▼不思議なことがありました


さて、思い出せない姓は潔く諦めて名乗らせて頂くが、この空条緒都、名前にJのつく例の方々の物語についての知識というのは、実のところ大して深くは蓄えられていない。あのお話にガンハマりしていたのは友人の方で、緒都は彼女から布教される形で動く映像としての兄(仮)を断片的に記憶している程度である。DVDを一挙に流されて、意識にとどめた程度を問わないのであれば、それなりに知識があるともいえるのだが。
さて、その問題はひとまず置いておくとして、話は昨日までさかのぼる。空条家でのひと悶着のあと、宣言通り病院に連れて行かれた緒都は、諸々の検査を受けた後に「原因不明」という立派な診断結果で早々に放り出された。原因不明の現象に原因不明と命名づけるとは流石お医者様です、御見それいたしました。と、軽口を言える状況でもないのが承太郎とホリィで、二人に挟まれた緒都もお通夜ムードに合わせて口をつぐまずにはいられなかった。
あの後、二人から丁寧に受けた説明によれば、緒都は空条家の次子、長女、二人兄妹の妹、であるらしい。正真正銘血のつながった空条家の娘。ちなみに、今度こそ鏡で自分の顔を確認してみたが、そこには長年連れ添った自分自身の顔がしっかり存在していた。ちなみに首筋を懸命に確認してみたところ、例の星型のアザはどこにも見当たらなかった。ジョースターの運命うんぬんから道をそれた場所に立っている気配に安堵したものの、その一方で本当に自分は同じ血を受け継いでいるのかと疑念を持たずにはいられなかったが。
何はともあれ、原因不明、その範囲もいまいち不明な記憶喪失、という認識に落ち着いた緒都の状況は、ショッキングな出来事ながらもひとまず空条家の中に受け入れられていった。町の地理、家の構造、友人知人のあらゆること、幼い頃の記憶、家族との関係性。無くしたものは多々あれど、お母さんやお兄さんの名を覚えていたことは、大事なものを必死にとどめた結果かもしれないね、なんて慰めの言葉をお医者様にいただいたことでホリィは特に励まされたようだ。ママが支えていくからね、と元気な笑顔で抱き締められて、罪悪感を感じつつも、それに安堵したことは事実である。
とはいえあまりに突然の出来事に、特に承太郎は何か面倒ごとに巻き込まれでもしたのではないかと、何かと敵の多い彼の不良という立ち位置からの懸念も多かったようだ。もちろん、それをあからさまに表に出してホリィを心配させるほどの考えなしでもなかったが。よって、彼の心配は登下校の送り迎えから昼食の時間の拘束などといった、家の外で緒都に常に付き添おうとする行為として表れた。最初は気まずさこそあれど、おかげで緒都は道に迷う心配もなくなったし、名も知らぬ友人(仮)とぎくしゃくしながらお昼ご飯、ということにもならずに済んだ。
ちなみに、緒都の記憶の件は本人の希望もあっておおっぴらにはされておらず、学校側には事情を説明済み、同級生の名簿をこっそりいただくなどのフォローをされながら、事情が事情なので、例の捜索事件について叱られることはなかった。隣で承太郎が睨みをきかせていたこともお咎めナシの一因かもしれないが。彼が問答無用で味方にいることの安心感、すごい。空条承太郎の妹というこのポジション、利点についてはしっかり利用させていただきたい所存である。
しかし、利点の反面、ここが緒都の知る物語の舞台であるという難点。つまりそのシナリオについての大きな問題は避けては通れない。石仮面を巡って始まった物語の第三部。スタンドという能力を中心に織り成される物語が、そもそも今後始まるものなのか、すでに終わっているものなのか、実はそんなもの起こり得ない世界だったりするのか。そう、やがてくるかもしれないその時を考えるにあたってはまずそれが問題だ。というわけで。
「承太郎が、何十日も……一ヶ月以上この家を空けたことって、あったっけ」
