▼あの日叔父は無知だった


「今さらどうということでもないが」
ボロボロになった男の『ページ』からペンを離して伏せらた睫毛を、意外に長いなと思ったことを覚えている。
「僕はやっぱり冷たいやつなのかもな」
瞼に隠された瞳が本当に込めていた気持ちをくみ取れない代わりに、あの日の仗助は己の内に湧き出るやるせなさを受け止めることしかできなかった。
時を同じくして、あの人は一人立ち止まり、世界から足並みを外れたのだという。





「えっ、目を覚ましたの!?」
「おー」
「そ、それでどうだった?その……徐倫ちゃんの反応は……」
「見ての通り元気だぜ。いや、元気になった?……なんかよくわかんねーけどよお、見つけたのが徐倫で、そん時は大泣きだったから」
「緒都さんの方は?」
「ビックリしてはいたけど、案外冷静にあやしてたな。もともと保育士やってたとは聞いてたし、まあそれについてはすげーなぁと」
「じゃあ、思ったより気まずい雰囲気にはならなかったんだ。よかったね」
虹村家のリビングで教材の広げられたテーブルを囲み、仗助はペンを握りながら康一の言葉に神妙にうなずいた。康一の向こう側には、少し前に知識量のキャパシティオーバーを迎えた億泰がカーペットの上で仰向けに寝転がっている。
一方、ちらりと目を向けたダイニングには、キッチンに立つ刑兆の足元にまとわりつく徐倫が見える。小さな生き物がちょろちょろとするのは鬱陶しいのか、刑兆の足は荷物を退かすような雑さで時折徐倫を押し退ける。とはいえ本気で拒絶されているか否かの見極めが動物並みに敏感なのが子供だ。判定の結果、徐倫は懲りずにまとわりつくことを選んだらしい。ジーンズを握ってぴたりとくっつき、しまいには刑兆の片足の一部になっている。あれもまあ、この二年のうちに見慣れてしまった光景である。
仗助が徐倫に出会ったのは、緒都が倒れてから数ヵ月が経った頃だ。続々と明らかになる己の血縁関係に慄きつつもその程度が軽かったのは、先に『緒都が倒れた』という大事件を経ていたからだろうか。
正確には倒れた、だけで済ませられるほど単純な状況ではなかったわけだが。
あの日、あの瞬間、仗助は露伴と一緒だった。あの時己が携わった事件は、未だかつてない大事件であったと認識している。異様なほどの行方不明者数、その原因たる連続殺人鬼。生まれ育った町にそんなものが潜んでいたなんて、と最初に衝撃を受けたのは康一を通じて杉本鈴美という被害者の霊の存在を聞いたときだ。あの時はまず、康一が霊などという言葉を口にしたことに驚いて、次いでその霊を露伴が探していたということに驚いた。二人の関係性を大まかには聞いたが、二人の間にどんな会話があったのかの詳細までは知らない。ただ、康一個人が冷たいという印象を受けた「さっさと忘れて成仏しろ」というような発言だけはなんとなく聞いて頭に残っていたし、後々それをきっかけにちょっとした言い争いが発生したりもした。
とはいえ、仗助も露伴を責めたかったわけではない。だからこそあの言い争いの後に改めて顔を合わせた時には、多少の気まずさこそあれど仗助から先に謝罪を口にした。向こうも向こうでそれをつっけんどんに跳ね除けることもなく、確かあのときは「ああ」で早々に話が終わったのだったと思う。
多少記憶が曖昧になってしまうことに関しては仕方がない。なにせその後が仗助にとっては衝撃的、かつ強烈、痛烈な衝撃体験であったから。
その連絡を聞いたのは、露伴が吉良吉影に文字を書き込んでしばらく後だった。同席していたのは花京院と、その数日前に顔を合わせていた彼の戦友だという外国人二人。ほんの数十分前まで共にいた承太郎は一足先にホテルへ帰って緒都に会いに行ったらしい。おかげで彼が『間にあった』のだということは、連絡を受けた花京院を通じて聞いている。
露伴が行ったのは大まかに、スタンド能力およびそれに纏わる記憶の消去、殺人衝動の消去および自白を促す行動命令の書き込みだ。あの時の露伴の呟きと横顔は、後の知らせへの衝撃と結びついて鮮明なまま。あの時、彼に何の言葉もかけられずにいた仗助は、その後連絡を受けた花京院からの「緒都ちゃんが倒れた」という伝言にもまた、何の言葉も発することができなかった。
――仗助、緒都を治してくれ。
甥の背があんなにも小さく見えたのは初めてだった。
――治せなくてもいい。治せなかったという事実だけでも、はっきりさせてくれ。
あそこまで覇気のない甥の声を聞いたのは初めてだった。
