▼そして兄の背を見送りました


花京院だ!花京院だ!ニクノメインってやつだ!心の中でそんな激しい叫びをあげたのは、ジョセフ来日の翌日のこと。
家の中に慣れた二人以外の誰かがいるという状況に着々とストレスを重ねながら部屋に引きこもった昨日だったけれども、それでも夕飯の時間には全員で顔を突き合わせてひたすらに緊張状態だった。一言も発しない食卓では主にジョセフとホリィが場を盛り上げていたのだが、恐らく日本語は話せないのであろうアヴドゥルに合わせる様にほとんどが英語であったので、早口の会話はその一部しか理解できていない。
きっとあの遠慮のない英語の使用頻度からするに、空条緒都は英語は大丈夫という認識なんだろう、と少しばかり気が遠くなったのは秘密だ。承太郎も承太郎で始終無言であったために、居心地の悪さがいくらか軽減されたことは救いだった。それにしてもこの居づらさ、年末年始の親戚宅を思わせる……。美味しいはずの食事が噛んで飲み込むという作業感覚に傾いて、食事を楽しむには健康な精神も大事なんだとひとつ大切なことを学ぶことができた。あんまり嬉しくはない。
とまあ昨日のことはここまでにして、重要なのは今、直面している状況である。ほんの数秒前に目の前で起こったとにかく不可解な現象。通学路にある石段を下る際中、突然目の前で承太郎が足を切って階段を踏み外したのだ。カマイタチ!リアルカマイタチ!なんて思いながら、相当な高さを落ちていった兄の姿にサッと青ざめる。思わず立ちすくんでしまった緒都の手を引いてくれたジョジョガールズのお姉さんには心から感謝するほかない。「ジョジョ!大丈夫!?」「ジョジョ!」「ジョジョ!」とどうやら無事らしい承太郎を心配する傍ら、「緒都ちゃん、ジョジョは大丈夫よ、大丈夫!」と背中を撫でてこちらまで気遣ってくれる精神力には脱帽だ。おかげでようやく自分の意志で体を動かせるようになったので、承太郎のそばに膝を付き怪我を覗き込む。いや、足、足めっちゃ切れてる。何が大丈夫なのかさっぱりわからないので、緒都はやはりオロオロするばかりで何もできなかった。
……と、ここまでなら不可解なカマイタチ現象による事故、と緒都の中に片づけられる可能性のあった出来事なのだが、直後に石段をゆっくりと下りてきた人影にその考えはあっさり打ち消された。そして冒頭の心の叫びである。何あれニクノメイン怖い。同じ人でもこんなに違う表情をできるものなのか。花京院登場シーンは完全に夢の中だった緒都にとってこの場面は初見同然で、ただ登場時にはDIOに操られていたらしいという事前情報からついつい身構え承太郎の腕をつかむ。
倒れている承太郎を盾にすべきか、いやむしろここは緒都の方が盾となるべきか。チキンハートながらに必死に考えるけれど、結局は答えが出ずに身を寄せるだけにとどまる。まさかこんな一般人だらけの場所で急にバトル開始なんてことにはならない、と思いたいのだけれども。
「君、足を怪我しているようだが……これを使うといい」
あれ、これってもしかしてこの足の怪我自体がもう彼の仕業なのだろうか。カマイタチというよりはスタンド攻撃か。見えない緒都には判断がつかないけれど、その可能性は大いにある。となるとやはり警戒するに越したことはないのだけれど、承太郎は第三者の登場に警戒心マックスな緒都を一度見下ろしたものの、結局は花京院に差し出されたハンカチを大人しく受け取った。バトル勃発にはならなかっただけでも良しとすべきだろうか。
結局その場では「見ねえ顔だが、名前は?」「花京院典明です。昨日転校していたばかりで」という短いやり取りがあっただけで、やはりスタンドバトル開始、とはならなかった。となると、彼との戦いはいったいどのタイミングなのだろう。転校、というワードに内心マジでかと突っ込みながら、すなわち今後学校内でのバトル展開もあり得ますよ宣言であることに気づいて緒都は思わず身震いする。学校は安全地帯ではないのか。一般人からしたら急に窓が割れたぜ、急に扉が吹っ飛んだぜ、急に人が壁を突き破ってきたぜ!なんてポルターガイストにしか見えないし、それを引き起こすモノが見えないとなるとどこへ逃げればいいのかもさっぱりだろう。いかん、登校が一気に憂鬱になってきた。
