▼気付けばそこにおりまして


終業のチャイムが鳴った。途端にがやがやとし始めたのはこの教室だけではないようで、教室前の廊下にもちらほらと人影が見え始める。退室する教師と、早々に鞄をまとめて出ていく生徒。校庭側の空は夕日に染まっていて、緒都はノートを広げ鉛筆を握りしめたまま、動き出す教室の中で一人呆然と瞬きを繰り返していた。
え、なにこれ。頭に浮かんだのはとにかくそれだけである。
正面を見れば国語のような板書。周囲を見ればセーラー服と学ランの見知らぬ生徒たち。
え、なにこれ。再び同じことを思うのは当然だ。それ以外に思えることなどないのだから。
だって、状況が不可解すぎる。ここは学校で、緒都は確かにそこにいるべき学生という立場ではあるが、こんな見慣れないセーラー服は通学の電車内でも見たことはない。ましてや緒都自身が普段身に着けていた制服はブレザー。膝下までのプリーツスカートなんて中学以来だ。というか、よくよく見てみたら男子生徒にちらほらリーゼントのような頭が見える。あんなもの漫画の中でしか見たことのない、絶滅危惧種だとばかり思っていたのだけれど。
いや、そんなことよりも。いや、そうであるからこそか?何にしても緒都はひたすらに戸惑っていた。自分がなぜこんなところに居るのかがわからない。なんだか少しばかり古めかしくも見えるここがどこなのか。
「空条?どしたの?」
「ひっ」
混乱。とにかくその一言に限る状況に陥っていたものだから、突然こちらの顔を覗き込むように現れた誰かに大げさな声が出る。反射で持っていた鉛筆をぽろりと落とした。っていうか鉛筆って。鉛筆って。
「おーい?空条、寝てた?」
「……へ」
「寝ぼけてる?」
ひらひら目の前で振られる手の持ち主は名前も知らない女子生徒。緒都はやはり何の反応も帰せないまま、恐らくは緊張から来る瞬きを繰り返すのみである。
「起きなよー、空条。もう放課後だぞ?おうち帰ってお布団で寝なさいって」
「なあに、空条寝てるの?」
「寝ぼけてるみたい。反応めちゃくちゃ鈍いわー、この子」
二人目の見知らぬ女子生徒登場である。ややこしいので最初の子を女子生徒A、次の子を女子生徒Bとしておこう。相変わらず名前はわからない。会話にすら出てこないので察する機会もない。
それよりも、先ほどからくうじょうくうじょうと呼んでいるが、もしかしなくともそれはこちらのことを指して言っているのだろうか。余計に状況がわからない。おそらく苗字として口にしているのであろう「くうじょう」なんて名前は身に覚えが無いし、そもそも緒都には列記とした××という姓が――あるはず、なのだが、ここに来て記憶の引き出しから××の中身がさっぱり出てこないことに気づいてしまった。混乱レベルが一気に上がる。もはや「あ」とも「う」とも言葉がでてこない。
そんな緒都の頭の中身など当然覗き見れるはずもない女子生徒たちは、呆れたように肩をすくめてやれやれと言ったように首を振る。やれやれはこっちの台詞だ。状況を説明してくれやしませんか。
しかし混乱MAXに等しい緒都が完全に硬直して動けずにいるせいで特に異常性も感じないのだろう。やがて諦めたように「ちゃんと起きたらお家帰んなさいよ」「何ならお兄ちゃんに送ってもらいなさいよ」とABそろって頭をくしゃくしゃ撫でてから、非情にも自分たちは鞄を持ってさっさと教室を出て行ってしまう。
そんな殺生な。もう少し心配して。ちなみに、特記するまでもなくどれも実際に言葉にはなっていない。
やはりぴたりと硬直したままでいた緒都がようやく動き出せるようになったころには、教室にはもう誰一人他の生徒の姿はなかった。なんてこった、帰らなければ。薄暗い外に時間の経過を感じて途端に焦燥感を感じ、緒都は慌ただしく教室を出る。しかしここは知らぬ校舎。知らぬ構造。当然現在地もわからなければ、玄関もわからない。ふらふらしながらとりあえず一階をぐるぐるしてみればようやく玄関に辿りつけはしたが、今度は自分の下駄箱の位置がわからない。
