▼姪にはわからない


徐倫はその人にはじめて会った時のことをほとんど覚えていない。空条緒都という名前さえ記憶に薄かったのは、母が彼女の存在を口にする時はいつも怒った声で「妹」と表現するばかりだったからだ。
離婚調停が荒れに荒れたという話については、当時は困惑ばかりで理解が追いついていなかった。あれから二年が経った今は多少なりとも客観的に記憶を掘り起こすことができていると思うのだけれども、そうであってもやはり全てを理解するというのは難しい。幼い徐倫にもなんとなしに理解できるのは、父の突然の変わり身に、恐らくこの空条緒都が関係しているということだけ。
己の叔母にあたるこの人を徐倫は愛しく思うべきか、恨めしく思うべきか、二年をかけても未だにわからない。だからだろうか。今日も飽くことなく、眠り続けるこの人を眺めている。
思い返すのは、父である空条承太郎が今更というタイミングで帰ってきたあの日のことだ。四十二度の高熱だなんて今考えてもゾッとするような死線を彷徨っていた当時のことは、ぼんやりとした意識の向こう、母の金切り声と共に記憶している。苦しくて仕方がなかったあの時。傍にあってほしかった大きく硬い父の手は、汗ばんだ徐倫の額を撫でるのではなく、無機質な受話器を握って、荒らぐ母の声を受け取っていた。どうして帰って来ないの、徐倫が死んでしまうかもしれないのよ、と扉の向こうから聞こえていた母のくぐもった泣き声。頭が痛くなるほどの甲高い声には怒りと悲しみが色濃く滲んでいて、ただでさえ心細かった徐倫に追い打ちをかけるように、胸を絞るような孤独感が押し寄せたことをよく覚えている。
あの時父が何をしていたのか、その詳しくを徐倫は知らないままだ。けれども日本の片隅にあるこの町に居たのであろうということだけは察していて、その事実にぶつけるべき感情が怒りであるのかも寂しさであるのかも、未だに処理が追いついていない。
二年が経ってもそうなのだ。あの高熱の日々をどうにか乗り越えた徐倫の前にやってきた父へ、母が手当たり次第に物を投げつけて怒りをあらわにした時も。どうしていいのかわからなかった。誰かが取り乱すと自分は冷静になれるなんて言うけれど、あの時のあれはその類のものではない。泣き喚く母とそれを黙って受け止める父と、両極端な反応を二階の手すりから息を殺して覗きこんで、どちらに同調すべきかもわからずに心が右往左往していただけ。
離婚話は母から切り出したらしい。父は一切の抵抗をしなかった。ただ、ここまで散々放っておいた娘の親権を主張し、事態を泥沼へと引きずり込みはしたらしいけれど。
疲弊する母を見て徐倫の混乱は加速するばかりだった。口を開けば徐倫が、徐倫は、徐倫のためを考えて。
母に名前を呼ばれることは好きだった。ジョジョ、と愛おしげに、時に困ったように、時に咎めるように呼ぶその声が。対して徐倫は時にはにかみ、時に腹を立てながらも、それでもいつでも心の底で愛おしく思っていたのだ。
大切に、思っていた。
その声が今は悲しみに満ちている。あの時の徐倫が感じたのはその事実だ。母が徐倫の名を口にする時、そこにあるのは苦悶の表情。眉が寄り、瞳が潤み、痛みに満ち満ちた声でその名を紡ぐ。
母を苦しめている。幼いながらに、きっとぼんやりとそう思っていた。
どうしてだろうか。その時徐倫が行き場のない罪悪感をぶつけたのは父だった。ごめんなさい、と零した謝罪については、徐倫自身にもその理由など説明できやしない。謝る時は何が悪かったのかもしっかり理解してからにしなさいと叱ったのは父だっただろうか。自分の何が悪かったのかもわからないままの謝罪には意味が無い。わかっていたのに、あの時はそれでもごめんなさいを繰り返すことしかできなかった。
震える徐倫を抱きしめたのは、ずっと恋しく思っていた大きくあたたかな父の腕だ。すまない、と耳元に零される父からの謝罪にもその理由は添えられてはいなくって、大人なのにずるいんだと思った記憶が、父の香りの記憶と共に頭の中に残っている。
結局、最後まで徐倫には何を選べばいいのかの判断もつかないまま。