しかし怪我をした承太郎は保健室で手当てをしてもらうつもりらしく、程なくして一行は再び通学路を歩きはじめる。まったくもって足を引きずる動作もない承太郎はすごいが……すごいのだけれども、手負いで大丈夫だろうか。心配で自然と足取りが重くなりそうなところだったが、ここで学校への到着を遅らせることの方が傷に良くないだろ、と己を奮い立たせてどうにか学校へ辿り着いた。保健室へ直行する承太郎に付き従ったのは言うまでもない。
「あら、緒都ちゃんおはよ……まあ、ちょっとジョジョ?その怪我どうしたの!」
「転んだ」
「本当に?また喧嘩したんじゃないでしょうね!」
腰に手を当てて一瞬説教モードのおなじみ保険医の先生。承太郎はぷんぷん状態の先生を気にした様子もなく、どかっと椅子に座って足を組む。余談であるが、「こら、帽子くらいとりなさい」と伸ばされる先生の手をひょいとかわす承太郎はとても可愛らしかった。しかし心配なのは足の怪我。どう見たって病院で縫おうよレベルの切り傷なのだ。緒都は眉を下げたまま「先生」とそわそわと問いかける。
「足、病院行かなくても大丈夫ですか?あの、すごく切れてて」
「ああ、見たところ大丈夫よ。消毒してガーゼを当てておけば問題ないわ、安心して」
嘘やん。突っ込みがつい口からこぼれなかったことは不幸中の幸いだったが、恐らく信じられないという顔だけは表に出てしまっていただろう。保険医の先生が苦笑して「大丈夫よ」と改めて口にする。
「……さ、ホームルームが始まっちゃうから、緒都ちゃんは先に教室へ行ってきなさいな。お兄ちゃんのことは先生に任せてね」
この世界おかしい。やはり緒都は目の前の真実に愕然とした。よくよく考えたらそうだ、あの長いエジプトの旅の最中、承太郎含む旅のメンバーは何度も大怪我を負っている。だというのに次の話ではぴんぴんしているし、傷跡だって離脱が必要なほどの怪我以外は残りもしない。治癒能力が異常だ。緒都の常識からすれば、あの石段から落ちた時点で、いくら木の枝で威力を殺したからと言って、全身打撲であちこち痛めてるのがむしろ普通である。尾てい骨骨折といわれても驚かない。いやむしろやっぱりそちらが普通である。
な、納得いかねー!と食い下がりたいのは山々なのだが、郷に入れば郷に従え。むしろ騒ぎ立てるだけ心配性ねえと呆れられるだけだ。名残惜しい視線だけはどうやっても仕舞えはしなかったが、渋々緒都は引き下がり、保健室を後にする。やれやれ心配性だぜ、と肩をすくめる兄におかしいのはそっちだとやはり食って掛かりたいところだが、ここは我慢の一手である。
ぶつくさと呟きたい文句は教室までの道のりで心の中に投下しておいた。おかげで教室に入った時点でも眉間に皺を拵えたままで、最近やっと顔と名前が一致したクラスメイトに「どうしたの?」と突っ込まれることになった。まあ在学生なら全員名前は知っているであろう承太郎の影響力であるから、怪我をしたという噂もすぐに広まって、声かけの形は「お兄さんが怪我したってホント?」「大丈夫なの?」という形に変わっていったが。
しかし煩わしい質問攻めもホームルームが始まればぴたりと途切れる。担任教師が朝の連絡事項を教壇で読み上げるのをぼんやりと聞いて、緒都はふう、と一息ついた。有名人の妹というポジションはこういう苦労がある。怪我ひとつでこうなのだから、突然学校を休み始めるとなったら間違いなくあれこれ聞かれるに違いない。ううん、実に面倒くさい。やがて起こるであろう厄介ごとに早くもため息をつきたくなる――その時だった。
――ドオオオン!と、突然響く酷い地鳴り。ガタガタと揺れる机や棚。少々のざわめきはあれど比較的静かに担任の話を聞いていた教室から一点、周辺から一気に悲鳴が上がる。対して緒都はこういう非常時には驚きで声が出なくなるタイプであったから、吐きだそうとした息をひきつらせてピタリと体を硬直させるばかりだった。何、どうしたの、とあちこちから聞こえる声は混乱を極めている。担任はどうにか「落ち着きなさい」と声をかけて場を治めようとしているようであった。
