▼置いて行かないための


数日ぶりであるはずの妹の声に、もう何週間も聞いていなかったような錯覚を覚える。『久しぶり』と「元気か」のやり取りを終えた受話器の向こう側では、途切れた会話の間に何かを言いかけてはやめる気配があった。妹との別れ際を思い返せば、それが例の手帳のことだと言うことはすぐにわかる。承太郎自身もまたこの通話の本題をそこに置いている。だからこそ「手帳のことだがな」と話を切り出したわけだが、沈黙を破った切り込みにあからさまに息をのんだ妹は、やはりここに記載した情報に、そしてそれらに対する承太郎の反応に不安を抱いているらしかった。
だから、承太郎が伝えるべきはこれが役に立ったということ、今後も役立て、決して無駄にはしないということ。それから、これについて緒都を奇妙とは思わないということ。むしろ、自分自身が置かれているこの状況こそが奇妙そのものであるのだと、包み隠さず血の因縁を、母の状態の理由を、スタンドという能力のことを、遠い地に居る吸血鬼のことを話した。
ほとんど承太郎からの一方的な話が終わると、電話の向こうで緒都はしばし無言だった。数秒後、なんとか喉につまっていたものを嚥下できたのか、小さく『そっか』と呟く声がする。しかしそこからまたしばしの沈黙。承太郎は、ただじっと待っていた。
『……あのね』
ようやく聞こえてきたのは絞り出すような声だ。それでも緒都は自ら切り出した。
『……先のこと、だと思うこと、見た』
「ああ」
『でも、一回だけ。どうしてこうなったのかは、やっぱりわからなくて』
「ああ」
『私、見たのに、一度に全部を見たから、その全部をちゃんと覚えてこられなくて。ママのことも、わからなかった』
「そうか」
『……ごめんね、承太郎……』
「どこにもお前が悪い要素なんてない」
か細い声に違うと断言した。謝ることなどなにもない。力不足を嘆くなら、それは妹の状況に対して何もしてやれない承太郎の方だ。緒都のもたらした情報には十分すぎる価値がある。図書館で必死にこれを作りあげたのだというのなら、毎日の繰り返しを見てきた承太郎はその努力をよく知っている。ここまでして非難されるいわれなど緒都には決してないはずなのだ。
そして承太郎には緒都の抱える何を聞いても決して失望することはないという確信があった。腹が立つのなら気づかなかった自分自身に、だ。原因がわからないからと話題に触れることさえ避けた承太郎のせいで緒都が重たいものを一人抱えることになったというのなら、謝るべきはやはり承太郎の方でなければならない。
「もう、他にはないか」
『……』
「お前の不安に思ってること。言うのも怖いこと。……他にはないのか」
だから、聞いて楽にしてやれるのならあの日のことも聞いてやりたい。承太郎の中にあるのは変わらぬ『妹を守る』というただ一つの信条であり、そのために妹を傷つけないこと、傷つけないために取るべき行動を未だ手探り状態で探しているというだけの話だ。
だからだろうか。どうしても妹からの自発的行動を促してしまうのは。言いたいのか、言いたくないのか。言うことで傷つくかもしれない何かを見誤らぬよう、こうして遠まわしに問いかけている。沈黙を聞きながら瞼の裏に思い浮かべるのはあの数字の羅列。その最初に記された日付だ。
承太郎は再び待った。長い沈黙を『あのね』の声が終わらせるまで、じっと目を閉じて耳を澄ましていた。そしてようやくのその声を「ああ」と短く受け止めて、これでよかったのだと安堵する。
『変なことがあった。何度も。……最初は雨の日。狐の嫁入り、きれいだなって思ってたら、突然止まって』
「……庭に突っ立ってた日だな」
『うん。びっくりして……でも最初はよくわかってなかった。本当に、ただ雨粒が浮いて光って、きれいで』
「……」
『そうやって止まることは何回かあったけど……一回だけ、ママといたときにも起こった』
「……」
『人が止まったのははじめてみたから。しゃべってる言葉が何度も途切れて、怖くて、それで、部屋に逃げて』
「……そういうことか」
日付と時間帯と数字の羅列。そこにある意味がようやくわかった。