幼い頭では理解の及ばないところで、話し合いは着々と進んでいく。やがて空へ伸ばした伸ばした小さな手は、あの日々に焦がれていた、大きな硬い手に握り返された。
父方に引き取られることになって知らされた行き先が、文化的にも言語的にも慣れない日本であると知った時には大きな不安があった。別に、言葉を一つとして知らなったわけではない。父に日本の血が流れていたことも、その血を受け継ぐ徐倫にも同じく日本の血が流れていたことも知ってはいた。けれども六年の人生のうち、少なくとも記憶にある時間の全てを、アメリカで過ごしてきたわけである。今は握り返してくれるこの手が再び徐倫の手を離してしまったらどうしよう。繰り返し頭をよぎったのはそんな恐怖ばかりだ。言葉も通じない血の故郷など、結局は右も左もわからない異国の地であることに変わりはなかった。
けれども予想に反していたのは、向かった先には徐倫を受け入れようとする温かな目が並んでいたこと。何より、父がこの手を離さなかったことだ。
力強い腕に抱きかかえられながら、最初に会ったのは明るくふわふわとした髪の男の人だった。次に会ったのは写真では記憶にある優しそうなおばあちゃんで、その次に会ったのが、徐倫にはにわかには信じられなかったのだが、そのおばあちゃんの弟だと言うお兄さん。前者二人に関しては英語も流暢で、コミュニケーションに関して抱く不安はほとんど解消された。後者一人については円滑なコミュニケーションは難しくても、彼が徐倫にとって一番の日本語のお手本になったし、彼の方も『ジュケン』とやらのために英語の理解には積極的であったから、いい勉強になると懸命に徐倫の言葉を聞こうとしてくれた。
ノリアキ、ホリィ、ジョースケ。口の中で小さく繰り返した名前が胸の内に染みわたる感覚は、初めてホットケーキを口にした時のそれに似ていると思う。良くも悪くもかつての徐倫の世界は自分と母親で完結していた。母親に対する絶対的な信頼と安心はあっても、安心して心を預けられる相手が唯一となっては、理由のハッキリとしない謝罪が溢れ出たあの時のように、その『唯一』に激しく揺さぶられた瞬間、不安定な足場に放り出されてしまう。
徐倫の世界は少しずつ、少しずつ広がっていった。徐倫の心は少しずつ、少しずつ安定していった。
ただ一人、もの言わぬ叔母との関係性を除いては。
寝ているの?と最初に父に問いかけた。父は目を細めて、そうかもしれないなと答えた。
病気なの?と父に問いかけた。父は目を閉じて、きっと違うんだろうと答えた。
彼女が息をしていないことに気付いたとき、徐倫の足はすくんで動かなくなってしまった。息をしていない、心臓が動いてもいない、なのに、恐る恐る触れた手には体温がある。
どうしたらいいかわからなかった。ひどく不気味で恐ろしいと思った。
だというのに父は戸惑いもなくその手を握る。父だけじゃない。ノリアキも、ホリィも、ジョースケも、戸惑いもなく彼女に声をかけては、返らない声に時折寂しそうに目を伏せる。
眠り姫の本を抱えて父の元に走ったときの気持ちと言うのは、悲しみばかりを浮かべていたあの日々の母に笑顔を取り戻したかったのと、どこか似た気持ちであったようにも思う。緒都、緒都ちゃん、緒都さん、と名前を呼ぶ彼らにつられて「妹」を「緒都ちゃん」と認識し直した徐倫は、「緒都ちゃんは悪い魔女にいじめられたのかもしれない!」と自分が見つけた成果を彼らの心を安らげる助けにしたい思ったのだ。眠り続ける叔母を助けたいだとか、もの言わぬ叔母と言葉を交わしてみたいだとか、そう言った気持ちは恐らく存在していなかった。徐倫の中の空条緒都という存在は、愛しく思うべきか、恨めしく思うべきか、やはりわからないままであったから。むしろ心は僅かにでも後者に傾いていたのかもしれない。母の顔を曇らせた、父や徐倫を囲むあたたかな人たちの顔を曇らせた、悪い人とさえ感じていたのかもしれない。
息を切らせた徐倫を見下ろして、父は「そうかもしれないな」とやはり静かに答えるだけだった。
徐倫にはわからない。叔母はなぜ眠り続けるのか。父は、その周囲の人々はどうしてあんなに切ない顔で叔母を見つめているのか。