しかしその後も、廊下に出た担任教師が隣の教室の担任と何やら話をしていたり、窓の外を覗いて状況を確認しようとする生徒が居たりと、それでもざわめきは広まるばかりで、ようやく状況を知らせる放送が鳴ったのは、謎の揺れと地響きから数分が立った後であった。
『これは訓練ではありません』なんて避難訓練で聞くのとは真逆の放送とともに体育館に集められたら、火災ではないけれども謎の爆発が保健室で起こったらしい、という情報がようやく全校生徒に伝えられる。その時点で緒都としては「あっ(察し)」状態であった。出会ったその日に即バトルでしたか、と気が遠くなる思いで頭を抱えたら、「お兄さんなら大丈夫よ!」と、貧血と勘違いをしてくれたらしいクラスメイトに体を支えられた。うん、大丈夫だと思う。承太郎だから大丈夫だと思うけど。
もちろん、これだけの騒ぎになって一限目始めまーすなんて流れになるはずもなく、結局その後すぐに生徒全員の早退が言い渡され、付き添おうかと心配するクラスメイトの申し出を断った緒都はとぼとぼと家に向かった。承太郎が今どこで何をしているのかはわからない。が、探すというのも賢い選択ではない。
これは巻き込まれなかったと喜ぶべきか、容赦なく速い展開に肩を落とすべきか。何とも言えない複雑な気持ちを抱えて帰宅をし、緒都は俯きがちに空条家の門をくぐった。「ただいま」と今日もよそ様がいるであろう家の中に足を踏み入れるが、玄関付近には人の気配がない。
あれ?と思ってあちこち部屋を覗くこと数室目。
「……」
「……あ」
客間の一つに全員集合状態の光景を発見し、その中の一人、さらに増えたよそ様とバッチリと目があった。
「……えっと……お邪魔してます」
「……」
わー綺麗な方の花京院だ。今朝石段で見た禍々しい目つきとは一転、驚きのビフォーアフターな困った目にそんな感想を抱く。しかし状況が飲み込み切れない緒都は始終無言。挙句の果てにその場にいた全員が花京院の声に反応してこちらを向くものだから、ますます緊張で言葉が出てこなくなる。
「あらっ、緒都ちゃんお帰りなさい!でもこんなに早くどうしたの?……はっ!もしかして具合でも悪くなっちゃった?」
「…………早退」
「やっぱり具合が!?」
「……ぜ、全員……その、保健室が、ガス爆発か何か……」
言った途端、うっと顔をひきつらせたのは花京院。無言で帽子のつばを下げたのは承太郎。やっぱりそういうことでしたか、と確信を持ったのが緒都で、同じく状況を理解したらしいジョセフは「Oh」と頭を抱えていた。日本語に首を傾げているアヴドゥルと、スタンドバトルというものを理解していないホリィはそんな一同の様子に首を傾げていたが。
「……じゃ」
そしてこの微妙な空気の中から緒都は一抜けた、だ。短く退室の意を述べて、自室の方へと引き返す。
うむん、しかしこれで承太郎のエジプト行きまでの猶予が無い気配がより濃厚になった気がする。ジョセフ来日からまだ二日も経っていないというのにこれとなると、出発も今日明日の話なのかもしれない。いやそもそも、結局何故エジプトへ発たなければならなくなるのか、という原因については不明なままだ。ホリィの身に何かあるのではないかと踏んだとはいえ、その兆しは見えないし、もちろんそれならそれでいいことなのだが、本当に先祖の因縁を片づけるためだけに行くとなるとタイミングの予測はつけようがない。
緒都は自室の机の前に腰をおろして、未だ身に付けたままの制服から手帳を取り出す。黒い紐をしおりとして挟んだページを開いて眺め、これを渡すタイミングだけは絶対に逃してはならないのだと拳を握り込んだ。今後承太郎が学校を休むことになったら絶対に一緒に休んでぴったりくっついていよう。何も言わずに行ってきます、がありえてしまいそうだからこそ、緒都が逃がさぬようついてまわるしかない。
しかし本当に、いったい何がどうなってエジプトへ向かうことになるのだろうか。あれこれ今までにも考えた可能性を再び思案して、ぼんやりと手帳を見下ろしてしばらく。
「緒都」
――ばたん!と音が出そうになるほど咄嗟、かつ乱暴に手帳を閉じて、緒都は突然声をかけてきた承太郎を振り返った。
