▼家族を努めるということ


『元気か』という問いに「はい」と答えそうになるところをどうにか飲み込んで、緒都は受話器を握りながら「うん」とあるべき形での答えを絞り出した。電波に乗った声が『そうか』と間もなく返ってくるおかげで、間違いはなかったのだとほっと肩の力が抜けていく。
空条貞夫は承太郎ほどの寡黙ではないとはいえ、承太郎のそれは父譲りなのだと納得できるほどの簡潔さを持っていた。ホリィほどの明るさやお茶目さがあるわけでもないが、彼の静けさは冷たさと言うよりは穏やかさ。こうして記憶障害を発症したとされている娘と会話を交わしても、気まずい沈黙を生むわけでもなく、かといってあれこれと必死になって話題を探すわけでもない。
『学校までの道は覚えたか』
「うん」
『承太郎はどうだ』
「元気だよ」
『登下校も一緒だと聞いた』
「うん、気にかけてくれてるから」
『困ったことはないか』
「大丈夫」
父親相手になんとも口数が少ない。借りてきた猫状態が否めないが、承太郎やホリィのような慣れた相手ではないのでそれも仕方のないことではある。
畳の上の座布団にぺたりと座りこんで、重たい受話器を両手で耳元に支える。くるくるとした電話線を指に巻きつけていたのはさっきまでで、片手で受話器を支えることにはもう疲れてしまった。
『体には気を付けろよ』
「うん」
『じゃあ、また母さんに代わってくれるか』
「うん」
しかしこれは流石に承太郎かっと突っ込みたくなるレベルの相槌オンリーな会話だ。よくない、これはよくない。ホリィに代わると言った手前もうあまり時間はないわけだが、何か一言くらいこちらから言っておいた方がいい気がする。
「あのっ」
『うん?』
「……お、仕事、頑張ってね……」
『……ああ。ありがとう』
「……じゃ、代わる」
『うん。承太郎にもよろしくな』
「わか、った」
やけに心臓がバクバクする。ちょっと勇気を出して言ってみた、とはいっても言葉自体は大したものじゃないけれど。カッと熱くなった耳が下ろした髪に隠れていることにほっとしながら、同じ室内に居るホリィに受話器を差し出して電話前の座布団から立ち上がる。
ホリィのニコニコ笑顔が先ほどの「頑張ってね」に何かしらを感じているのか、全く関係のない通常装備のそれであるのかはわからない。どちらにしても気恥かしさはバッチリ胸に抱いてしまっているので、緒都はそそくさと部屋を飛び出して自室の方へと退避することにした。
縁側を歩いて歩いて、書庫の入り口でぱたりと足を止める。すさまじい量の蔵書が詰められた室内は薄暗く静かで、少し考え事をするにも丁度いい。
そっと足を踏み入れたすぐの本棚にはタイトルがアルファベットの分厚い本がずらりと並んでいる。学校の図書室の、辞書や重たい資料が詰め込まれた別室のような雰囲気だ。いったい誰が集めた本なのか。仕事上必要、という職業の身内は、少なくとも緒都が知る範囲にはいないと思うのだが。
何にしても、英語は高校受験レベルでしか身についていない緒都だ。この辺りの本に手を付けることは難しい。まあ今の緒都にはこの部屋に足を踏み入れた目的がしっかりとあるので、英語タイトルの本はスルーしてさらに奥の方へと歩いていく。指先でするすると本を撫でながら探すのはアルバムだ。以前、記憶の確認ということでホリィがこの部屋から貞夫の写真のあるアルバムを持ち出していたのは覚えている。
母と兄に挟まれながら目の前にアルバムを広げられ、この人が誰かわかる?という質問に全く答えられないあの状況。なんという罪悪感。あれが父に当たる空条貞夫だと知った時の心の中に流れた冷汗は相当のものだった。受けたショックはやはりホリィの方が大きかったようだが、対して承太郎は「ほとんど家にいねえからな」と、現実を現実と受け入れてくれた。もちろんホリィも現状を受け入れて入るのだが、恐らくこの時のリアクションの違い、もとい承太郎のリアクションが緒都の中にひとつの安心感を与えたのだと思われる。おかげでこの人大きいコワイがいつまでも発動することはなく、むしろ記憶障害で通っている緒都を腫れものとして扱わない承太郎のそばというのは居心地の良い場所となったのだ。