驚愕はもちろんあった。だが、先立ったのが納得だった。受話器の向こうで緒都が『言えなかった』と呟く。そりゃあそうだ。承太郎でさえ、スタンドが発現した当初は誰にも打ち明けずにいた。留置場で迷いなくその存在を見せたのは、そうしてでも遠ざける必要があると判断したからだ。
だが打ち明けることができずにいた緒都は一人で不安の処理をしなければならなかった。この日付と時間が緒都が体験した止まった時間であったのなら、ここにある数字はそれに関する情報だろう。案の定、緒都はたどたどしくもその説明をしてくれた。おかげでDIOがじわじわと止められる時間を伸ばしていることも、それでもあくまで数秒という停止世界であるということは理解できた。数秒あればできることを考えれば、恐ろしい脅威であることに違いはないのだが。
だがそれを知らずに立ち向かうのと知って立ち向かうのとでは、直面する状況は百八十度変わってくる。承太郎は「無駄にはしない」と電話口で約束をした。妹が己の身に起こった何かを意義のあるものだったと受け入れられるように、何も失わずして戻ることをこの時何より強く決意した。





旅は順調だった。一人ずつ確実に撃破していくことで、時間はかかってもこちら側の犠牲なく相手の戦力を削ぐことができる。『節制』は外見の擬態こそ完璧だというのに中身が酷すぎた。置いていかれたと気づいた時点で花京院が行動したこともあり、本人を再起不能にするという方針で、合流したアヴドゥルが周辺の酸素を焼き尽くし、相手の窒息という形での決着である。
続く『吊られた男』と『皇帝』だが、ここで手帳に予定されていたのはアヴドゥルの離脱。『ポルナレフを庇って離脱』という情報だけで具体的にどの程度の離脱理由が生じるのかはわからなかったが、アヴドゥルの死亡がエジプトとなっていることから、再起不能の大怪我を負うわけではないと推測することは難しくない。後に出てくる『女教皇』との争いが潜水艇であることからも、恐らくこの離脱中にアヴドゥルが手配に行くのだろうとジョセフが見当を付けた。ちなみにここではポルナレフが暴走する予定だったようだが、攻略会議の済んだ後と言うことで戦略的な対処が叶っている。おかげでポルナレフが冷静さを欠いてアヴドゥルに庇われるという事態もなく、アヴドゥルも相手の能力を理解したうえで警戒を怠らず、それでも危うくアヴドゥルの眉間を貫きかけた弾丸はマジシャンズレッドで瞬時に溶かして重傷を負うことは避けられた。その現場を見ていた誰もが『ここだ』と離脱の原因を確信したのだが、アヴドゥルはあらかじめ決めていた通り、そうなった場合はその場で死んだふり、を決行。決着がついた後に生きたまま寝台に横になるアヴドゥルを囲んで「惜しい仲間を失くした」と言い合うのはなかなかに滑稽な風景だった。何はともあれポルナレフはここで妹の仇である『吊られた男』のJ・ガイルとの因縁に蹴りを付けることができたわけである。『皇帝』のホル・ホースは上手いこと逃げおおせてしまったのだが。
次に対峙したのは『女帝』のスタンドで、これについては事前に『ジョセフ、できものが生きてる』としか情報が無かったのだが、案外この短い言葉でもその状況になれば気付けるもので、突然祖父の腕に出来た腫物が人の顔のようだとなれば承太郎もハッとする。病院に行くと言うジョセフに承太郎と花京院で付き添い、ポルナレフはひとつ前の戦いでホル・ホースを庇って飛び出した女性を連れて街をふらつくことになった。案の定スタンドであった腫物は承太郎と花京院ですぐに処分したが、どうやらその本体はポルナレフと共にいた女性だったようで、あちらは酷い有様だったらしい。
続く『運命の車輪』の決着は早かった。家出少女とまたしても道を同じくするのを目印とし、道中挑発的な行動をとってきた赤い車を、その時点でスタープラチナで車ごと中身を壁に殴り付けて戦闘終了だ。
