▼妹が瞬いた世界


あ、ありのままに今起こったことを話すぜ。ほんの一秒足らず、一秒にすら満たないほんの一瞬前まで緒都はパノラマに映る杜王の雲一つない青空を背景に承太郎を見ていたはずなのだが、瞬きをひとつして目を開けた瞬間、目に映る光景が薄い白のカーテンごしに映る幼女のびっくり顔に変化していた。あれ、天使かな。な、何を言っているかわからねーと思うが、緒都にもさっぱりわからん。承太郎がようやく娘の存在を明かしてくれた辺りでこちらも曖昧な一巡の概念を抱えたままでも腹をくくって第六部について開示しようと思った矢先にこれだ。
徐倫のことで話さなきゃならないことがあるの。徐倫がハイスクールを卒業するあたりで大変なことが起きてしまう。
言おうとしたのはだいたいこんなことだ。最初の一言は言い切った自覚がある。が、次の一言を続けようとした瞬間のコレであるので、かろうじて紡いだ「徐倫」以降に続けようとしていた言葉は頭の中からきれいさっぱり吹っ飛び、白いベールを纏ったかのような外の血混じりの愛らしい顔に一瞬にして心奪われた。天使かな。季節を僅かに逆行したかのような春を思わせる陽気の中、風にさらわれるようにして引いていく白い布地が視界を解放した瞬間、確信する。あ、天使だわ。
後で冷静に振り返ってようやく混乱を極めていた己の思考の難解さに気付くのだが、その瞬間はいたって真面目に、やべえ日本語通じるのかこれ、とかけるべき一言について本気で悩んでいた。穏やかな風だけが呑気にうららかアピールをしている一方で、両者間に漂う絶妙な緊張。緒都は腹をくくった。脳裏に、いつぞや自分に対して天使発言をかましてくれた仗助を思い浮かべ、似たような状況に立った今ではその気持ちもわからないでもないな、と逃避方向に思考を流しながら。
「……ハイ、アンジュ」
あっこれフランス語だっけ!?と前日に言葉を交わしていたフランス人の影響を自覚した次の瞬間には天使は声を上げて泣き出していた。盛大にびくついたのは言うまでもない。
あわあわとしながら何故かベッドに横になっていた体を起こし、どうにかあやさなければと小学校低学年ほどの天使の体を持ち上げて膝の上に乗せ、いやきっと天使にはどの言語でも通じるって、と間違った方向に言い訳を考えてる。なおも続く完全なるアホの子の思考は、壁の向こうから慌ただしい足音が近づき扉が激しく開かれるまで地味に継続されることになった。「徐倫!?どうした!?」と上がった声に我に返された、という表現が最も的確だろうか。しかし我に返ったら返ったで、駆けつけた彼との間にも何とも言えない空気が流れる。
「……緒都、さん?」
「……仗助くん、だよね?」
うええええええんと盛大になり続ける幼女の泣き声と言う背景音は、とんとん、と背中を叩いたことでガッツリしがみつかれて、くぐもるという形で多少ボリュームが下がる。一応、イヤイヤされていないということはこの対応で間違いなかったようだ。天使、もとい徐倫……えっ徐倫?と思わず腕の中の幼女を二度見するが、生憎その顔は胸元に埋められていて再確認は敵わない。
「……ほ、ほんとに、緒都さん……」
「は、はい……?あ、うん。……え?」
「緒都さん……よ、よかっ……あの、具合とか、大丈……あっ、じょ、承太郎さんに伝えねえと!」
……ううん、なんだか覚えがないこともない、この状況。緒都はあれもこれもと言いたいことを零しながらもどうにか最優先事項を決定できたらしい仗助の背を見送り、徐倫だという幼女の背をとんとんと叩き続けながら少しずつ冷静を取り戻していく。
これ、あれだ。病院で目が覚めたら花京院典明がいたあのパターンだ。緒都は頭を抱えたくなった。またしても、だろうか。第三次記憶障害とか洒落にならん。というかこの流れ的に、もしや今は第五部突入とかそういうお話なのだろうか。
開きっぱなしの扉の向こうでは、ハイテンションで声量が上がっているらしい仗助の声が漏れて聞こえてくる。
電話の相手は彼が言ったとおり承太郎であるらしい。これも、第二次記憶障害事件と同じ状況だ。となればそのうちここには承太郎がやって来て説明をくれるはず。いい加減に慣れてきたということで仗助相手にも解説を求めることは可能かもしれないし、ともかく何があったのかは追々明かされていくだろう。
ただ今この状況で一番に気になるのは。なるべく早急に回答がほしいのは、徐倫の存在についてである。
何ゆえこの姪っ子は泣いているのだろうか。というかそもそも、何故緒都のそばには仗助と徐倫という叔父姪セットがそろっているのか。承太郎早く、と思ってしまうのも仕方がないのではなかろうか。