いざ、記憶喪失もどき設定を利用しての時間軸調査。兄の部屋にポツリと三角座りをして、あたかも曖昧な記憶をたどろうとするかのように目を伏せ、自信なさげに、いやそもそも実際に自信がないので結局は本心のままに尋ねてみる。すると承太郎はあからさまに怪訝そうな顔をして、
「ねえ」
と、きっぱり答えた。実はストーリーは越えていたパターン、名残惜しいがさようなら。残るストーリー存在、ストーリー非存在パターン、君たちの見分けは残念ながらつきません。
「何故急にそんなことを聞く」
「頭のなかがごちゃごちゃしてて……もしかしたらお父さんのことだったのかも」
「……あいつは一ヶ月どころの話じゃねえだろう。……そもそも、顔もまともに思い出せなかっただろうが」
「あ、はい。……うん、じゃあやっぱり、気のせいかも」
だって君のお父上、全く出てこなかったんだもんよ。名前すら記憶になかったよ。なんだかんだ、やはり帰ってこられないらしいことにこっそり安堵していることは黙っておく。
とりあえず、今日も今日とてイケメンでいらっしゃるお兄様にはこの辺りで挨拶をして、一旦自室へ引き返す。何事もなければ平和に終わってよかったね、で済むのだが、何事かある場合は身構えておいて損はないはずだ。
用意するのは紙と鉛筆。頭の中を整理するためにも、順序だてて、これから起こるかもしれない出来事を思い返してみる。
まず、一部二部の出来事は置いといて、いや一応一部は二部より直接的に関係あるんだったか。一挙放送耐久レース、カッコ友人によるセルフDVD再生に疲弊した当時の記憶をなんとか辿り、まず始まりの二人を思い浮かべる。そこでなんだかんだと因縁が生まれて、どうにかこうにか因縁の相手を倒したと思ったんだけど?確か首チョンパからの貴様の首から下は頂いたー!からの海底百年からの……いかん、支離滅裂になってきた。というかせっかく用意した紙がなんの役にもたっていない。
緒都は暫し唸って白紙を睨み付けたあと、握りしめていた鉛筆を滑らせて、一つ雑な人の形を書いてみた。これがラスボスだとすると……まず首に一本線、そこに縫い目をちょこちょこ書き込んで、最後に首のつけねの辺りに星の形を描いてみる。絵心はあまりないが、まあ特徴はとらえているだろう。これが、棺の中で、なんか引き上げた船があって……とよくある五角形の棺を書き加える。
……で、なんだっけ。そこからどうストーリーに繋がったのかがいまいち明確に浮かんでこないので、緒都は頬杖をつきながら手持ちぶさたに人型の下に「DIO」と書き込み、その文字をぐりぐりと何度も鉛筆でなぞる。黒鉛が削れてクズが紙面に刷り込まれていく様を眺めて、その後もしばらくはこの始点からの繋がりをうんうんと考えた。
が、なかなかに、これがうまくでてこない。仕方なしに一旦思考をここからはなそうと決めたときには、DIOの文字は太く真っ黒に強調されて、尖っていた鉛筆は先端が丸く削られていた。
若干書きづらくなったその先端で緒都が次にかいたのは帽子と星形のついた人型と、そこに重ねる鉄格子だ。ついでに後ろにもやもやとした人っぽい形も薄く描いておく。兄と兄のスタンドのつもりだ。誰に見せるわけでもないので、出来映えについては目をつぶろう。確か、牢屋にいるところが承太郎の初登場シーン。なんでそこにいるのかはいまいち曖昧だ。別に懲役がどうとか死刑がどうとか言う話ではなかった気がするので、あまり牢屋と言う点に焦る必要はないはずである。
この辺でもう仲間が増えるんだったかなー、カウボーイハットっぽいおじさん(星形つき)となんか頭が不思議な黒人の人の。名前……名前は確かジョースターさんとアヴドゥル……あっ、ジョースターさん!身内じゃん!思いっきり身内だ!ぐりぐりと鉄格子太郎に並べて描いた星つきカウボーイな人型と特徴的な髪型の人型を眺めながら、とっても今更な事実に感激する。
序盤はなー、一部二部と続けざまに見せられて半分寝てたからなー。二部に至っては真っ白に近い記憶は、そのまま三部の始まりも曖昧にぼやかしているのである。気づいたらなんとなく旅をしていた、といっても過言ではないストーリーへの知識は、そのきっかけやら何やら、ぽつぽつと穴抜け状態だ。