『正義』はそもそもが全体的に怪しかった。街もそうであるし、街で見つけた変死体もそうだ。そんな街の中で都合よく現れる老婆はボロを出しては必死に繕う様があからさまで、承太郎の中にはもうすでに老婆が敵であるという認識はほぼ確定的であった。手帳には『正義』に関しての情報は殆どなかったが、未分類の名前のリストに『エンヤ・ガイル』とあることから先に倒したJ・ガイルの仇討が起こる可能性は十分に警戒済み。目の前に現れた怪しい誰かがあからさまに左手を隠していれば、疑いはより深くなる。おかげでトイレに行くと一人でロビーへ下りていくポルナレフに念のために付き添えば、やはりずさんな計画はあちこち穴だらけ。どういうわけかそこに居たホル・ホースを承太郎が見つけてすぐ戦闘態勢に入り、老婆の正体がエンヤ・ガイルだということもすぐに発覚した。途中で目を覚ましたホル・ホースの忠告により敵のスタンド能力は明らかになったので、ほどなくして決着。意識のないエンヤ・ガイルの頭の中を念写で読み取るべく、一行は危険人物を一人抱えて次の街へと発つことになる。ちなみにここでもホル・ホースは逃げおおせた。全くもって逃げ足の速い男である。
しかし次の街へ行くまでの間、敵が傍にいる環境で誰も詳しくを言葉にすることはなかったが、抱く警戒は大きかった。承太郎が花京院に目配せをすれば、もう準備はできていると視線だけで返される。あらかじめ予防線を張れるというのは本当に心強いと改めて思ったものだ。当然これは意識のないエンヤ・ガイルへの警戒ではなく、次に来る可能性のある『恋人』のスタンドへの警戒だった。手帳を見る限りこれはなかなかに厄介で、先手を打たれては圧倒的にこちらが不利になることは明らか。だが『エンヤ婆を連れている時、ケバブの人』と状況の絞り込みが可能なのは救いで、エンヤ・ガイルを同行させると決めた時点で承太郎は自身の目に重ねたスタープラチナを通して何気ない素振りで周囲に気を配り、花京院は『恋人』のスタンド捕獲のために縮小したハイエロファントで全員の耳にこっそりと網を張っていた。おかげで敵スタンド捕縛後、スタンドへの攻撃で確実に敵本体を特定できたし、『脳に侵入、人質に取られて大変』という事態を防ぎ、その場ではエンヤ・ガイルを犠牲にせずに済ませることが出来た。とはいえこれはあくまでその場ではの話であり、実際に考えを読む段階になってからは正体不明の弓と矢を誰かとやり取りするエンヤ・ガイルの姿を読み取れただけで、直後に本人が自害してしまったのだが。
ただこの時はこの時で別の収穫もあった。こうもあっさり『恋人』のスタンドの存在を暴き突破した承太郎たちにエンヤ・ガイルが「何故!」と戸惑いを見せたことから、緒都の予知のことや手帳のことは一切あちら側に漏れていないらしいことを確認することができたのだ。承太郎がスタープラチナで妹に触れられなかったように、ジョセフの念写に写せなかったように、向こう側にもスタンドを用いて緒都の存在を認識する術はなかったのだろう。
続く『太陽』は仕組みを理解してやはりすぐに対処が完了。『死神』についても事前情報が無ければ大層危うく、花京院が一人孤独に闘うことになっていたのだろうことは簡単に予測ができた。「全く、スタンドと言うものは何処までも恐ろしい」と呟いた花京院が全て終わった後に深く息を吐いていたのは、ひとまずの安堵だけではなく、この先にもまだ予言されているいくつもの危険を思ってのことだったのだろう。
『審判』のスタンドに関する情報は空白だったのだが、これとの遭遇はアヴドゥルとの合流地点で起こったらしい。会わなければならない人がいるのだと真面目な顔をしたジョセフに何事かと思ったが、到着した島に老人に扮したアヴドゥルを見れば状況はすぐにわかった。どうやら茶番は続いていたらしい。「こういう茶目っ気、ジョースターさんと似てますね」と肩をすくめた花京院は、茶番に付き合って走り出したポルナレフの後姿を見て笑っていた。承太郎は茶番が終わるまで船で待機していたので詳細は知らないが、その後戻ってきたポルナレフとアヴドゥルによれば、敵スタンドと浜辺で出会って片づけてきたとのこと。ポルナレフは怪我をしていたが旅に支障はなさそうなので、特に誰が離脱するということもなく、アヴドゥルが手配していた潜水艇でそのままエジプトを目指すことになった。
『女教皇』が潜水艇で現れることは分かっていた。『一つ余分なカップ』が最初であることも分かっていたためにこれもまた決着は早い。「おい、カップが一つ多いんじゃないか?」とジョセフが零した一言に本人も即ハッとしたようだが、ジョセフの対応は少々遅く、しかしいち早くチャリオッツの剣先でポルナレフがカップを粉砕。カップに擬態していた敵スタンドは即座に再起不能となり、素早い決着がついた。