あの後……それでも空条貞夫は父であるからと、恐らくは緒都に無理に過去を強制しないというスタイルを貫きつつも、彼と向き合うことは避けずにいてほしかったらしい。誰かもわからなくて不安だと思うけれど話をしてみてほしいの、とこの手を握ってお願いしてきたホリィは、緒都を、そして貞夫を強く想っていた。
わからないからごめんなさい、なんて言えるはずもないのだ。緒都が緒都の知りうる限りの真実を伏せてここに居座る以上、空条家の娘であらねばならない。そうある努力をしなければならない。
辛いのは、過去の自分がどうであったかを尋ねるときだ。あなたのことをなんて呼んでいた?あの人のことをなんて呼んでいた?そう問うたびに罪悪感が胸を占める。けれどもいつかは越えなければならない問題であるから、一度聞いた自分の過去は決して忘れないように部屋でこっそりメモを取っている。
緒都のそんな罪悪感を感じ取っているのだろうか。ホリィも承太郎も、最低限のラインとして貞夫のことだけは向きあう対象として緒都に示しているが、それ以外の誰かの話題が出されたことは一度としてない。祖父も、祖母も。緒都の現状が親戚のどこまで話がいっているのかはわからないが、会ってみてとも話してみてとも言われないのは、彼らなりの気遣いなのではないかと思っている。
だからこそ、そうして守られているからこそ、踏み出す時は自分からでなければならないのだと思うのだ。いつかは会わねばならない、かもしれない。そんなとき、またあの申し訳なさそうな、悲しそうな目で、ホリィに「お願い」と言わせたくはない。
アルバムはその一歩。ひとまず身近にいる人の顔は把握したいというのが半分と、昔の自分自身を見ておきたいというのが半分。全く身に覚えのない自分自身を見ると言うのはいささか気味の悪さがあるかもしれないが。いや、でも幼い頃の自分なんて記憶があってもどうせ身に覚えのない姿であるから、案外平気だったりするかもしれない。まあ見てみればわかることだ。緒都はようやく見つけたアルバムの並びに手を伸ばして、差し込んだ指に力を込めた。
「…………あっ!?」
ペラペラと分厚いページをめくって、不意打ちに思わず声が漏れたのは僅か数分後だ。日本家屋には不釣り合いな大きな体、彫りの深い顔立ち。いや、それだけを言うなら承太郎にも当てはまることなのだが、今緒都が凝視しているのは承太郎よりも外国寄り、なおかつお年を召した男性で。
そう、記憶にあるあの人、『ジョースターさん』である。右も左もわからない緒都にとって、彼が実在するということはこの世界に自分でも知っているものが増えるということ。そのことに喜びを感じつつも手放しで喜べないのは、来たるべき未来が来るという可能性が色濃くなっているという事実もまた、そこに存在しているからである。
緒都は重たいアルバムを片腕で支えたまま、『ジョースターさん』が登場するページを次々にめくっていく。幼い自分は小学校の低学年くらいだろうか。その大抵が承太郎の服の裾を掴んでいて、ちょっとした人見知りはどうやら変わらず身に着けていたらしい過去に苦笑する。昔から縁遠い親戚には一歩引いて身構えてしまうところがあった。核家族で育ってきたからなおさらだろう。祖父母と顔を合わせるのは年末年始やお盆だけ。ジョースターの場合はその祖父母が海の向こうにいるのだから、より頻度は低く、交流も難しいのだろう。
あれ、そういえば空条家はみんな英語はしゃべれる感じなのだろうか。繰り返すが、緒都の英語力はせいぜい高校受験程度。進学校に合格できるレベルであるとはいえ、あくまでメインはリーディングにリスニング。実際の英会話というのは不可能ではないにしても、不自由なく会話を交わすには不十分な実力だ。しかし、祖父母が日本人でない空条緒都の場合はどうなのだろう。ぺらぺらと英語を話してコミュニケーションを取れていたのだろうか。そもそもストーリー的に、ジョースター御一行の日常言語とはなんだったのだろう。パーティーメンバーの二名だけが日本人となると、現実的には共通語の英語を使用するのが普通なのではないだろうか。となると、不自由なくみんなと言葉を交わせていた承太郎や花京院は英語がペラペラということになるわけだが。
