▼沈む星と昇る星


「光を越えるんだ」
花京院がそう言った時、その目に迷いや疑いは一つとして存在していなかった。
「止まった世界で動くためには、君が世界の何より速くあればいい。全てを置いて、光より速くあればいい」
疑いはなかった。花京院はできると確信していた。スタンドとは精神の力。言ってしまえばそれは究極の思い込み。重要なのは承太郎自身ができると確信することであり、すでに花京院はそう確信していた。
「僕がそう思えるのはこの五十日近く君を見て来たからだ。他でもない君だからできると確信する。そして君は、君の妹への信頼でもってそれを現実に変えられる」
承太郎は遥か遠い土地で向けられた信頼を思い返し、光の中で閉じていた瞼をゆっくりと開いた。すでに日は落ちようとしている。赤々とした太陽が地平線に滲み、崩れた壁は破片を零しては砂埃を巻き上げていた。砂と乾いた風の匂い。身を差すような悪意が射抜かんばかりにこちらを凝視している。
目の前の暗闇に、男は潜んでいる。
誰も死なない。承太郎は声には出さずにそう宣言した。誰も欠けない。この腕から一つとして零すことなく、必ずお前の前に帰ってくる。遠い地で、じっと耐えている妹に向けて。決意は絶対だ。どこにも置いて行かない。その身が世界を置いていくとしても、自分だけは同じ時間を生きていく。










こんにちは、年中他人の往来が激しい家庭環境にストレスがマッハの空条緒都です。現在市内の大病院。人差し指を握る小さな手を振り払うこともできるはずなく、見知らぬ少年の病室に勝手にお邪魔しております。
と冗談をかましたくなる緒都の実際は、そうふざけられるほど余裕のある状況ではなかった。承太郎が旅立ってから早一ヶ月以上二ヵ月未満。特別祝う習慣があるわけでもないクリスマスはとうに過ぎて、本来お節を並べて祝うはずの正月さえ通り越して、それでもまだ窓の外には白く雪が積もっている。
ストレスの蓄積値が、やばい。一言で緒都の状況を説明するのなら、とにかくその表現に尽きた。
一日目からこれはキツイと思っていた。時折目を覚ましてもすぐにまた意識を失ってしまうホリィ。代わる代わるやってきては看護を続ける医師たち。使用人のごとく家のことを手伝おうという人々の気遣いはわかるのだが、家というものは本来他者を感じずにくつろげる場所であるはず。それがプライベートからかけ離れた場所となるのだ。学校から家に帰っても他人の気配にあふれ、なおかつ待っているのは厳しい現実を突きつける母の容態。
この際だ、正直に言おう。初日から緒都はコレムリモウヤダ状態だった。胸を張って子供の様にあれこれできるようになったと自慢した直後からなんと情けない話。しかしそれが事実だ。曲げようがない。
数日後に承太郎から電話がかかってきたときは感極まって泣き出すところだった。が、同時に押し付ける形でカミングアウトした、未来かもしれないものを知っています宣言から音沙汰なしであったことへの恐怖も大きく、滲みだそうとする涙の種類の割合がどちら寄りだったかは今振り返っても定かではない。実際、例の手帳について話し出した承太郎は長い沈黙でもって重いプレッシャーをかけてきて、受話器を握りながら緒都は半泣きだった。自分から話せと言うあれだ、子供に何か言うことはないのかと自発的な告白を促すあの空気だ!ともはや自分が悪いのかどうかさえ判断も付けられないまま、緒都は見事に押し負けて勘弁してくださいと告白タイムへ強制移行させられたのであった。
しかしあの日の電話はそれでは終わらない。通ったこともない教会の懺悔室を思わせる雰囲気の中であの手帳の後ろにメモ書きしていたものを思い出していたら、それをも見透かしたように承太郎が言うのだ。他にはないのかと。あっばれてる、と観念する緒都は改めて承太郎の勘の良さを実感し、でもまあDIOの能力はカンニングペーパーでばれてるはずだからもういいか、となるようになれ状態だった。なるようになって、早く帰ってきてほしい。
ともかくそんな日々を、キリキリと胃を痛めながら過ごしてきた五十日近く。それは学校からの帰り道に起こった。
承太郎が学校を休み始めた初期は噂が絶えず騒がしかった周辺も今では静かなものだ。緒都が一度「おじいちゃんの仕事の手伝いでしばらく外国にいる」と説明すれば、そこからの伝言ゲームは早く、煩わしい声はすぐになくなった。