息もしない、髪も爪も伸びない。まるで眠り姫にある百年の孤独そのものだというのに、どうして誰も何もできないまま、ただ彼女のそばで悲しみに暮れているのか。
徐倫にはわからない。二年が経っても目覚めない彼女が良いお姫様なのか、悪いお姫様なのか。
考える度に思い出してしまう。母が徐倫には聞こえないと思って零し続けた彼女への呪詛の数々を。その大抵はいつだって受話器に向かって、遠い地にいる父へと向けて零す不満だった。
どうしていつも妹なの。あなたは昔からそう。妹と言ったって立派に成人しているじゃない。なぜ家庭を顧みないの、なぜ帰ってきてくれないの。なぜ徐倫よりも妹が大切なの。あなたが誰より守るべきなのは自分の娘ではないの。
子供部屋の扉に背を預けて、三角座りをした膝に額を押し付けて、聞こえてしまう母の声にどう反応していいのかわからなかった。
ママが悪い人というのだから悪い人。そう簡単に位置づけられなかったのは、母が彼女を呪う一方で父が彼女を大切にする一面があったからだろうか。それとも、父の部屋の重たい椅子を本棚に寄せてよじ登った先で……こっそりと引き出した古びたアルバムに、彼女の優しい笑顔を見つけてしまったからだろうか。赤子の徐倫を抱いて、幸せそうに笑う姿を。大事そうに徐倫を見下ろす、今は閉ざされてしまった穏やかな眼差しを。
どうして。幾重にも重なる思いが纏まらないままに二年間を過ごしてきた。徐倫はいつものようにベッドを覗きこんで、恐る恐る温かな頬に手を伸ばしてみる。
居間の方からは仗助が飲み物を用意する音がカチャカチャと響いてくる。徐倫のお気に入りは温めたミルクに溶かした甘いココアだ。仗助は徐倫のココアを作るのが一番上手、とこの二年ですっかり上達した日本語で伝えれば、光栄です、と逆に未たどたどしくも多少馴染んだ英語でからかい交じりに返される。それが数分前。
いつものように、何かと人の集まるこの部屋に入り浸っては、今日も叔母が目覚めない事実を受け止めて何気ない日常を過ごして行く。
徐倫は叔母の頬に触れていた手をそっと引いて、静かな瞬きを数度繰り返した。開いた窓から入り込む、四月をあと数日に控えた春の穏やかな風。今年から本格的に受験生だと言う仗助は、あと数日もすれば高校生最後の春を迎えて、徐倫は柔らかく馴染んできた赤いランドセルを背にまた一つ上の学年に上がる。
叔母はひとり立ち止まったまま。
ふわりと舞ったカーテンと共に黒い前髪を風に揺らすのに、彼女自身だけ時間が止まってしまったままで。
目覚めたらまず何を言おうかと考えていたあれこれも、未だ日の目を見ることはない。徐倫は、また一つ瞬きをして。
「――徐倫」
大きく舞った白い布地に一瞬遮られた視界の向こうから。はじめて聞くか細い声に呼ばれて目を見開く。
ふわり。広がったままのカーテンが揺れる中、徐倫は激しくなりだした鼓動に息を詰めた。ふわ、ふわ、白い色が揺らいで広がって、やがて収まった風と共に緩やかにその身を窓辺へ引いていく。
――黒い瞳と、目があった。
何の前触れもなく動き出した彼女の時間と入れ替わる様に、まるで徐倫の時間が静止してしまったようだ。彼女が目覚めたら、と考えていたはずの最初の言葉は吹き飛んで、言葉どころか声が一つとさえ出てこない。
それはきょとんとする叔母もきっと同じで。だけど戸惑いを深めるばかりの徐倫をぱちぱちと瞬いて見上げた後、その存在を確かめるように伸ばされた彼女の手が徐倫の頬にそっと触れる。それから戸惑ったような、それでいて……それでいて、あのアルバムをめくっては想像を巡らせていた通りの穏やかな声音が、徐倫よりも先に挨拶を紡いで。
「……ハイ、アンジュ」
呆然と、徐倫を呼んだその声に爆発した感情を何と呼んだらいいのだろう。
喉の奥が震えた。吐き出す息が震えた。
母が呪ったその人は、息をするように徐倫を祝福の名で呼ぶ。
声をあげて泣いたことなんて、思い描いた幸福な家庭の終わりにさえなかったのに。

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