あ、なんかこういう意味わからん状況夢で見たことある。踵の踏みつぶされた内履きがちらほら見える下駄箱を前にそう察した。そうか、夢か。残念ながら緒都は夢の中で夢と自覚できるセキメイムだかなんだかよく覚えていないそれを経験したことなどないので、あっさりそこに考えがいきつく時点でハズレなのであるが、絶賛混乱中の頭ではまともなことなど思いつきもしないのである。夢か、夢なら仕方ない、とふらふらしながら緒都は内履きのまま玄関を抜け、校門を抜け、なんだかよく分からない住宅地を歩いたところで、帰るも何もどこへ歩けばいいのかすらわからないのだということを思い出した。救いようもない抜けっぷりである。
どうしようもないので、不幸中の幸いか、目に見える範囲にあった公園にお邪魔することにした。人気のない公園のベンチを一人で占領してまずは溜息。あ、セキメイムじゃなくてメイセキムだったっけ。どうでもいいことを思い出して一息ついてから、下ろした視線は膝の上の学生鞄に向いた。
そういえばこれ、勝手に持ってきてしまったけれど「くうじょう」の鞄だろうか。そう思って蓋をあければ確かに小さく『空条』と書かれた文字はあるし……あっ「くうじょう」って『空条』って書くのか。書いたのその文字はどことなく緒都の筆跡に似ている気もするが、書いた覚えはやはりない。教科書と筆記用具とハンカチと、あと色々と入っているものはあっても携帯らしきものは残念ながら入っていなかった。空条、君って真面目なのね。
緒都は結局何の解決にもなっていない状況に再び深いため息をつき、ベンチの背もたれに体重を預けて空を見上げた。そもそも、空条=緒都説なのか、空条=誰か説なのか、なんだか自分自身の思考回路も混乱のあまりブレブレである。女子生徒ABにとってみれば緒都は空条であるらしいのだが、緒都自身にはその自覚がない、それは確かだ。かといって自分が一番しっくりくる××緒都という名前も浮かばないのでは主張の仕様も無い。そもそも緒都という名前の方は確かなのだろうか。今のところここで言葉を交わした二名が空条呼びなものだから、緒都の方に確証が得られない。そこから疑わなくてはならない事態にはさすがにうんざりだ。お星さまはいいですね、余計なこと考えなくてもいいもんね。嫌味になっていない嫌味を、聞く対象もいないのに吐き出してみるけれど、そんなのは何の解決にもならないし、っていうかいつの間にかお空はキラキラお星様であるし。
混乱状態ってこわい。時間の概念がぐらっぐらである。傍から見たらとにかく放心状態でぼんやりしているのだろうけれど、緒都にとっての体感時間で言えばまだほんの数十分というところだ。
あーどうしよう。どうしようかな。まあ夢ならそのうち覚めるんだろうけど、しかし夢と思っても状況に混乱して呆然としていると言うのは、案外意識の端でこれが夢ではないと感じているからなのかもしれない。
うーん、だめだ。だめだだめだ。時間が経てば経つほどしんどくなる。空を見上げていた背がだんだんと丸まっていくのは暗い気持ちの表れだろう。俯き、公園内の小さな街灯のおかげでうっすらと見える内履きの『空条』の文字が余計に心細さをかき立てた。迷子の迷子の子猫ならぬいい年した女子高生は、名前を聞いてもお家を聞いてもわからない状態です。助けて犬のおまわりさん。
「おい、緒都!」
正直あと数秒でぽっきりばっきり心が折れるという瀬戸際で、耳に届いたのはここで唯一確かな『自分』の名前だった。あ、緒都ですか。緒都って私のことですか。よかった、うわあよかった。私を私たらしめる唯一のものです、と崖っぷちのギリギリで腕を引かれたような気分で、弾かれたように顔を上げる。
『空条』の文字から視界が流れたことで、案外今見つめていた手書きの文字が滲みブレて映っていたことに気付いた。どうやら心細過ぎて涙目だったらしい。ここで目をこすってはあからさまなので、ちょっとばかりぼやけたままの視界でも、何でもないふりをしてこちらへ駆けて来る誰かを見上げる。
「……くまのおまわりさん」
たぶん、「え」とか「へ」とか以外にここではじめて声にした言葉だった。真っ黒の、なんだかとってもでかい人。「てめぇ……!」とあがったガラの悪い声に緒都はビクッと身を縮めるけれど、どうやら妙な呼び名に怒ったわけではないようで、現時点での仮名としてのくまのおまわりさんは、僅かに汗をにじませながら無駄にいい声で「この馬鹿野郎が!」と、クマ発言には一切触れずに一気に距離を詰めてきた。非常にこわい。おまわりさんこわい、こわい。
「こんな時間まで何してやがる!」
ビビりすぎて声が出ません。ヒッ、と引きつる呼吸ぐらいはかろうじて聞こえたかもしれないが。