これはまさかの、英語の勉強も頑張らなきゃいけないパターン。少しばかりのショックと焦り。実は空条緒都は英語はペラペラだなんてことになったら、記憶障害の程度がより奇妙なものになってしまう。この場合言語野の損傷とかそういう疑いも出てくるのだろうか。また病院で検査なんてことになったら嫌だなあ。ううん、空条妹は昔から英語が出来ないに一票。
と、悪あがきで頭を悩ませていたら、ふわりとした影がふいに視界を横切った。開け放たれていた扉から迷い込んできた蝶である。
嫌いなわけじゃあないけれど特別得意なわけでもない。突然の侵入者に瞬間的に身構えてしまうのは仕方のないことだろう。条件反射である。しかしその瞬間に片手で支えていたアルバムを投げ出してしまったのはよくなかった。直後に予測される床とアルバムのぶつかり合う音にまたしてもぎゅっと体を強張らせ――しかし音はいつまで経ってもやってこない。
思わずと閉じていた目をそろそろと開いたら、地面にぶつかろうとしていたアルバムは宙に浮いて止まっていた。すでに緒都との間に距離を作っていた蝶も同様である。
まただ。世界のカードを冠する遥か遠いエジプトのスタンドは、また今日も時間停止に勤しんでいるらしい。この瞬間になるとぴたりと周囲が無音になるものだから、普段自分が身を置いている環境にどれほど些細な音が重なって存在していたのかを身を持って感じる。貴重な機会をありがとうございます、だ。
それにしても、こうして時が止まる回数というものがそれほど頻繁なものでなくてよかった。あまり頻度が高すぎるようだと、日常生活に支障が出てきそうだ。今の所会話の最中に起こったことはないが、誰かと話している間に連続的に起こってしまったら、読み込みの遅い動画を見ているような気分で何が何だか分からなくなりそうなものである。ちなみに、何故自分が制止した時の中を自由に動き回れるのかなんて問いは放置したままだ。時間の概念、難しい。相対性理論なにそれよくわかんない。
あれ、でも、止まった時の中で動ける自分がいるということは、この体はいったいどの時間に準じて生きているのだろう。止まった五秒の中を過ごすこの体は、止まった世界よりも余分にその五秒間を生きたことになるのだろうか。となると、ほんの二秒三秒の積み重ねがじわじわと世界を追い越して……やがては承太郎よりも年上になってしまうなんてこともあり得るのだろうか。それはちょっと、なんていうか、怖いぞ?
「……ぴゃっ!」
そう考えていたら、止まっていた世界は再び動き始め、宙に浮いていたアルバムも当然重力に従い地面に落ちる。この間にさっさとしゃがんで受け止めてしまえばよかったものを、結局大きな音をたててビビる羽目になったではないか。余計なことを考えて完全に油断していた体からは強張りも抜けていて、無防備に衝撃音を受け取ってしまった。びっくり度合いが倍増である。
緒都はバクバクと鳴り始めた心臓を押さえながら、開いたアルバムをしばらく見下ろして唇を引き結んだ。驚きで中断させられた思考を再び思い返し、実はもう世界を置いて先を歩いてしまっているかもしれない自分にやはりゾッとする。しばらく考えて、緒都はアルバムを拾い上げて書庫を出た。向かう先は承太郎の部屋だ。何か不安になったら彼の元、というのはあながち馬鹿ではない考え方で、どうにも最強主人公のイメージというのは安心感を与えてくれるらしい。たぶんきっと邪険にはされていないと思うので、しつこすぎない頻度を心がけながら、気持ち控えめに兄の部屋をノックした。
「ん」
「今、いい?」
「ああ」
短いやり取りでの入室。返事で大丈夫を示されても、実際この目で確認するまでは邪魔をしたかもという不安は付きまとう。扉を開き兄の様子を覗いてようやく、本当に今は大丈夫そうだと安堵する。一応、忙しくはなさそうだ。
「電話、終わったのか」
「あ、うん。……パパ、が、承太郎によろしく言ってくれって」
「そうか」
「うん」
「それで、お前はどうだったんだ」
「えっと、あんまり喋れなかった」
「無言か」
「ううん。相槌ばっかりで」
「なら充分だろ」
「うん。……次はもっと頑張る」
「別に頑張るもんでもねえぜ」