それでも、と知る限りの情報をなんとか繋げようとする緒都は、時計の針がゆうに深夜を越えていることにも気づかず、ついには針が四の辺りを指した付近で、机に向かったままぐったりと眠りにつくのである。





かさりと紙の音で目を覚ましたら、隣には制服姿の兄が立っていた。しばしその姿をぼんやりと見つめ、徐々に覚醒する意識ではっと飛び起きる。が、寝不足と寝起きの激しい動きにくらりと体が傾いてドキッとしたところ、未だ寝巻きのままの緒都の体は、不機嫌な兄に支えられて難を逃れた。あぶねえあぶねえ、ひっくり返って醜態をさらすところだった。いや、でももう一回公園でさらしてるのか、と気づいた事実に静かに落ち込み、「おはよう」も放って朝から緒都は頭を抱えざるを得なかった。なんて情けない。さらす相手が完璧野郎なせいで余計に気になる。
「……顔色が悪いぜ。平気か」
「へっ……あ、うん、ごめんなさい、昨日少し夜更かししたから。……学校だよね、すぐ準備するから」
ちらりと見た時計に少し焦る。許容範囲の時間ではあるが、急ぐに越したことはない。起きてこない妹を起こしに来てくれたのであろう承太郎に慌てて忘れていたおはようを言ってから、緒都はひとまず血の行き渡ったらしい頭で洗面所までの道を思い返した。記憶喪失事件から数日、ある程度家のなかは覚えたつもりでも、無駄に広いので油断していると道を間違えかねないのだ。
寝不足で少し白い顔はホリィにも心配されたが、本当にただの夜更かしなので欠席をする必要性も感じない。そりゃあ眠いのは眠いのだが、それならそれで登校後に少し保健室にお世話になるだけだ。記憶障害の問題から保健室の扉は緒都に対して緩かった。万歳。
そういうわけで、いつも通り兄に付き添われながらの登校はいつも以上に穏やかに。というのも、取り巻きの女性たちに兄がいつも以上に凄んでもぎ取った静寂ゆえなのだが、快適なのに変わりはないのでその恩恵に預かろうと思う。
ちなみに、ジョジョガールズなお姉さま方は緒都に対して当たりは悪くない。むしろ私をお姉さんと思って!と懐柔する方向で一致しているらしく、飴などお菓子を頂くこともしょっちゅうだ。ラッキー。まあ、高一なうであるから余計なんだろう。高校内じゃすべからく彼女たちより年下であるから。
そういうわけで今日も今日とて、いや承太郎による体調悪い設定によりいつも以上に大漁なお菓子たち。有難く後で頂こうと考えながら、その日は結局保健室にお世話になった。眠かったんだ。仕方ない。昨日の続きを少し考える時間もほしかったのだ。
しかし優しい保険医のお姉さんに頂いたベッドに横になってしばらく、こうも必死になる必要はあるのだろうか?と自分の行動に対する疑問がわいてきた。昨日は没頭したゆえのうっかり夜更かしだが、そもそも万が一に備えて考え始めただけで、やっぱり実際にそのときが訪れるのかという点にも疑問が残る。そもそもそのときが訪れたからって、ただの女子高生である緒都に何ができるというのだろう。っていうかスタンドなんていう能力だって、本当にこの世界に存在するのかどうか。
緒都が空条緒都としてここで気がつく以前までを過ごしていた世界と、今いる世界とが別物であることは認めるとして、あの物語が本当にここで起こっていく出来事である確証なんてどこにもない。もしかしたら、緒都のような不思議体験でこの世界を知った誰かがここを舞台にお話を書いた全くのフィクションかもしれない。どういうわけか覗き見た空条家を主軸に、あとは適当な登場人物を作って足していっただけかもしれない。ということはDIOとかジョースターさんとかアヴドゥルさんとか完全なる架空の人物かもしれない。えっなにそれ、だとしたらあんなに一生懸命描いたストーリーの断片は緒都の完全なるフィクションになるではないか。私の考えた最強にかっこいいお兄ちゃんの奇妙な冒険、やだ恥ずかしい!