だからなのか、怒鳴ってしまったことで少し冷静にでもなれたのか、水分たっぷり潤い抜群状態の瞳ではその表情がよく見えないのだが、彼が言いたい言葉を飲み込むような気配だけはなんとなくわかった。くまのおまわりさんの大きな手が掴んだ肩に痛みを感じないことからも、緒都自身少し落ち着いて逃げ腰だけはどうにか堪えてみる。
そうこうしている間におまわりさんの怒りボルテージは心配ボルテージに切り替わったようで、それでもにじみ出る怒りを抑えたような低い声は緒都へと静かに向けられた。
「おい、内履きのままでこんな所まで……緒都、何があった。家も学校も騒ぎになってやがるぜ」
「……、」
「黙ってねえで何か言え。……いや、今はいい。とにかく帰るぞ。話はそれからだ。……立てるか」
「……か、かえ……」
「あ?」
「……かえ、るの、どこに……」
うわなんだこのカタコト。からからに乾いた喉でなんとか紡いだ言葉の力無さに自分で引く。
しかしそんなことよりも、たぶんくまさんは目を見開いて、今の発言に衝撃を受けているようで。
いや、だってどこに帰ればいいのかなんてわからないんだ。どこに連れて行かれるのかが不安なんだ。そんなに大げさなリアクションをされても、だって仕方がないわけで。
「……てめぇ、何言ってやがる……」
だからそんな、絶望だか憤慨だかわからない声で低く言われたって。絶望したいのはこっちだし、理解できない状況に癇癪を起して喚き散らしたいのだってこっちだし。
そう心のうちで文句を連ねるうちに、せっかく無視できていた視界のぼやけがどんどん酷くなっていく。目元が熱くなる気配に、あっこれあかんやつ、と呑気な感想でもって平常を努めたものの、残念ながらじわじわにじみ出てしまったものはついに限界に達してぽろりと零れる。「緒都」と呼ぶ声が戸惑いに満ちていたことはわかったけれど、一度泣き始めてしまったらさっぱりブレーキが利かなくなって、ひくひくしゃくりあげるまでの見苦しさに俯くしかない。せめて掴まれていない方の手で涙をぬぐおうとするけれど、どうにも間にあう気配はなかった。涙の圧倒的勝利である。
仮にも乙女の端くれである緒都としては泣き顔なんぞ人様に晒したくはなかったのだが、存外強引で粗暴なくまのおまわりさんはそれを許さず、大股一歩で距離を詰め、片手でがっしり顎を掴み顔をあげさせ、目をこすろうとする手は無情にも下へよけられた。大きな親指が目じりの涙を拭ったお陰で幾分かクリアになった視界は、先ほどよりもうんと近い、外人並みのパーソナルスペースで顔を寄せられ、おまわりさんの綺麗な緑の瞳をハッキリと視覚情報として脳に届けることに成功した。うわ、緑って外人か。ならこのパーソナルスペースも納得です。いや、っていうか君君、その顔は。
「てめぇ、何があった!」
「……くーじょー……じょーたろー……?」
会話が全くかみ合っていないことはひとまず置いておくとして。怒りに満ち満ちてもなお保たれた美しい造形は、まさかの記憶にある、しかし決してこんな形で目にすることはないはずの人間であった。
空条。えっ空条ってその空条。自覚した時点で完全にキャパシティオーバーとなった緒都の頭は考えることを放棄した。というより、考えることを放棄せざるをえなかった。難解極まる状況に情報処理が追い付かず、完全なるフリーズ、エラー、問題の解決のための強制シャットダウン。くらりとめまいがしたかと思ったら、もうその後は何も覚えていない。





目が覚めて見た天井は木造のやわらかな色。記憶にある白い壁紙とは違う日本家屋の気配は、鼻を掠める畳の匂いに助長されて日本人精神に訴えかける懐かしさを生む。
緒都は暖かな布団の魔力にまどろみ二度寝の誘いに屈しかけはするが、寝ぼけながらにこの場所に対する疑問を捨てはしなかった。ううんどこだろここむにゃむにゃ、という程度であるが、自分のおかれた状況を理解しようとする頭だけは働いていた。ので、上を見て、下を見て、右を見て。
「………………うわ!?」
左にぴったりとくっついたもう一枚の布団と、そこに眠る金髪外国人さんに盛大に驚いた。反射的に引いてしまった身が気づかず繋いでいた手を巻き添えに、おやすみ中のご婦人を起こしてしまったことにさらに焦る。あれ、うわこの人知ってるってか手繋いでるのは何故ってかそういえばこの意味のわからない状況続いてたんだ!?
