▼妹はパラノマの青を焼きつけて


何かが始まったと思ったら、時に、そこから終わりに向けて流れる時間というものは恐ろしくあっという間である。
その日が最後になるということについては……第四部に一足早い『完』の文字を叩きつける決戦が行われるということについては、朝の段階では緒都には何も知らされてはいなかった。とはいえただ伝達がなかっただけで隠されていたと言うわけでもなく、あくまで緒都が気付いていなかっただけなのかもしれないが。
この所は何かと忙しない日々だったから、物語の進捗情報について目が行っていなかったというのもある。相変わらずいわゆる原作から一歩軸の外れた場所に立つ緒都の日常には、遅れた母の日と父の日をまとめたカードが届いたという両親からの手紙だとか、第三部御一行との対面だとか、こまごまとしたイベントごとが詰まっていたもので。
後者については衝撃が大きかった。その詳細についてを大まかに分けると、カタコトを交えつつもしっかりと日本語を話してくれる彼らへの驚きが半分と、予想に反して彼らと……特にポルナレフと交流があったらしい過去の自分への驚きが半分といったところだ。
ポルナレフさん、と呼んだ瞬間の、あの時間が止まったかのような錯覚。えっスタプラ?と思ったのも仕方がない。どうせ見えるはずもないスタンドの姿を探すようにして承太郎の方を向いてしまったのも当然と言えてしまいそうなあの空気。どうにかセルフ時止めから復活したらしいポルナレフが、英語混じりなのかフランス語混じりなのかいまいちわからない言葉で訴えた内容から察するに、どうやら彼の中の緒都は「ジャンくん」と彼を二人目の兄のように慕っていたらしい。本物の兄を前にそんなことを言われては妙な気まずさも生じかねない状況だったが、ポルナレフの必死さのおかげで意外にもそういった心配を抱く余裕はなかった。
……改めて思うに、あの時の彼の二言語混じりは多分英語だった。こう、フランス語特有の鼻の奥に引っ掛かるような発音は特になかったような気がする。いや、だから何って話ですけどね。相変わらずジョースターの血を引きつつも英語力が低いままの身なわけで、英語だろうとなんだろうと理解が及ばないことに変わりはないんですけどね。
とまあやっぱり気まずいような再会と言う名の顔合わせも、緒都がポルナレフを「ジャンくん」と呼ぶことによって、ひとまずは丸く収まった。緒都としてもすでに「典明くん」を乗り越えた後であったので、いきなりよりは心労が少なく済んでいる。
それにしても生のポルナレフ、確かにあれは兄属性であった。承太郎とはまた違ったタイプかと思いきや、何と言うか、緒都に接する彼らには根本的な部分で同じ雰囲気を感じるのだ。そしてポルナレフのあの兄貴力は花京院に対しても発揮されている気がしてならない。緒都が一対一で向き合う花京院にはこう、うっかり「花京院さん」と呼び方を戻してしまいそうな年上感があるのだが、ポルナレフと話す花京院を一歩引いたところで見てみると、「典明くん」と迷いなく呼びたくなるような弟感を覚えるのである。お話として見ていても思ったことだけれど、彼らの喧嘩、というか花京院のあの不遜な態度というのはつまるところは甘えと言うヤツで。この人になら許されるという確信が心の底にあるからこその……いやはや、なんというか、やっぱりちょっと羨ましい。
自分の承太郎への態度はどうだろう、とつい考えてしまう。いや、正しくは承太郎にとっての緒都の態度、というべきか。第三部の時間軸でも、第四部の時間軸でも、緒都にとっては地続きの時間を生きた自分という感覚であるけれど、承太郎にしてみたらもっと妹らしい緒都という存在があったのかもしれないなあ、と。そうは言っても不思議と気持ちの方はネガティブにはならないのだが。
まあ妹うんぬんはひとまずおいておくとして、そんなポルナレフも花京院も、思い返せば今朝は忙しなく動いていた。遠方からこんにちは組は総じてこの杜王グランドホテルに宿泊するようで、ポルナレフとアヴドゥルとイギーも例に漏れない。だからというか、朝食を終えた後に承太郎にとっての保護対象を一か所にまとめておくのはごく自然な流れであって、その日も緒都は同じ室内にジョセフが来たことも、すっかり年老いたイギーが預けられたことにも何の疑問も抱かなかった。今になって思い返すと、前線組と思われる人たちの顔が今朝は強張っていたかなあ、とは思わないでもないのだが。
ともかく違和感と言ってもその程度しか抱かなかった緒都がその日にしたことといえば、日課とも言える透明な赤ん坊とのお遊びと、ジョセフとの世間話と、気性が荒いことを知っているボストンテリアへ、緊張しながらも丁寧なブラッシングを施すことであった。