そういえば昨夜の紙はどうしただろう。たぶん恐らく、机の上にそのままだ。帰ったら即片付けよう。本の間にでも隠しておこう、そうしよう。
さて、ここまで考えるとやはりストーリー存在説にいまいち確証がない事実が浮き彫りになってきて、疑惑の念が大きくなる。希望的観測と言われればそれまでだが、なんにしてもあらゆる要素がまだ足りないのだ。
……うん、じゃあ、ひとまずはどうでもいいや。緒都は思考を放棄して、保健室のベッドと大人しく仲良くすることにした。
しかしそんな決断が早くも揺らがされる出来事は翌日の朝に起こった。
その日、日曜の朝は生憎の雨。とはいえ太陽の光は明るく、つまりは俗に言う狐の嫁入りというやつだ。なんだかその景色が気に入ったものだから、緒都は縁側でぼんやりと雨粒を見上げていた。そのときだ。
「……えっ」
一瞬、音が消えた。雨粒が地面を、屋根を叩きつける音。それを自覚した瞬間、視界の中で雨粒そのものがその動きを止めていることに気がついた。
「……えっ!?」
しかし声をあげた直後に、また何事もなかったかのように雨は垂直に落ち始める。緒都はいま見た景色を処理しきれず、ぽかんと口を開けたまましばらく外を眺めていた。
呆然として数分後。再びの無音の世界。停止した世界。錯覚ではなかった。緒都は思わず軒下から飛び出して、宙に浮かぶ雨粒を見上げて感動を露わにする。
だって、なんて綺麗なんだ。不可解な状況への戸惑いは一度目にあったものの、すでに不可解さの大山を超えてここにいる緒都の順応は早い。いや、正しくは驚きを勝る魅力があった、かもしれない。
見上げた空に浮かぶ無数の小さな丸い水。太陽の光をあちこちで反射して、その美しさに自然と目が輝く。
が、その感動も実時間にしたらほんの数秒。
「あっ」
次の瞬間には停止していた世界は再び動き出して、裸足で庭に飛び出していた緒都は雨に打たれてびしょ濡れになっていた。がっつり上を向いていたせいで目に水が入って慌てて俯く。油断した、油断した!幻想的な世界にアホ面を晒していたうっかりさんの末路である。
「……緒都、何してやがる?」
そしてこのタイミング。低い声が怪訝そうにこちらを呼ぶのにビクッとして、緒都は水の入った目を擦って縁側に立つ承太郎を見た。なんだかもう、彼に対しては醜態をさらす運命にある気がする。狙ってるんじゃないかというほどのこの遭遇率。
……それにしたって今回は、いつにも増して彼の目に不審に映ったに違いない。だって雨の中裸足で庭先に飛び出すって。子供じゃあるまいし。女子高生の行動にしてはちょっと心配だろう。まだ雨粒直撃ダメージの残る目ではいまいちその表情は確認できないが、きっと何コイツ怖いって感じのドン引き顔に違いない。
しかしそんな緒都の思い込みとは裏腹に、実際そこにあったのは妹の行動に敏感になっている兄の焦った顔であり、目に入った水に驚いて俯く緒都の姿は泣いているようにも見えたのだろう。さすがに庭先にそろえられた草履を履きはしたが、承太郎の足取りは素早く、緒都のそばに駆け寄ってずいっと顔が近づけられた。顔色確認及びその他異常の有無の観察である。
「……な、なに?」
「こっちの台詞だ。泣いてんのかと思ったぜ」
「泣いてないよ?」
「そもそも何してんだ。風邪ひきたいのか」
「……あ、雨がきれいだったもので、興奮してつい……」
「……」
「……」
「……戻るぞ」
「うっす」
きっ気まずううううい!