「うーん……緒都ちゃん、起きたの?…………はっ!緒都ちゃん!?緒都ちゃん、目が覚めたのねー!」
「むぐっ」
「もおおおママ心配したんだから!……承太郎!承太郎ー!緒都ちゃんが起きたわー!」
「あ、あのっ、く、くるし……」
寝起きでこの勢い、誠に恐れ入る。さすがホリィさん……と、一晩寝たことでいくらか落ち着いた頭で導きだした名を思い浮かべ、少し落ち込む。目が覚めたらなんの問題もない生き慣れた現実がよかった。
「……アマ、離してやれ。窒息するぜ」
そしてどうやら彼もいたらしい。ぎゅうぎゅうに抱き締めてくる肩越しに、こちらを見るくまさん、もとい承太郎の姿を見つけて激しく緊張する。しかし向こうは向こうで呆れながらもなんだかホッとしているような顔にも見えるので、よくわからないながらもお二方に心配をかけていたことは理解した。「きゃー!緒都ちゃんごめんね、生きてるわよね!?」と元気なご婦人も、状況から見るに添い寝をしてくれたのだろう。承太郎に至っては壁に背を預けて座り込み、やはりこの部屋に待機してくれていたのだと、思うから。
「緒都」
「は、はい」
「起きたんなら、話さなきゃならねえことがあるのはわかるよな」
「……えっと……」
眼力すごい。圧迫感に揉まれながら、緒都は承太郎の問いをなんとなく理解する。しかし、それに答えられるほど緒都は状況を理解できていないし、むしろ問いたいことはこちらにたくさんあるはずなのに、何から話し、何から答えればいいのかわからず視線だけが不安に泳いだ。そうして、答えを待つ人と答えられない人とで室内には沈黙が生まれる。非常に気まずい。
どうにか何かを言葉にしたい。が、言葉が小さな出口を前に洪水を起こして出てこられない。そんな状況は戸惑いと不安として顔にも現れていたようで、先程殺す勢いでぎゅうぎゅうと緒都を抱き締めていた暖かい手が、ふいに大丈夫というように手を握ってきた。はっとして顔をあげて、こちらを見る優しい緑の瞳と目が合う。
次いで、さらに少し奥にあるもうひとつの緑の瞳が深くため息をついた。それから壁際にあった大きな体がゆっくり近づいてきて、どかりと近くに腰を下ろす。
「まず、昨日はどうして帰ってこなかった」
「……、……」
どう答えたものか。それを悩んで、また口ごもる。わざわざ質問を一つずつ具体的に噛み砕いてくれていることがわかるから、しっかり答えなくてはと思うのだけど。
「いいのよ、緒都ちゃん。落ち着いて、まとまらなくてもいいから言ってみて」
「……あ……あの……」
「ええ、なあに?」
「…………ど、……どこに帰ればいいのか、わからなくて……」
つまり、帰るべき家そのものも、そのどこかへの道のりも。素直に、思った通りを言ったわけだが、「え?」と不可解そうにホリィが聞き返すのも当然だろう。ただ、承太郎は難しそうな顔で黙って、追求よりも次の質問をした。
「内履きのままだったのは?」
「……下駄箱の場所がわからなくて……」
素直に、素直に。率直に、はっきり口にできることは伝えて状況理解に努める。
承太郎の顔がさらに険しくなった。そうだよね、意味わからないよね。心の内で同情しながらも、聡い彼なら何か緒都にも納得のいく状況解析ができるのではないかと期待してもいる。
承太郎くんや、君はどう思う。気付いたら見慣れぬ教室で授業を受けていて、周囲は私のことを空条と呼ぶのだけれど。そして私は私で本来持っていたはずの苗字がさっぱり思い出せないんだけど。
「……ど、どうしたの、緒都ちゃん?」
「おい、少し黙ってろ」
オロオロしはじめたホリィと、彼女の戸惑いを一蹴する承太郎。ううん、息子ながらにすでに家長っぽい感じがにじみ出ていますね。貫禄ってやつのせいだろうか。とっても難しそうな顔をして、眉間に深くしわが寄っているから余計だ。そうさせているのは緒都のこの不可解な状況なのだが。
いや、そもそも、彼がここまで緒都のことについて心を砕くのは何故だろうか。というか、そもそも知り合いか。知り合いなのか。そりゃあ緒都緒都と名前を呼ぶ様子からすれば間違いなく承太郎たちの方は緒都を良く知っているのだろうと予測はできるけれど。