そんな祈りが届いたのかは知らないが、報告が一段落ついたのであろう仗助が子機を持って小走りに部屋へ戻ってくる。「ああ、いや、徐倫が泣いてる声です。よくわかんねえっすけど、緒都さんにしがみ付いてて。あ、はい、抱っこしてくれてるんで」と会話は継続中の用だ。部屋に入って受話器の向こうに届いてしまった泣き声についての問いがあったのだろう。これでも少し前よりは勢いが落ちた方なのだ。泣いている理由もわからないので安易に泣かないでとも言えず、とりあえず泣きたいのなら泣かせておこうということで背中とんとんだけを黙って継続している。たぶんきっと、泣かせておけば疲れてそのうちダウンすると思うから。パパさんからの指示があればそれに従うつもりではいるけれども。
差し出された子機を受け取って、緒都の意識としてはほんの数秒前まで傍にあったはずの兄の声を、遠方からの電波に乗せて連れてきてもらう。「承太郎?」と名前を呼んだ緒都のそばで、手の空いた仗助は椅子に座る瞬間にくしゃりと徐倫の頭を撫でて苦笑いをしていた。あれ、思ったけどこれってものすごくレアな光景なのでは。完全に接点のなかった第四部と第六部の共演というやつである。幼女の面倒を見る高校生ってなんだか良いね。とまで考えて……高校生、だよね?と背の伸びた仗助にうっかり自信を無くした。これで仗助が大学生さえ通り越して社会人だなんて言われたらさすがにちょっと泣けてくる。
いやしかし、今はそんなことで泣いている場合ではない。緒都は子供の泣き声という大音量を腕の中に抱きとめながら、呟くような承太郎の声に必死に耳を傾けた。
『……緒都』
「うん」
『…………緒都』
「はい。空条緒都です」
『……一時間で戻る』
「うん、待ってる」
『徐倫を頼む』
「はい、任されました」
このギャン泣きを聞たうえで頼むというのなら心配ない。名を呼んだ兄の声音に心配をかけたことを自覚しながら、緒都は比較的冷静に穏やかな返答をすることができた。短いやり取りを終えて仗助に「ありがとう」と子機を返せば、「もういいんですか?」と少し意外そうに首を傾げられる。通話を切ってから徐倫に代わるかを問うべきだったかと後悔したが、どちらにしても今の状況では難しい話か、と思い直して仗助にもひとつ頷き返しておく。
仗助は受け取った子機を近くのサイドテーブルに伏せて、しばらくはその視線を徐倫にじっと注いでいた。しかしまもなく泣き声が勢いを失ってスンスンとした啜り泣きに変わっていくと、静かになってきた室内に気まずさを感じはじめたらしい。そわそわとする気配を視界の端に捉えて、緒都は助け舟……もとい、気になっていた疑問を投げかけてみた。
「仗助くん、今高校生?」
「あ、ハイ。え……っと……高三、っす」
「……ってことは、二年かあ……」
第四部と第五部の間ははたしてどれほどの期間があっただろうか。序盤に学生服の広瀬康一がイタリアへ行く描写があったことを考えると、彼の在学中……つまり今も、第五部の始まりの条件に当てはまっている可能性は高い。となると緒都が察した通り、この日常編スキップとも言える記憶障害の繰り返しは、やはりストーリーの時間軸を着地点としていると言っても差支えはないだろう。詳しくは承太郎がやってきてからの答え合わせになるが。
そういえば、先ほどの電話で承太郎は『帰る』と言っていた。ということは緒都には見慣れぬこの部屋は、今の承太郎が拠点としている場所ということだ。杜王グランドホテル、ではない。というかそもそもホテルの内装ではない。アパートやマンションのような、ごく普通の洋式住居だ。
「あー……っと……」
「?」
緒都が室内を見回しながら状況分析に努める最中、仗助から不意に歯切れの悪い声が零れた。何だろう、と緒都がそちらを見るのは当然で、そうなれば自然と両者の視線が交わる。仗助は再びそこで口ごもるものの、数秒を置いてようやく重い口を開いた。
「承太郎さんからは、特に何を言うなとかは言われてなくて」
「うん」
「なので、聞きたいことがあったらどうぞ……っつーか、お互い、何をどこまで理解してるのか確認したい、っていうか」
正直、その提案は有難い。緒都は仗助の好意に素直に甘えることにした。





なんということでしょう、パートツー。正直このパターン二回目だから慣れたもんだわ、とタカをくくっていました。認めます。しかし現実はそう単純ではなく、第四部開始時の時間がぶっ飛んだ感とはまったく状況が異なる事実に言葉を失った。
あの時は、周囲から見た緒都は言葉通りの記憶障害だった。緒都の記憶にはなくとも、そこに至るまでの時間を緒都は確かに生きていて、少なくとも周囲の人間にはその記憶がしっかり存在していた。
けれども今回は違う。話によれば、緒都は突然意識を失い――正しくは心臓も呼吸もあらゆる新陳代謝も全て停止して、この二年近くを立ち止まり続けてきたらしい。正直、どういうこと?と問いたい。自分自身の身に起きている出来事だというのに驚くほどに意味がわからない。
緒都自身でさえこうなのだ。承太郎はいったいどんな気持ちでこの二年間を過ごしてきたのか。逆の立場を想像して背筋が凍った。心拍も呼吸もないという時点でなかなかのアウトだ。目の前で倒れられた時点でトラウマを抱える自信がある。