仗助はただ困惑の中にあった。忙しない周囲に立ちすくみ、言われるがままに突き出したスタンドの拳は、仗助自身にもまた確固たる事実を突きつける。
結局目覚めることの無かった緒都はその日、精密検査のため杜王町を去って行った。呆然とするがままに過ぎていった数日間、仗助が身に染みて感じたのは無力感。同時に突き付けられたのは、自分が何も知らないままでいるという事実。
自覚した途端に気が付いた。本当に、自分は何も知らないのだと。姪が事実だけを語った二回にわたる記憶障害。過保護なまでの彼女の兄。それを当然として受け入れる花京院に、彼ほど関係が長いわけでもないだろうに、同様に緒都に付き添っていた露伴。
何故、を問おうとしたことが何度あっただろう。けれどもそのたび、言葉を濁されればそれ以上を踏み出すことはしなかった。己が足を踏み入れて良い問題ではないと思ったのだ。深い事情は尋ねられない。誰に言われるでもなく結論づけたそれが間違いであったわけではなくとも、理解できない事態に立ち尽くすしかできない仗助の状況は、結局は己の選択が招いた結果だ。
それは良いことでもなければ悪いことでもない。ただただ、そこにあるだけの事実。どちらとも傾かない事象。
問題は『何も知らない』『何もできない』という事実を仗助自身がどう扱うか。
一週間かけて、仗助はそれらの事実を『受け入れない』ことに決めた。
緒都に、承太郎に会いに行く。己の中に決心を抱いて最初に取ろうとした行動はそれだった。が、肝心の彼らの居場所がわからない。とはいえ二人がいるのは十中八九が花京院が所属する組織だろう。直感的にもそのことはわかっていたし、仮に外れていても彼らならば二人の居場所くらいは把握していてもおかしくはない。
しかし仗助はそもそも、彼らへのツテを持っていなかった。というのも、出会った時に花京院が名乗ったのは超常現象対策がどうのこうのという部門名であり、そう名乗られる以前まで仗助が知っていたスピードワゴン財団、という有名すぎる組織は、少なくとも表立ってそのようにオカルトチックな名を掲げてはいなかったはずなのである。となると、財団内での例の部門の扱いがどうなっているのかがさっぱりわからない。となればツテのある誰かを探すのは自然な判断であり、最初に露伴の顔が浮かんだのも自然なことだっただろう。しかしその時すでに露伴は不在。後になって分かったことだが、彼は早い段階から緒都たちのそばにいたらしかった。
結果的に仗助が頼ったのは形兆だ。虹村家が例の財団から支援を受けている、というのはその話がまとまる場に居合わせた仗助の記憶にもある事実であり、その時以来言葉を交わす機会の無かった形兆へと、仗助は迷わず頭を下げた。あの時の億泰は面白いくらいにおろおろしていたのだったか。まあ頭を下げる親友と無言のまま腕を組んで立っている兄との間に沈黙が流れていれば、それも当然の反応と言う奴だろうか。何にせよ、取り次いでくれた形兆のおかげで、仗助はようやく、別れたきりになっていた甥たちと再会を果たすことができた。腕を組んでこちらを見下ろしていた彼が無言で踵を返してどこかへと電話をかけたかと思えば、やはり無言のままに仗助へ受話器を差し出した――あの時のことは、きっと生涯忘れえない。
そうして、半ば殴り込みをかけるような形での行動は、ようやく仗助へあらゆる真実を知らせることになって。同時に仗助は己の無知を知った。あの時、仗助は無知を罪とさえ思った。緒都は己の血筋の危機を読み取るのだと知ったその時の衝撃と言ったら。二度にわたる姪の記憶喪失の一端に己の存在が関わっているかもしれない事実に、ただただ愕然するほかなかった。
「仗助みて!刑兆がくれた!」
思い返す様にいつの間にか目を伏せていた仗助は、又姪の声に顔をあげて振り返る。
たたたた、っと軽い足音を立てて駆けてきた徐倫は、両手に平たい皿を掲げながら仗助とテーブルの間に滑り込み、膝の上に堂々と腰を落ち着けた。へにゃりと黄色いパンに適度に焦げ目がついたそれはフレンチトーストで間違いないだろう。キッチンからバターのいい香りがするとは思っていたけれど、なるほど刑兆はこの間食を作っていたらしい。
「これも作れるようになるわ!あっ、康一、由花子は?今日は来ないの?今度はクッキーを作る約束なのよ」
「由花子さんは今日は都合があわなかったんだ。徐倫が残念がってたって伝えておくよ」
