▼それは心配な妹のこと


承太郎の心配事は、時計の針が十二を指しても妹が家に帰ってこなかった、あの日から始まった。七時の時点で違和感があった。八時の時点でおかしいと確信した。九時の時点で学校は騒ぎで、十時の時点で母は卒倒直前だった。近所の人まで一緒になって探し回ってくれる中で、下駄箱にはまだ靴があると言う状況に事件性を感じずにもいられず、心配したからこそ、ようやく公園にその姿を見つけたときには安堵以上に怒りが込み上げた。俯き、じっとベンチから動かない、その姿に駆け寄り声をかけ手を引いて、そうして承太郎は事態の深刻さを目の当たりにする。
「かえるの、どこに?」涙の膜を張って尋ねた妹は、直後に承太郎の名を呟いて、あろうことか気を失ったのだ。咄嗟に支えた軽い体を抱き上げて、承太郎は次の瞬間には駆け出していた。
連れ帰った妹はあまりにも唐突に、あまりにも多くを失っており、病院に連れて行っても原因不明の記憶障害としか診断されなかった。承太郎が医師にもわからない原因に延々と思考を巡らせたのは言うまでもない。外傷はなかった。しかし、そうであるからこそ余計に原因がわからない。承太郎絡みの面倒ごとに巻き込まれたわけではないと思いたいが、それを肯定する要素もないように否定する要素もない。
ともかく、少なくともしばらくは一人にはできない。その原因が何であるにしろ、また同じことが起きれば危ない。そうでなくともあらゆるものが欠けた状態で、承太郎が思いもしないような危険が付きまとう可能性は高かった。妙な例えだが、仮に見も知らぬ誰かが今の緒都に「やあ久しぶり」なんて近づき方をしてきたとしても、妹にはその真偽を見極める術がないのだ。
以来承太郎は妹にあちこち付き添いとにかく一人にはしないよう心がけ、家の中でもある程度は様子を見るよう努めた。そうする承太郎の姿を見てホリィも安心していたのはわかったから、どれだけ妹が申し訳なさそうな顔をしても、仮にこれから面倒がるような顔をされるとしても、少なくとも承太郎に引く気はなかった。
だが思いのほか、緒都の順応は早い。そうしていると、記憶に欠陥があっても妹は妹なのだと実感する。よそよそしさが緩和されていけばなおさら。日常が戻ってきたかのような空気感には安堵さえした。
だがそれでも、承太郎の中に湧き起こる、妹の抱えた『何か』への危惧はある。
最初は寝坊の緒都を起こしにいったときだ。机に突っ伏す姿にまず驚いた。とっさに呼吸を確認したほどだ。また公園でのように意識を失ったのではないかと焦るが、どうやら眠っているだけらしい。気絶からの眠りか、うたた寝そのものなのかの判断はつかなかったが。
それでもひとまずは安堵して、次に突っ伏す妹の下に何かの描かれた紙を見つけた。眠る直前まで何か描いていたのだろう。妹の手には鉛筆が握られている。
そっと紙を引き抜いてから、まず承太郎は眉を寄せた。そこにあるものの不可解さを考えるよりも先に、複数の人型の、首筋の星が悪い思い出を想起させたからだ。
緒都は己の体に多少のコンプレックスを持っている。母のグリーンの瞳を受け継いだ承太郎とは異なり、その黒い瞳は純日本人の父の血を色濃く受け継いでいる。顔立ちはどちらに明確に似たわけでもない。父が長く不在の家では母と並ぶ機会が多く、パッと見で親子とは見られづらいところがあった。そんなことは承太郎だって同じだったが、人の抱える不安と言うものは言葉だけでは簡単に払拭は出来ない。承太郎も承太郎で、幼い頃こそむしろ周囲とは違う瞳の色に対するコンプレックス紛いのものを抱えていた時期があったから、よくわかるのだ。
だが緒都のコンプレックスは瞳のことだけではない。受け継がなかった母の瞳。それに加えて、緒都の首筋には星形のアザがない。
承太郎の首筋にあるこのアザは母から受け継いだものだ。父の首筋にソレはない。だからこそ、父の血を色濃く受け継ぐ緒都に星形のアザがないからと他の家族が不審に思うことなどない。
