの手を見下ろしているのは、単に顔を上げることができないからだ。どうにも今のあの顔を見るのは気まずい。何故って、そこに居る承太郎は記憶よりも十年ほど先の承太郎なわけだから。
どうやら緒都が昨日と思っていた昨日は、実の所十年ほど前のことであるらしい。つまりは実際は四部が始まっていても何ら問題のない時期。ズレていたのは緒都の認識の方だった。何でもかんでも自分を主軸に考えるから単純な事実が見えないのだ。こっそり反省しつつ、同時に終わっていた青春時代に深くショックを受けた。青春がどうのこうのと言うよりは、とっくに成人していたらしい自分の中身が年相応の経験を伴っていないことへの焦り、なのだが。どうやら一人暮らしで仕事もしていたとのことで、健全な生活を送っていたことには拍手を送りたいのだけれども、今の緒都がその生活を引き継ぐには不安が大きすぎた。
それにしたって、何故こんな時差が生じているのだろう。世界を跨いだと思ったら、今度は時間まで跨いでしまったのだろうか。……いや、たった今自分を主軸に考えることによる了見の狭さを自覚したばかりだ。ここはもっと客観的な視点を持って……そうして考えると、記憶障害というのは本当の本当に事実なのかもしれない。緒都は本当に三部終了後の日々を経験して、その記憶を綺麗に失ってしまったというわけだろうか。知られざる日常編をうっかり忘れてしまったと。
いや、こうも沈むばかりでは駄目だ。前向きに考えよう。今は気を遣って席を外している花京院がこの時間軸に居るということは、緒都が承太郎に託したあの手帳が役立ったということだ。死ぬはずだった花京院は生き延びた。その他の仲間がどうなったのかまでここで確認はできないが、少なくともより良い未来を手に入れることはできた。承太郎の喪失を避けることが叶ったということだ。
そうだ、悪いことばかりじゃない。失った時間は大きいけれど、それ以上に得られたものがある。確かに、年が近かった兄と精神的な年齢差が広がったことでガチガチの緊張はあるけれど、兄は変わらず緒都を大事に思ってくれている。衝撃の事実を知らされる前に呑気に見上げた顔はその服装に違和感を抱かせる程度の変わらぬ様子であったし、視覚的な衝撃はさほど大きなものではないだろう。花京院に対する違和感も、なんだかよく分からないけど何かが違う、という程度であったわけであるし。あ、でも結婚して娘もいるという衝撃だけはとてつもなく大きい。この話題に関しては承太郎からも未だ振られてはいないので、可能な限りは避けさせて頂こうと思う。ともかく、今は今を見つめることで精一杯だ。
そう、つまりはこの手ばかりでなく、この手の持ち主の顔を真正面から見ることだけで。
「……」
「……」
つまりはこの沈黙に対抗することだけで、もういっぱいいっぱいなのである。
とにかくいい加減に何かしらの発言をしなければ。恐らく承太郎の方は緒都に気を遣ってくれている。ということは、このまま硬直状態が続いては、考える時間が必要だろう、しばらく席を外すぜ、なんてことになりかねない。そうではない、緒都が望んでいるのはそれではないのだ。確かに顔は見れないのだけれども、一人世界から浮いてしまったような状況で置いていかれたいわけではないのだ。
「……じょ、承太郎は」
なので、どうにかこうにか声を絞り出して必死に話題を模索する。心なしか繋いだ手に力がこもってしまったが気付かぬふりをしてほしい。
「……その……今日、帰るの……?」
「ああ」
「……そっか……」
「お前も連れて行く。健康状態に問題はないようだから、すぐにでも退院できる」
「……そ、そっか!」
うわあい一人にはならないらしいよ!病院で一人の夜なんて少なくとも物心ついてからは経験したことが無いのでこれもまた不安だったのだ。安心感にパッと顔を上げると承太郎とガッツリ目があった。やべ、今あからさまにホッとした顔見られた。悪いことではないのだろうけれども、恥ずかしすぎて心なしか頬が熱くなる。実年齢は成人済みのくせをして、精神年齢の低さが露呈した瞬間である。理解があるとはいえこれはやはり恥ずかしい。慌てて俯くのは仕方がないことだろう。しかし承太郎が「緒都」とこちらを呼ぶので、俯いたままでいるわけにもいかない。結局はおずおずと視線を上げることとなった。
「それでいい」
そうしたら、視線の先で承太郎が薄く笑っていたものだから。
「お前はそれでいい」
「…………はい」
呆けた顔で呆けた返事をして、緒都はようやく兄のグリーンアイと三秒以上視線を合わせることに成功する。身内耐性をものともしないイケメンオーラに押し負けた図である。返事が「ひゃい」にならなかっただけ良しとするしかない。これは不可抗力だ。人類のヒエラルキーの頂点と言ってもいい兄を相手にはだれも勝てないのだ。そうやって開き直ってしまえばある意味勝ったも同然で、兄の顔が見られない病は、荒療治を乗り越え十分足らずで完治したのであった。

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