仗助は片腕を徐倫の腹に回し、もう片方の手でペンの挟まったままのノートを閉じて皿を置くだけのスペースを空ける。康一との会話に夢中になる徐倫がうっかり皿を傾げすぎてしまわぬよう、仗助は早々に皿を取り上げテーブルの上に落ち着けた。
徐倫は由花子がお気に入りだ。あのプッツンのどこがいいのか、と思う気持ちは心のうちに秘めるとして、意外だったのは、由花子もまた徐倫をなかなかに気に入っている点である。
何かと男所帯な徐倫の育成環境では由花子は貴重な同性である。徐倫は由花子から料理を中心に、いわく「花嫁修行」の最中なのだそうだ。どこに嫁入りするんだと聞いてみたところに「いつでもできるように立派なレディになるのよ」という答えが返ってきたときには、どうリアクションしていのかわからなかった。以前に由花子が「康一くんに似た伸びしろを感じる」と言っていたからこその育成計画なのだろうが、あのプッツンだけは受け継がないでほしいと少々ひやひやしているののもまた秘密の話である。これに関しては緒都という別種の女性の存在に期待するとして……とは徐倫がうっかり由花子の地雷を踏みぬかないかと言う危惧だけだが、恐らくは子守りもできる康一にふさわしい女、を意識している部分もありそうな由花子の様子を見るに、徐倫の身の安全に関してはさほど心配いらなさそうだ。
そんな仗助の心配事など知りもせず、呑気な徐倫がナイフとフォークを握ったときだ。テーブルを挟んだ正面にいた億泰がようやく再起動して、グンッと勢いよく起き上った。反射的にびくっとした徐倫がフォークを落としそうになったものの、咄嗟に仗助が上から握る形で徐倫の手を支え、フレンチトーストの落下を防ぐ。
億泰はクンクンと鼻を動かして徐倫の落としかけた一切れを捉えた後、目を輝かせて立ちあがった。駆ける先は形兆の部屋だ。
「兄貴ぃいいい!俺も!俺にもおおおお!」
あと数秒もしたら億泰はすごすご帰ってくることになるのだろうが、その際彼の身体に細かな穴が開いていないといい、と仗助は思う。膝の上の徐倫にスタンド能力に関する知識がないことも一つだが、そうなった場合に労力を払うのは自分であるというのも一つである。正直、仗助の存在があるが故に怪我だの器物破損だの、「ま、いっか」な思考を持っているやからがいるところが否めないのである。緊迫した状況下であるならともかく、治せるんだからいいや、は歓迎できる姿勢ではない。
ちなみに、こういった考え方はいつか大きな危険を招き寄せる気がする……と、悩んだ仗助が露伴に相談を持ちかけた時には、「君が何でも治してやるからだろ」と一蹴されてしまった苦い記憶がある。嫌なら直さず放っておけと助言をした露伴は原稿に向かい、仗助には始終背を向けたままであった。彼も相変わらずである。むしろ会話が成り立っているだけマシ、とどこかで思ってしまうあたり、仗助の方が露伴の性格に順応している感が否めない。考えて少し虚しくなった。
「仗助は今日もお医者さんのお勉強なの?」
「お医者さんのお勉強をするためのお勉強だけどな。徐倫、宿題は終わってんのか?」
「春休みの宿題ならすぐ終わらせたわ」
「……女の子ってなんでこうしっかりしてんのかね。俺なんかいっつも長休みの最終日にもがいてたけど」
「今とは全然違ったの?」
「違ったの。今はなんつーか、勉強癖ついたからなあ」
二年。空いた時間の多くを目を覚まさない姪の傍で過ごしてきた影響は大きい。話相手のいない時間を勉強で潰すのは効果的であったし、この時点で仗助は自分の進みたい道を定めていた。そのために必要なこととなれば……医師になりたい、その理由が常にそばにあれば、怠けるなんて選択肢があるはずもなかった。
「ねえ、仗助はどうしてお医者さんになるの?」
「んー。万が一に知らないことがあるのも、出来ないことがあるのも嫌だから」
「……?」
皿の上にフレンチトーストを半分残したままの徐倫は、不可解そうに首を傾げて仗助を見上げる。視線を返した仗助がもっと受け入れやすい答えを用意しようかと苦笑いをすると――ドンッ、と恐らくは形兆の部屋の前から大きな音。予想はできても視線はついついそちらへ向いてしまうわけだが、数秒後、その予想を一切裏切らずに腰をさすった億泰がすごすごと引き返してきたものだから、仗助は徐倫と顔を見合わせて、何とも言えない可笑しさに揃って笑い声をあげた。
にゃあ、と部屋の向こうからは気だるげな猫の声がする。

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