そうしてようやくエジプトに上陸してからは『愚者』のスタンド使いであるイギーが加わり、『ゲブ神』のスタンドとの対決である。ここでは花京院が両目に重傷を負って離脱することが書かれていたが、目の前に敵スタンドが現れた時点で咄嗟に腕で顔を庇い間一髪。それでもアスワンの病院で簡単に手当てをしてから、話し合いの後に花京院の一時離脱が決定された。
怪我のせいではない。ここで一度別行動をとる方が効率がいいと花京院自身が判断したからだ。
そしてそのための別れが今現在。
「さあ、そろそろ君たちは発たないと」
病室には花京院と承太郎の二人きり。残りの三人は先に治療代の清算のためにロビーへと向かっている最中だろう。承太郎は「ああ」と頷いてから、「本当に一人で平気か」と最後の確認を口にした。
「今更だね。君も分かっているはずだ。スタンド能力者のいないSPW財団だけでDIOの館を探すとなると、そろそろ限界がきている。探査能力についてじゃない。犠牲者を伴わずにおくという点についてだ」
「……館を監視していた奴も戻って来なかったって話だしな」
「かといって君たちと共に行動して屋敷を探すのでは、その行動こそDIOに覗かれて筒抜けになってしまう。……少し前のアヴドゥルと交代するだけさ。どうか任せてくれ」
片腕に包帯が巻かれただけの花京院はまだ病院服だ。この後、先に出発する承太郎たちから数時間ほど遅れてSPW財団と行動を共にし、別ルートでカイロへと先回りをすることになっている。
長年超常現象に携わってきたプロたちとはいえ、SPW財団はスタンド使いからすれば一般人寄りだ。花京院が大怪我をした、ことになっている原因のン・ドゥールによってSPW財団のヘリコプターが墜落させられたことも、花京院がこの決断を下す一つの要因だった。カイロに潜伏していたSPW財団の職員もすでに始末されてしまったとなればなおさら。それでもDIOが移動した先の潜伏場所さえどうにか特定できれば、決戦の場をセッティングすることも可能になる。今、承太郎たちにはDIOの潜む館を突き止め、なおかつ敵襲にあっても逃走が可能な、より情報を持ち帰れる可能性のある人材が必要だった。
「……それにしても、ついにカイロか」
「……」
「正直、ここまででヒヤッとすることは何度もあった。もしも危険を頭に叩き込んでいなかったらと、またそれを強く実感したよ。……なあ、帰ったらまた君の家にお邪魔してもいいかい?緒都ちゃんに改めてお礼を言わなきゃならない。本当に、この恩をどう返したものか」
「まだ気が早いぜ。それに、全て終わらせて無事帰ってくることが何よりの恩返しじゃねえのか」
「……ああ、そうだな」
しみじみと目を閉じた花京院は、その後少し黙って閉じたカーテンを眺めていた。アスワンの街並みよりも、今は思い浮かべる何らかの光景がその脳裏を占めているのだろう。
「なあ、承太郎。君の妹のことで何か力になれることがあるのなら、僕は必ず駆けつけよう。……いや、もちろん君のことでも、だが」
「ああ」
「だから生き残ると約束する。一足先に君たちを待っているよ」
「なら俺もそろそろ、一足先に行くとする」
「ふふ、そうだな。どうか気を付けて」
「お互いにな」
少しずつ変わっていく。変えていく。
花京院のいる病院の個室を後にして、承太郎は無意識に胸ポケットの位置を押さえた。けれどもそんな自分にすぐ気がついて、両手をポケットへと仕舞い直して歩いていく。
線を引いて消していった名前はもう半分以上。DIOへはもう随分近づいた。ここからがもうひと山だ。そしてその最後に越えなければならない大きな壁のため……承太郎には完成させなければならないものがあった。おもむろに立ち止まって出現させたスタープラチナは、そんな承太郎の意を映して何も無い空へと拳を繰り返し叩きつける。
速く、もっと速く。眼前に突き出されては引かれていく青い腕の連弾を睨みつけながら、承太郎はただそれだけを考えた。速く。速く。光をも越えなければ。

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