うわあ完全に油断していた。バクバクと心臓を慣らして内心焦りながら、扉の所に立って部屋の中を覗き込む姿を何でもない風に見つめ返す。
「さっきのヤツだが、事情があって今夜は泊めることになった」
「えっ……そっか」
「……保健室の騒ぎ、怪我はしなかったか」
「だっ、大丈夫。……承太郎は?怪我、増えてるよ」
「平気だ」
「そっか……」
ううん、気まずい。手帳について突っ込まれるのではないかとハラハラしている身としては、どうにか話題を提供して意識をそらしたいところなのだが。
それにしても、泊めるとな。ただでさえ緊張状態のこの家にさらに他人が追加されるとは。ストレス蓄積が加速……しかし半ば自分もよそ者なので、やっぱり文句は言えないのである。
「……緒都」
「……うん?」
「…………いや、なんでもねえ。……じじい共と話すのがしんどけりゃ、無理して出てくる必要はねえからな」
何かを言いかけて、しかし言わない選択をしたらしい承太郎に緒都は首をかしげる。が、承太郎は踵を返して扉を閉めようとするので、深く追求することはやめた。気になることがあってもよほどのことでなければ夜は眠れるタイプなので。何はともあれこの手帳について放っておいてくれるのならこれでひとまず安心、ではあるのだが、
「承太郎、行くの?」
去っていく背を見ていたら、つい引き留めるよう問いかけてしまった。承太郎は驚いた様子で振り向き、大きく開いた目でこちらを見ている。
「……どこに、だ」
「……」
「……緒都、お前……」
「やっぱりなんでもない!あの、でもどこか出かけるなら、黙っていかないでね」
ちょっとばかり保険をかけたら、緒都は承太郎から逃げるように視線を外す。そうして机に向き直って、用も無いのに閉じた手帳の表紙を見下ろす。耳をそばだてて承太郎の気配を探っていたら、ほどなくしてのしのしとした足音が遠ざかっていくのが聞こえた。ほっと胸を撫で下ろし、うっかりしていたなと反省する。
己を突き動かすような不安は確かに感じたけれど、どうしようもない問題が今目に見えて転がっているわけではないのだから。その場しのぎでも苦し紛れでも、そう考えることは大事だ。楽天的でいられる間に楽天的でいなければ。そしてできるのなら、そうしていられる期間は長い方がいい。先延ばしの考え方でも、緒都はやはりその方がいいと思った。
ホリィが倒れたのは、その翌朝のことだ。





「ママ!!」
最初に見つけたのは緒都だった。毎朝登校前にはキッチンを覗いていってきますと声をかけて、それを合図にホリィと二人で一緒に玄関まで行く。一足早く玄関で待ってくれている承太郎の頬にキスをするホリィと、うっとおしがる承太郎。次に緒都の頬にキスが来るので、照れ臭く思いながらもいってきますと再度口にしてようやく玄関口を抜ける。
それが習慣。だから、キッチンを覗いて異常事態を発見するのは誰よりも早かった。そうしてあげた声の焦燥を察知したように駆けてくる足音は三つ。最初にやって来たのはアヴドゥルで、彼は倒れているホリィを見るなり、何かに気づいた様子で慌ただしくホリィの背中の衣服を剥いだ。危機感を露にする彼の目に何が映っているのか、緒都にはわからない。ただホリィの状態が危険なものであることだけは間違いのない事実。緒都のわからない範囲……恐らくはスタンドが絡む何らかの危機がホリィの身を蝕んでいる。
背後で少し遅れて到着した承太郎とジョセフが同じく状況を目の当たりにして取り乱しているのを、緒都は呆然と聞いていた。何か言っている、けれどもその内容が頭に入って来ない。やがてドン、と棚が大きく揺れる音と、嗚咽を漏らすようなジョセフの声の後。
「言え!対策を!!」
唸る獣のような声に、ああこれが理由なんだ、と悟った。彼がその身を賭してひとつの悪をねじ伏せに向かう理由は、もう火を見るよりも明らかだった。
だからこそやっぱり、緒都は『反則』を託して、彼らにいってらっしゃいを言うことしかできない。

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