慣れないパパ呼びについまごついてしまう。生まれてこの方緒都は両親をお父さんお母さん呼びで通してきたのだが、一応空条としての緒都はママパパ呼びであったらしいのと、緒都の中で二人ずつ存在する両親の区別の意味も込めて、この呼び方に慣れるよう目下努力中である。気恥かしさと葛藤しながらの緒都の気持ちなど知るはずもない承太郎は、それでも別の努力の方向について、肩をすくめて少しの呆れ顔だ。彼の言葉は優しい言葉なのだけれど、そう簡単に割り切れるものでもないので、こちらも肩をすくめて肯定も否定もせずにおく。それでも唇は端を持ち上げてみたけれど、ひょっとしたら対応に困った眉は八の字を描いてしまっていたかもしれない。
「えっと、それでね、用事なんだけど……時間が空いてたらちょっと教えてほしくて」
「……?」
「親戚の名前とか……昔の私がどうだったか、とか」
「親戚なら構わねえが、昔がどうこうはいらねえだろ」
「いやいやいるよ」
「聞いてどうすんだ。そうなる努力でもすんのか」
「それなりには……うん」
じーっと、上目遣いの眼力。座っている承太郎と立っている緒都であるから当然の構図ではあるのだが、このせいで余計に目力を強く感じる気がする。ジト目感も数割増しで、ともかく承太郎にはこの回答が気にいらなかったようである。
今のままのお前でいいんだぜ、お前はお前なんだぜ。兄の心の声を胸中で勝手に構成してモノローグ遊びをしていたら、現実の兄がため息をつきながらぽんぽんと自分の隣の畳を叩いてみせた。一瞬今のため息は緒都の一人芝居に対するものなのではないかと錯覚して心底ビビったが、そんなはずもないことにすぐ気付いて、おずおずと指定された場所に正座する。おかげで上目遣いの強力な眼力は回避できたが、よくよく考えると自ら距離を縮めただけに過ぎないので、むしろ自らあの眼力に向かっていったと言っても間違いではない。それでもやっぱり近距離攻撃には耐えられないので、緒都は膝の上に乗せたアルバムに目を落とすことで兄からの攻撃を回避することにした。
「で?」
「この人」
「ああ……おじいちゃんだぜ。もうずっと会ってないが」
「……名前は」
「ジョセフ・ジョースター」
「……そっかー」
そうかそうか、『ジョースターさん』はどうやら『ジョセフさん』だったらしい。そして祖父であったらしい。となると、このジョセフさんかそのお父さんくらいが二部の主人公ってことでいいのだろうか。いや、もう過ぎたことであるから、そこのところが明らかになってくれなければ困るということもないのだけれど。
さて、ではこの写真に写る承太郎と緒都とホリィとジョセフさんと、もう一人の女性はずばり祖母だろうか。ちらりと視線を上げて問いかけてみると、頷きと共に『スージーQ』という名前も紹介してもらえた。他にもアルバムに知らない顔は複数あったが、人の名前を覚えることと顔と名前を一致させることは得意ではないので、キリのいいところで名前覚えは一段落させる。あまり一度に聞いてもどうせ繰り返し尋ねることになるので、緒都としては思い出話の方に花を咲かせておきたいのだ。
しかし承太郎はやはり「お前はお前なんだぜ」方針を曲げたくないようで、これはいつどこでの写真、とまでは教えてくれるのだが、このころの緒都はどうだったという話には決して流されようとしない。そのスタイルを貫かれることについついムスッとして不機嫌を露わにしてみても、結局は頭をぐしゃぐしゃと撫でられて「そんなことを気にするな」でかわされるのだ。
「別に、傷つかないのに」
「そうか」
「昔はそうだったんだな、って思うだけだし」
「ああ」
「そんなふうに気を使わなくたって」
「そうだな」
お兄ちゃんがお兄ちゃん過ぎて困る件について。けれども知らないお陰で自分のままでいられるというのも事実だから、やはり文句も言えなくて子供の様にただ唇を尖らせる。ぐわんぐわんと回される首にうーうー声をあげつつ頭を鷲掴みする大きな手を両手でつかんで剥そうとしていたら、途中でやってきたホリィに「いやーん楽しそう、ママも混ぜてー!」ともみくちゃにされて、緒都の首のダメージは増大された。

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