「……俺の名前は?」
そう、問題はそこである。緒都の方が彼らをどう認識しているのが正しいのか。それがわからないので、やましい部分をつかれたようでドキッとする。さてこの問いはどうしたものか。緒都はうんうん唸りたいところをぐっと耐えて、こちらを見る緑の瞳に怯みながら口を引き結ぶ。
ここで改めて、この不可解な状況を思考してみる。何だかよく分からないが、ここは夢かと思う方が楽なほどに、緒都にとってはあり得ない世界だ。だからこそ、目の前に居る彼の名前は知っている。しかしそれは架空の人物として、物語の中の彼であって、知識としてのそれであって。
だからこそ、緒都はここに存在するはずではないのだ。そして、そうであるから、彼らだって緒都のことなんて知らないはずなのだ。
しかし、先ほどから彼らはあたかも緒都は最初からここに居たかのように接する。教室に居た女子生徒たちだってそう。それが当然、自分たちは知り合いなのだという顔で緒都の名を呼んで。
さて、この意味のわからない状況下で、緒都の身の振り方はどうあるべきか。これも一つの大きな問題である。仮に、仮にこの世界に緒都が最初から存在していたとして、今ここにいる緒都にはそれまで積み重ねてきた記憶というものが一切存在しない。知識として彼らを知っているからと言って、彼らに合わせて知らぬものを知ったふうに振る舞うだなんて無理がある。
ではどうするべきか。考えるまでも無く、素直であることが一番簡単だ。わからないことは、わからない、で。ベタに記憶喪失なんていう手も有りといえば有りなのだが、でもなんか公園ですでに名前呼んじゃったような気がする。意識を失う直前のことなので、曖昧と言えば曖昧だが。
……あ、だめだ。なんかもうわけがわからない。ものすごく頭が疲れてきた。
もともとあれこれ考えて立ち回ると言うのは得意ではないのだ。緒都はどうすべき、という思考を一旦放棄して、なるようになれ、と素直に彼の名を呼ぶことにした。
「く、……空条承太郎」
結果、「テメェ何故俺の名を知っている!」なんてことにはならなかったので、予測できていたこととはいえ、実際にその現実を迎えて心の底でほっと息をつく。
「この女は?」
「……ホリィさん」
ので、続けて緒都の手を握るご婦人の方にも素直に応えてみる。しかしどういうわけか今度はお二方の反応がよろしくない。まさか名前を間違っただろうか。実はそこまでこの世界に詳しくない事実がここで不味い形で露呈してしまっているのだろうか。
いや、しかしここで間違いましたか?なんていうのも失礼な話だ。やはり相手の反応を待つしかない。空条親子よ、どちらからでもいいので何かしらのリアクションを――ああ、そうだ、そうだ、空条の謎。これもあったんだ。確かに持っていたと確信はしているのに、思い出せない本来の姓。その代わりとでもいうように、緒都に宛がわれている、のかもしれない空条という姓。
……まさかとは思うけれど、彼らにとってこの身は空条緒都なのだろうか。そんなまさか。だってこの顔でジョースターの一族とか無理がありすぎる。あれ、でもこの不可解な状況になってから一度も鏡および窓およびとにかく反射する何かを見ていない。……まさかまさか、この顔ってどうなってるんだろう。いや、もちろん首筋に星形のアザなんてないよね?ああ、でも何だか冷静になってみれば、そもそも承太郎が迎えに来ることだとか、「帰ってこなかった」なんて言い回しだとか、まるで緒都がここに住んでいるみたいに。
うわあ考えたら気分悪くなってきた。
「……あの、すみません、少しお手洗いをお借りしてもいいですか?」
生まれた不安を払拭させるためにも、思い立ったら即行動。お手洗いの場所はよくわからないので、軽く説明を頂きたいところ。ちょっと首筋を鏡で確認してくるだけだから。ついでに頭の中を整理する時間を稼いでくるだけだから。
しかし立ち上がりたい緒都を留めるように、承太郎の手が「オイ待て」と肩におかれてさっぱり動けない。……あれ、なんだかお二方ともさっきより深刻そうな顔してる?