しかし緒都は違った。一度だけ家庭内で問題になったことのある、「緒都は本当にこの家の子なの?」事件。
つい、口をついて出たという風な疑問。しかし緒都にとっては長年抱えてきた大きな不安。もちろん、両親が全力で示した答えにより問題は片付いたが、緒都の中には恐らく、当時の疎外感が多少なりとも残っている。
紙面の絵を見て、承太郎は記憶障害の原因に思わずそれを疑った。心因性、関係性の忘却。みるみる湧き上がる不快感に顔が歪む。かえるの、どこに。公園での緒都の言葉が脳裏にちらついた。
そうして気がついたら、承太郎は拾った紙を畳んで懐にしまいこんでいた。妹の目にまたこの絵を映したくない。ただ単純な理由だった。
しかしそれがまさか、もっと危険な『何か』として意識に取り上げることになるなんて。ましてや、妹の目を盗んで他人に開示しなければならないほどに。





「……じじい、見てほしいものがある」
しまいっぱなしにしていたあの紙片を再び取り出すことになったのは、承太郎がスタンドという謎の能力に目覚めて、祖父がジョースターの血筋にまつわる因縁の話をしたその日だった。
カフェでの話が一段落して一行が帰ろうとしたところ。緒都は学校で席を外しているから、タイミングとしては丁度いい。これが妹にとって無意識の産物であった可能性を考慮したら、本人がいない方がいいと判断したのだ。
「緒都が描いた、と思う」
「緒都?なん……なっ、なんじゃこれは!」
ここで長々と血の因縁について聞くにつれ……否、牢屋でジョセフを見て以来感じていた既視感。デジャヴの類いとは違う、しかし状況に覚えがある。その感覚は、ジョセフがポラロイドカメラを叩き割って映し出した男の姿によって完全なものとなった。黒く太く何度もなぞり書かれた『DIO』の文字。そこに書かれた人型は首に星の字と傷跡。そして下にある三つの人型は……今日、承太郎が置かれていた状況そのものだ。
「記憶障害を起こした翌日辺りだ。最初は痣のことがネックにでもなってんのかと思ったが……これはじじい、てめえだろ。そしてこっちはてめえだ、アヴドゥル。牢屋のなかにいるのは恐らく俺で、……これが、DIOだろう」
「なにぃ!ど、どういうことだ?これはまるで未来予知……まさか緒都にもスタンドが!?」
考えられないことではない、だが考えたくない、といった様子で口元を押さえて考え始めたジョセフは、まだ日本に来てから緒都とは顔を合わせていないらしい。記憶障害の件は以前から連絡だけは受けていたようだが、承太郎もホリィも望んでいたように、まだ緒都には無理をさせたくないという意向で会うことはしていなかったのだ。だが今回の件で、ジョセフも楽観視できる状況ではないとますます感じざるをえなくなったのだろう。
「でも緒都ちゃん、昨日聞いたら何も見えなかったと言っていたわ」と不安そうに胸を押さえてホリィが言うが、それでも緒都がスタンドと言う存在自体に一切の疑念を抱いていないらしい気配はあった。留置場での態度を思い返しても、むしろその説が濃厚だ。
「……悪いものではない、とは言われた。それにこの絵。俺の後ろのは、俺のスタンドってやつだろう」
「むう……緒都はこれについてなにか言っていたか?」
「描いたことを覚えてるかもわからん。描きながら寝たか気絶したか、机に突っ伏してるのを朝見つけて、抜き取った」
「抜き取ったあ?」
「痣のことかと思ったと言っただろうが。記憶障害の原因がまたバカみてえに思い詰めてのもんだとしたら、また何か引き金になっても困ると思ったんだぜ」
「……むむ……」
それも一理ある、という顔をしたジョセフも「緒都は本当にこの家の子なの?」事件をよく知っている。当時幼かった承太郎でも強く印象に残っているあの騒ぎでは、わざわざ太鼓判を押しにやって来たこともあるのだ。あの時も確か、緒都は承太郎の後ろに隠れて出てこなかったのだが。
だが実際は、何かそれ以上の大きな問題がある。承太郎はテーブルの上に置いた紙をじっと見下ろして、何重にも重ね書きされた『DIO』の文字に眉をひそめた。棺、クルーザー。緒都は何をどこまでわかっているのか。