なので、絞殺さんばかりのこの抱擁くらいしっかり受け止めて見せようと。
「……ダディ、じょりーんもつぶれるわ……」
そう思ったのだけれども、間に挟まれた徐倫が潰れた声で苦しさを訴えるので、ここは戦略的撤退とさせていただきたい。とんとん、とギブアップの意で軽く背中を叩いて、「承太郎、おかえり」とひとまず挨拶をしておく。
「……こっちの台詞だ」
「……うん」
「聞いたんだな」
「うん、聞いた。仗助くんが……それに、徐倫もたくさん教えてくれたから」
答え合わせによれば、あれから二年。案外短かったな、なんて思うのは前回の記憶スキップが十年だったせいだろう。嫌な耐性である。
しかし緒都がいかにそう感じたにせよ、二年という月日は実際的には長い年月だ。とはいえ、そもそもがもっと先の時間とも言える文明社会に生きていた自覚のある緒都にとって、文明的な置いて行かれ感はない。これに関しては幸福だと思う。パソコンやべー携帯やべー!とショックの連続はない。むしろ未だにようやくここまで来たか、だ。これに関しては平和なものである。
一方で平和でない方は、やはり人間関係的な認識の遅れだろう。代表例が徐倫の存在だ。顔を合わせるのもはじめて……少なくとも緒都にとってははじめてのこの子がなぜここにいるのか。それについては徐倫や仗助の話の内容からある程度は察した。緒都の勘違いがなければ、徐倫は両親の離婚後に承太郎の方に引き取られている、ということだろう。緒都が目覚めたこの部屋は杜王町に承太郎が新しく構えた住居らしく、仗助がここに居るのは何時ぞやのホテルでの花京院や露伴のような役割にプラスして、幼い徐倫の面倒を見ていたというのもあるらしい。あれから二年となればもう受験生だろうに。えらいなあ、と思う反面、勉強面でしっかり追い抜かれている事実に心の中でそっと打ちひしがれた。
「……あー……うっし、徐倫、俺とお遣い行こうぜ。緒都さんにこの二年で磨いた徐倫の手料理を振る舞わねえとな!」
「!うん、いく!」
「つーわけで承太郎さん、ちょっとお姫様を借りますね」
これは間違いなく気を遣われた。兄妹水入らずの時間、もしくは何か真面目な話のための、とにかく二人きりの時間を提供してくれている。
仗助は先ほどまで緒都と承太郎の間につぶされていた徐倫の両脇に手を差し込んで軽々抱き上げると、そのままぺこりと一礼して早々に部屋を出て行った。承太郎も叔父の気遣いは理解したようで、帽子のつばを軽く下げつつ「ああ」と返事をする。ぴたりと閉じられた扉の向こうからはまだ「さて、何作るかなぁ」「ホットケーキ!蜂蜜を忘れちゃだめよ!」とまるで兄妹のような仲のいい会話が聞こえている。しかしさほど時間をおかず、遠ざかった声は玄関扉の重い音を境に完全に遮られて、同時に完全に静かになった室内で緒都と承太郎の間には二、三秒の沈黙があった。
「……承太郎。心配ばっかりかけてごめん」
先に口を開いた緒都の一言目。それは電話越しの承太郎の声を聞いた直後から特に強く実感し、伝えなければと感じた素直な気持ちだった。承太郎はそんな緒都を帽子の影ごしにしばし無言で見つめ返してから、浅く息を吐いて帽子を脱ぐ。
「……仗助からはどこまで聞いた」
「二年間眠っ……止まったままだったことと……ここが杜王町だってことと……」
「止まっていた原因については」
「……わかるの?」
「確定とまでは言えねえが、規則性だけはな。自覚はあるだろう」
「じゃあ、えっと……今頃はイタリアで」
「二年かけて準備は進めていたが……規則性、としては今日がスタートだったんだろう」
ある程度冷静を取り戻したのか、承太郎の口調は淡々として冷静だ。二年もあればあれこれ考える時間は嫌というほどにあっただろう。結果的に承太郎が辿り着いた答えは、緒都の推測に概ね合致しているらしい。
すなわち、緒都の意識はいわゆる第何部の起こっている時間に目覚める、という規則性だ。そこに身体と精神のあれこれが合致しているかどうかは別として。
となると、だ。問題は、その規則性から推測するに緒都には『次』があるということ。第五部については第四部の最中に伝え終えていたから間に会ったわけだが、第六部に関してはうだうだとしていた伝え損ねているのが現状だ。
第六部こそ緒都が何より伝えておかねばと思う地点だと言うのに。それは世界的な危機も含めるが、一番は何よりも、承太郎の。
それにしても。推測したルールに則るならば、今回の持ち時間はおおよそ一週間しかない。
笑い事じゃないとは分かっているのだけれども。疾走感に満ちた第五部の、怒涛のタイムリミットを思うと……いまいち現実感のつかめない気持ちのまま、緒都は力なく苦笑するしかなかった。

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