ジョセフのボケ具合に関しては、もうすっかり解消されつつある。現役かな?と思うほどには発言も行動もハッキリしているし、目つきも随分変わったように思う。とはいえ前線からはやはり退いて、年配同士イギーとのんびりしている場面の方が多いようだが。ちなみにジョセフと言えば、仗助との仲は意外に良好で、例の赤ん坊との養子縁組の準備も滞りなく進んでいるようで何よりである。
とまあ、このところの近況は置いておいて、そろそろ今現在に意識を戻したい。いつものホテルの一室、本日ここで過ごしたのは緒都とジョセフと赤ん坊とイギーとアヴドゥルだ。圧倒的日本人率の低さ。おかげで午後のほとんどに読書という鉄壁の壁を築いてみたわけだが、それも今しがたの承太郎の帰還によってお役御免である。
「吉良吉影を確保した」
そして文庫本を閉じた緒都への、承太郎の第一声がそれだ。
「大事なかったか、承太郎」
わけ知り顔で、戸惑いもなく頷いたアヴドゥルがそう言えば、
「仗助は無事かのぉ」
「ワフ」
次いで、赤ん坊をあやしながらのジョセフ、興味なさげなイギーという年配コンビがやはり当然のように反応を返した。
第四部、完。その事実をようやく脳内で処理して、緒都はひたすらに呆然とする。まじか。心の内でもそれしか言いようがなかった。
承太郎はぽかん顔の緒都の頭をぽん、と軽く叩いた後、コートを脱いで緒都と向かい合う位置のテーブル席に座り、ソファにいるジョセフたちへと向き直る。
「一切の無傷というわけにはいかなかったが、仗助の待機があったからな。結果的には全員無事だ」
「そうか、何よりだ。……ということは、花京院とポルナレフは例の岸辺露伴とかいう男のところへ向かっている最中、というわけか」
「ああ、仗助も一緒にな。そっちの処理が完全に終わったら、今度は遺産問題の方の処理に戻らなきゃならんが……おいジジイ、そろそろ頭もハッキリしてきただろう。てめえ自身で片づけたらどうだ。俺は論文に集中したい」
じとりとした目を向ける承太郎の視線の先で、ジョセフは「なんのことかのおー、じいじにはよくわからんのー」と赤ん坊に話しかける様にしてすっとぼけ、アヴドゥルに至っては「あの承太郎が論文とは……時の流れは偉大だな……」と感慨深げに胸を押さえている。
そんな平和的光景を眺めて緒都が思ったのは、論文なんてついぞ書く機会がなかったな、だ。記憶上、大学生をスキップした社会人である。損をしているような得をしているような。いや、やっぱり損だ。圧倒的に足りない経験と丸々失ったキャンパスライフは損以外の何ものでもない。だいたい、今をこうも呑気に過ごせているのは、あくまで承太郎の保護があるがゆえであって。
……第四部が終わったとされる今、緒都はどうなるのか。どうすべきなのか。
記憶障害がどうのこうのと言って、一生何もしないままではいられない。立場的には立派な社会人であり、もう扶養される身ではないのだ。
それに両親の問題もあるわけで。これまでは『杜王町という危険地帯に両親を呼び寄せられない』という正当な理由を盾に現状を伏せてきたわけだが、それも片付いた今では事実をひた隠しにする理由がない。元気なホリィには会いたい。けれども悲しむ彼女は見たくない。
憂鬱だ。真面目なシリアスさに加えて就活生的な漠然とした不安が湧き起こっている。憂鬱だ。
そしてどうやら、その陰鬱とした気持ちは表情にも表れてしまっていたらしい。アヴドゥルが気を利かせたように「それじゃあジョースターさん、承太郎も戻ったことですし、私どもは一旦部屋へ戻りましょうか」とジョセフの手を取り早々に部屋を出ていった。
悪いことをしたな、と気付いたときには、緒都は承太郎と一対一だ。
パラノマのガラス窓のそばで、小さなテーブルを挟んでお互い数秒黙りこむ。
「……これからのことだが」
先に口を開いたのは承太郎だ。切り出された話題はまさに緒都がじめじめと考え込んでいた内容のど真ん中で、どっと緊張が増してしまったのも仕方がない。とはいえ、こちらからはどう切り出していいのかわからない内容であったから、こうして向こうから話を振ってくれるのはありがたくもある。緒都は「うん」と短く相槌を返して、テーブルの下でそっと両手を組んだ。
「まず、両親に事情を話す必要がある。そうなったら今度こそ直接会うことになるだろうが……」
「ママの元気な顔が見られるのなら、私も嬉しいから」
「そうか」