思い返せば緒都の行動には不可解な点が多い。全てはやはり公園で泣き顔を見せたあの日から。承太郎を兄と認識できなくなったあの時から。
「こうなると、記憶障害自体がただの偶然とも考えにくいのう……スタンド能力の発現による付加効果か……もしくはスタンド攻撃……?」
「攻撃だと?」
「可能性はゼロとは言えん。……何にしても、緒都とは話してみる必要があるな。じゃが問題は……」
「今のあいつにとっててめえは他人同然だぜ、じじい。ただでさえ元から人見知りの対象だったってのに」
「やめんか、傷つく!」
大げさに胸を押さえて体をひねったジョセフにげんなりした顔を向けながらも、承太郎の胸中の実際はそうお気楽なものではない。
とにかく妹が心配だった。何が起きたのかよりも、それによって何かが失われていくのではないかという危惧。自分という存在が大事な物の中から失われるという衝撃はあまりに大きい。『かえるの、どこに』。らしくないとはわかっていても、正直あれはトラウマものだった。だからこそ妹の様子に過敏になる。白い顔をして机に突っ伏す姿を、どこかもわからぬ空を見上げる姿を、硬いカードを散らして眠る姿を、何かに脅えるように縮こまる姿を……妹がその内に抱える何かに晒される姿を見るたび、またその腕から大事なものが零れ落ちていくのではないかと。
だったらいっそ見なくていい。もう何も零れずに済むのなら、微妙な均衡の中でもいい。本音はただそれだった。
しかしそうも言っていられない。わかっているからこそやるせない。ならせめて隣に居よう。結局行きつくのはそこだった。
カフェを後にして家に向かおうとする流れから「緒都を迎えに行ってくる」と一時離脱した道のりで、早退してきた緒都とバッタリ居合わせたとき。パッと顔を明らめて駆け寄ってくる妹を見てなおのことそう思う。血の因縁、祖先からの業、そんなもの自分たちには関係ない。
緒都と二人で遅れて帰宅してからのジョセフとの会話を見聞きしていても、頭のどこかでそう思っていた。指先に巻き付けた茨のスタンドに無反応な妹。あの絵に関する質問にひたすらに戸惑いながらもどうにか応えようとする妹。この場に居たくないのであろうことがわかったから、着替えてこいと話を打ち切って逃がすことにしたのも、別にスタンドが見えまいが、あの絵がなんであろうが構わないと思う部分があったからだ。
だけれども。
『ソレ』を目の当たりにした時、妹が去った室内には長い沈黙が流れた。退室しようとして転びそうになった妹を咄嗟に支えようとして、承太郎は物理的距離という壁を無意識にスタンドで越えようとした。つまり、承太郎は己のスタンドで緒都の腕を掴み支えようとしたのだ。けれども、その手は。
「……何の感覚もなかった。空をかくのと同じ」
「……し、信じられん……逆は不可能であるにしても、スタンド『から』触れることは可能……ましてやその意思をもって伸ばした手がすり抜けるなど……」
承太郎は己の分身を通して感じた手のひらの感覚が信じられずに、唖然と生身の手のひらを見下ろす。己の分身たるあの青い体は、触れようと思えば何にだって触れられた。初めてアレが抑えられずに人を殴り飛ばした時も、鉄格子を押し広げたときも、その手を通じて感じ取るものがあった。
しかしたった今のそれは。まるで生身の手でスタンドに触れようとする時のように、そこにあるのに触れられない、そんな感覚。
わからない。とにかく、あらゆることがその一言に尽きた。それでもまだ、承太郎を遠い異国の地へと向かわせるには足りなかったというのに。
妹はどうやら、承太郎がこの地を発つものだと思っているらしい。いや、正確には妹がそう匂わせたときには、心は少し揺らいでいた。顔と名前しか知らなかったDIOという男がいかに卑劣な男であるのかを、花京院という男を通して目にしたからだ。己がすでに因縁の血族として命を狙われているということを知ったからだ。それがすなわち、ホリィや緒都にも向けられる可能性のある悪意であるということを理解したからだ。