「……おい……俺とてめえの関係は?」
「……か、関係?…………わ……わからない」
「このババアとてめえの関係は?」
「……わからない、です。……あ、い、居候、とか……?」
ハッ、もしや空条のことを考えると親戚だったりするのか!
ぱっと頭に浮かんだ可能性だが、あれこれ適当に正答候補を並べると言うのは見苦しい。わからないと答えてしまった以上もうどうせ知ったかぶりもできやしないし、開き直って向こうからの答え合わせを待つべきだろう。
何事も素直が一番、きっとさきほどの対応こそがベストの道であったはず。己の行動を正当化する勢いで肯定し、なんだか突然絶望したようにも見える表情のお二人にビビりながらも、肩を掴む承太郎の握力に屈しまいと身を固くした。
そう、だって嘘は言っていないもん、私悪くない。そんな屁理屈じみたことを考えるのは、いつだったか、父かその辺りの誰かに教わった信条ゆえだ。嘘は極力つかないこと。そうして都合が悪い時は事実から不必要な情報を伏せて言い回しを変えてしまえば、後でいろいろ都合がいいのだそうだ。
というわけで、良いのか悪いのかわからない心構えで本人としては真摯に対応したつもりの緒都である。が、それが良かったのか悪かったのかはやはり不明なまま、しばし流れた沈黙ののち、最初に口を開いたのは絶望顔のホリィだった。
「びょ……」
「……びょ?」
「……病院よ!承太郎、救急車ー!どうしましょう、どうしましょう、貞夫さんにも急いで連絡しなくちゃ……!あああ、緒都ちゃん、いったい何があったの?頭をぶつけたの?どこか痛い!?たんこぶでも出来ちゃったかしら!?」
「な、なに!?なんですか!?」
「いやあああそんなに他人行儀にしないでー!あなたは家の子よ!ママ、って昨日まで呼んでくれていたじゃない!お兄ちゃんのことも忘れちゃったの!?」
「おにい……えっ、誰が!?」
「承太郎はあなたのお兄ちゃんよ!」
「えっ!?」
衝撃に一瞬あたまがくらりとする。危ない、またしても暗転オチをかますところだった。
なんとか持ち直して真相を確かめるように承太郎を見るが、あちらもあちらで緒都をガン見してくるので逆に気まずい思いに陥るだけだった。が、一応ホリィほどの取り乱し方はしていないことが幸いして、「落ちつけ」と今にも救急車を呼びに立ち上がろうとするホリィを冷静に宥めてくれる。
「意識がないわけじゃねえ。俺が連れていく。……それより緒都、もう一度聞くが、俺たちの名前はわかっているんだな?」
「は、はい」
「自分のことは?俺の妹でもこいつの娘でもねえってんなら、てめえはどこの家のモンだってんだ?」
「……どこ……」
「自分は、空条緒都以外の何だと思う?」
「……空条以外の……」
オロオロと承太郎と緒都を交互に見つめるホリィを横に、緒都はじっと考える。それは、つまり思い浮かばない××という本来の姓の話、なのだが、思い浮かばないものだけあって、問われても答えることはできない。
沈黙する緒都の状況を承太郎は記憶の混乱と受け取ったようで、それ以上は何も追求せず、ひとまず落ち着かせるように頭をわしわしと撫でた後、「病院に連れていく」と立ち上がって緒都の手を引いた。

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