相変わらず、なんというか。承太郎は緒都にとってどうやっても良い兄だ。お前のしたいように、と甘やかしすぎることもなく、すべきことはすべきとして、それでも緒都の気持ちの方を常に気にかけている。憎まれ役を買うこともあるのではないだろうか、と思うと少し心配にもなるが、彼の本質を理解してくれる人間がしっかり存在していることを思えばさほど心配することもないのかもしれない。
思えば、物語通りに進む第四部では、承太郎の周囲には心から気を許せる対等な人間というものが居ないに等しかった。辛うじてそれはジョセフであったのだろうけれども、彼は尊敬すべき人間であると共に、承太郎の中では守る対象でもあるのだ。やはり、エジプトへの旅路を共にした仲間の喪失というものは、承太郎が肩の力を抜いて寄りかかれる存在の喪失に等しかったのだろう。
そうならなくてよかった。ジョセフと、花京院と、アヴドゥルと、ポルナレフと、イギーと。紙面ではすっかりなりをひそめていた承太郎の笑顔を見る機会は、穏やかな日々から変わらずにある。
「今後のお前の生活については、俺の目の届く範囲に限定したい」
「……つまり、承太郎と一緒にいるってこと?」
「ああ」
「承太郎はいつもどこで何をしてるの?」
「一所に留まると断言はできない。泊りがけで海に出ることも多い。だがどこに行くにしても、今後はお前を連れていきたいと思っている。ここ一ヶ月の生活ほどとは言わないが、どうしても連れていけない状況では、傍に誰かを付けることにもなるだろう」
うわあ、まだまだ続く人生イージーモードだあ。頭の中でふわりと零した感想に、ある程度の皮肉が混じっていることは否めない。
これでいいのか空条緒都。自分に突っ込みを入れて一秒足らず、いやいや他にどうすんのよ、と冷静かつ虚しい回答を生みだして議論は終了。
「わかった」
いつものパターンである。安定の承太郎の庇護。ありがとうございます、今後とも人生の指揮をどうぞよろしくお願いします、だ。
「このホテルを出るのはいつになるかな」
「まだ数日は。一週間とはかからんはずだが」
「わかった。じゃあ荷物もまとめておく。あんまりないけど。……そうだ、私一人暮らしの部屋があるって」
「ああ。そこの片づけもしなきゃならん」
……変なものが出てきたらどうしよう。十年、とまでは言わないけれども、数年間住んでいた部屋だ。うっかり兄や他人に見られたくないものが出てくる可能性もなきにしもあらず、というやつである。一番想像できる恥ずかしいブツは日記の類だが……この可能性が結構高い。一応記憶喪失を経験した身であるわけで、万一二回目があった時のために書きましょうねというのはあるあるなパターンである。いや、しかし今日という日まで、これがここ何年間かの日記だよ、と差し出されるものがなかったあたり、少なくとも兄や周囲の人間はその存在を知らないということだろうか。いずれにせよ、日記の有無は、どちらにしてもメリットデメリットがあって困る。
……考えたら途端にフライング不安が湧き起こって来た。部屋の片づけは一人でやるね、なんて言える雰囲気ではないんだろう。知ってる。
緒都は気を紛らわせるべく立ち上がり、「お茶入れるね」と断わって一歩窓際から遠ざかった。
「緒都」
しかしそれを引きとめる承太郎の声にもう一歩踏み出そうとした足を止め、振り返る。網膜を焼いたのは、まず眩い青だ。ついで兄の強い眼光。快晴の空を背景に、承太郎は先ほどよりも真剣な目でこちらを見ている。
そのまましばし流れる沈黙に焦れて、承太郎?と声をかけようとした直後のこと。
「娘がいる」
直球を投げてきた兄の告白に緒都は言葉を失った。言われたこと自体への驚きではない。そんなことはとっくに知っていたことだ。ただ、これを承太郎はまだ口にしたくないのだと考えて思考の隅に覆っていた事柄であったから……不意をつかれた驚き、というやつである。それから、ここから続くであろう言葉への漠然とした不安。
「徐倫、という。今は六歳だ。アメリカ人の妻がいて、妻子は向こうに住んでいる」
こう改めて言われると。本来承太郎が守るべき家庭はここではないのだと突きつけられた気分だ。人生イージーモード、なんて緒都が思えば思うほど、その裏側では姪にあたる幼子が人生ハードモードを着々と歩み進めることになるのだ。
緒都は唇を引き結んだ。一人であれこれ落ち込むよりも先に、兄が打ち明けてくれた以上は、こちらもまた開示しなければならない情報がある。
そっと一呼吸おいて、一つ瞬きをして。緒都は体ごと承太郎に向き直り、ハッキリと言葉を紡いだ。
「徐倫のことで、伝えなきゃいけないことがあるの」
こちらを射抜く緑の光の向こう側には、どこまでも青い杜王の空が広がって、

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