「承太郎、行くの?」
だから、図星をつかれたような気分だった。緒都はすぐに何でもないと笑ったけれど、その瞬間、承太郎は確信した。妹はわかっている。その自覚があるのかは定かではないけれど、だが恐らく、頭のどこかでわかっている、気付いている。ゆっくりと手を伸ばしてくる悪意に。何かがこの血に引き寄せられて迫り来ることに。
「言え!対策を!!」
倒れた母と、声を荒げる兄。妹の目にそれらはどう映っていたのだろう。





出発の直前に妹に手渡された黒い手帳には覚えがあった。しばらく前に承太郎が妹のためにと適当に選び取ったものだ。
倒れたホリィが目を覚ましてから再び意識を失うまで、承太郎と緒都とジョセフはずっとホリィのそばについていた。志新たにDIOの元へ向かうことを決意するジョセフの言葉に、もう関係ないと吐き捨てる声はない。目的地のヒントをスタンドの力でどうにか探し当ててからの行動は早かった。強いコネのあるジョセフはあと数時間で発つという飛行機のチケットをすぐさま手に入れ、家の中に医師を派遣して万全の態勢を準備。アヴドゥルと花京院の同行が決まってから、外へ向かって空条家の門をくぐるまでに五分と時間はかからない。
そこに駆けてきた妹は、息を切らせてあの手帳を抱えていた。黙って行かないでね、という声を忘れたわけではなかったが、ホリィの傍に座って黙り込む妹の頭をくしゃりと撫でた時点で挨拶は済ませたつもりでいたのだ。
ぐいぐいと承太郎の腕を引いて門の隅へと引き込んでいく緒都の姿を見て、他の三人は気をきかせるように先に乗りつけられた車へと乗り込んでいく。一方で、時間が無いのはわかってる、と肩を上下させながら言った緒都は、ぐっと身を乗り出して背伸びをし、どういうわけか抱えていた手帳を承太郎の学ランの内ポケットへと押し込んだ。
「おい、何だ」
「うまく説明できない。できないけど!」
「……」
「……もしもそれが役に立ちそうだったら、承太郎の好きなように使ってほしい。もしかしたら、何の意味のないものかもしれないけど。たとえ意味があるとしても、私にはそのひとつの道筋しかわからないけど……」
めくった学ランを元に戻して、分厚い布の上から緒都はそっと手帳を押さえる。何のことかは承太郎にはさっぱりわからない。けれどもその手をどかして今ここで手帳を開く気には到底なれやしなかったし、何よりも今は手帳の中身よりも、自信なさげに瞳を揺らがせる妹のことの方がよほど気にかかる。
「……最初のページは、もういいのか」
口をついて出た言葉が抱える意味は多かった。承太郎も、自分で言いたい全てを理解しきれていない。
けれども驚いたように顔をあげた緒都はそれからすぐに口を引き結んで、力が抜けたように、にへら、と笑う。
「……あのね、私ちゃんと覚えたよ」
「……」
「電話番号も、もう空で言える。住所も言える。家から学校までも、図書館までも、文房具屋さんまでだって、ちゃんと覚えたよ」
「……」
手帳の入った場所を押さえていた手がそっと離れる。緒都は一歩引いて、縋るように承太郎に触れていた手を後ろに組んで背筋を伸ばした。それから少し恥ずかしそうに頬を明らめて……まるで、はじめて一人で自転車に乗れた時のような顔で。ふらふらと左右に揺れながら、どうしようもなくぎこちなく、それでも補助なしでこちら側へとペダルを踏み続けた時のような。『じょうたろう、できた!』と、プルプル不格好に震える腕でハンドルを握って。緊張と高揚とで真っ赤になった頬で言うのだ。『一人でできた!』と。
「覚えたよ!承太郎が教えてくれたこと、ちゃんと覚えてる!空条緒都は、全部覚えたよ!」
声を大きく、誇らしげに。行っても大丈夫だよ。一人で立つ緒都は、そう言ったのだ。

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