心の中で激しく叫びながら、手を引かれるがままに屋根の下へと避難。ひとまず縁側に座らされて、待ってろという言いつけに足をプラプラさせながら従う。
少しして戻ってきた承太郎はその手に水入りのペットボトルとタオルを持っていて、この泥で汚れた足をどうにかしようとしてくれていることはすぐにわかった。なんて面倒見のいい。完全にお兄ちゃんである。
ありがとうとお礼を言って持ってきてくれたものを受け取ろうと手を伸ばすが、承太郎はその手には応えず緒都の隣にどかりと腰を下ろした。おっおっ?とその行動に疑問を抱きながらも黙って見守ってみると、緒都の膝は承太郎の胡坐の上に乗せられて、どういうわけか彼自らペットボトルを傾けて妹の足先から泥を落とす作業に移りはじめた。
「自分でやるよ!?」
「下手くそがやると床が汚れる」
「ぬうん……」
貶されながらも扱いはお姫様なので、相手がイケメンなだけに照れくさい。仕方がない。ここで抵抗して暴れても兄の服を汚すだけなので、この状況は甘んじて受け入れよう。足を持ち上げられた不安定な体勢に耐えることも早々に諦めて、緒都はごろんと縁側に仰向けに転がる。
「おい、床が濡れる」
「あとで拭くー」
完全に怠け者のスタイルだ。だらんと全身の力を抜いて、天井をぼんやりと眺める。
それにしても、先ほどのあの景色は圧巻だった。なんて綺麗な不思議体験だったのだろう。思い返すとご機嫌に足が揺れそうになるが、泥を落としてもらっている身なのでそこはなんとか自制する。右足は終えて、今は左足の泥が落とされている最中だ。流れる水は少しばかりくすぐったいが、これが案外心地よい。
承太郎はあの景色を見ただろうか。いや、完全に音も消えていた世界だから、たぶんあれは世界が、時間が止まって……あれ?それってもしかして。
緒都はふと思い至った考えに目を見開いた。世界が止まった、つまり時が止まった。それはつまり、ラスボスのあれではなかろうか。
……いや、そんなまさか。
「じょーたろー」
「あ?」
「日本とエジプトの時差ってどれくらいかな?」
「何だ急に」
「ねえねえ、どれくらい?」
「……6、7時間ってとこじゃねえのか」
「ってことは、えっと……向こうは今は真夜中なのか」
くるくると宙に時計の針を描いて、なるほど、と一人納得する。夜か、まさに元気な活動時間帯か。となると、あれがラスボスのあれである可能性は多少なりとも高まる……というか、そう考えるとちょっと前に考察したスタンドなんてないんじゃない説があっさり覆されることになるわけだが。
いや、しかし、仮にスタンドはありました説を認めるとして、何故緒都は止まった時間を認識、しかも何事もなく活動できたのだろう。っていうか時止めって制限範囲とかないのか。ああ、でもあったら世界中に原因不明の時差が生じちゃうわけだから、その辺は無いということでいいのか。だとしても何故緒都はその適応外なのだろう。むんむんと考えて、もちろん自覚済みの貧相な頭脳では答えを導き出せない。唯一浮かんだ「私光速を越えて動けるから!」パターンはまずないはずなので。
そうこうしているうちに足の泥落とし作業は終了。承太郎は持ってきたタオルで濡れた足を拭いて「終わりだ」と緒都を見る。胡坐の上の膝は下ろされて、「風呂入ってこい」と次の指示をする緑の瞳は、彼が立ち上がったことで高く天井の方へと遠ざかった。
その目を眺めて、少し落ち込む。
「……」
「どうした」
「……うん」
何事も無ければ平和でいいな、なんて考えはやはり楽観的過ぎたかもしれない。いつか困難に巻き込まれるかもしれない優しい兄を、自分の都合のいい可能性を信じて完全放置というのはなかなかに冷たい考え方だった。心の内で、そっと反省。
「緒都?」
と、真面目なことを考えていたせいで恐らく承太郎を見上げるこの顔は真顔になっていたのだろう。すっと細められた目が遠く見えないものを見ようとするかのように眉を寄せるので、緒都は真剣なその顔のまま、両手を天井の方へ伸ばして言う。
「起こしてー」
なんというか、もう完全に他人に対する態度ではない。己の順応性に心の中で拍手を送ってから、片腕で人一人を簡単に引きあげてしまう195pの腕力にさらなる拍手喝采をプレゼントしたのであった。

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