今では家より学校の方が心安らぐ場所と言っていい。いや、それ以上が病院で、さらにその上が図書館という方が正しいだろうか。花京院登場時の保健室爆発事件で負傷した保険医の先生は入院中で、今は代理教師が入っているのだ。おかげで保健室の居心地の良さは奪われ、お見舞いと言う名目でごくごくたまに慣れ親しんだ方の保険医の先生の病室を訪ねたりする。最初は問題を起こした身内としての罪悪感からの訪問だったのだが、これが初日に予想以上に喜んでもらえて、今でも時々遊びに行くのだ。図書館で本を借りて持っていくというのがこのところの週一の習慣だった。緒都にとっての貴重なリフレッシュタイムである。最初は喉が傷ついたとか何とかで話すことはできなかったのだが、今では声を出して話せるまでに回復している。「もうすぐ復帰できるのよ」と笑う先生は保健室で起こったことを覚えていないようで、例の事件はガス漏れによる爆発として処理されたらしい。驚いたのは、あの日緒都が保健室で見かけた生徒の内の一人が同じ病院に入院していたことだ。一度先生のところに遊びに来ていたところにはち合わせたことがある。曰く、ガスを吸い込んだことによる幻覚作用で先生に万年筆で目を突かれる幻覚を見たらしい。実際はコンクリートが崩れて露わになった鉄の棒に突かれたようだが、酷い勘違いをしてしまったと申し訳なさそうにしていた。医者の話では事故のショックから前後の記憶を無理やり結びつけて辻褄を合せようとした脳の働きがどうのこうのとのこと。どこからどこまでが現在空条家を出入りする財団の圧力がかかった結果なのかはわからないが、先生のキャリアに傷がつかないのなら何だって良いと思うので深くは考えない。先生が巻き込まれた被害者であるということに変わりはないだろうから。
そんなこんなで、その日も緒都は本の回収と貸し出しと雑談を終えて、まだ重く苦しい家へと帰ろうとしていた。しかし極力ゆっくり帰ろうとする親不孝な気持ちは階段を一段ずつ下りることを選んで、帰宅までの時間を僅かでも稼ごうとする。以前は少しずつでも起きて目を合わせてくれたホリィが最近ではめっきり目覚めることもない、その現実が堪えるのだ。緒都が作ったお粥を食べてくれていたのも最初の数週間だけ。今では点滴で栄養を補給するのが精いっぱい。ついこの間来日した祖母がつきっきりで手を握っているのに、とまた緒都の心は罪悪感を抱えた。
しかし、息を吐けば勝手に溜息になりそうな、ともかくそんな憂鬱な気分の中。緒都の耳は微かな子供の啜り泣きを拾い上げた。大声を上げるでもなく、疲れ切ったような声はかき消えそうで、それでも途切れ途切れに「ままぁ……ままぁ……」と母親を呼んでいる。
足を止めて耳を澄ますと、どうやら下の階からのようだ。手すりの隙間から下を覗き込んで間違いないことを確認する。迷子だろうか。緒都は声を辿って静かに階段を下りた。
「ぼく、どうしたの?」
声の元は予測通り一つ下の階の踊り場にうずくまっていた。パジャマを着た、恐らく男の子。ぐったりした姿に目を見張り手を伸ばすと、服越しでも確かな高熱を感じた。ホリィの頬に触れたこの手の感触を思い出して、つい一瞬ゾッとする。
しかし次の瞬間にはそんな気持ちは吹き飛んで、今はこの子をどうにかしなければという使命感に駆られた。ただ承太郎が成し遂げることを待つばかりの自分が、今ここでならば何かを変えられると思ったからかもしれない。顔をあげた子供の顔には正体不明の既視感があったけれど、そんなことはまあどうでもいい。
「……ままぁ……」
「ママ?はぐれちゃったの?」
「おきたらいない……いないぃい……」
えぐえぐ、大声で泣き声を上げる体力も無いのか、男の子はぼろぼろと涙を流しながらも懸命に言葉を紡いでいた。そこから察するに、男の子が眠っている間に席を外した母親を探して徘徊して力尽きた、というところだろうか。パジャマであるところを見ると入院患者かもしれない。何はともあれ、こんな人の通らない階段の隅にいるよりは、ナースステーションにでも届け出を出した方が解決は早いに決まっている。
緒都は「じゃあお姉ちゃんと探しに行こう。抱っこしてもいい?」と声をかけて男の子の手を握った。えぐえぐ泣きっぱなしの男の子がひとつ小さく頷いたので、熱い体を抱き上げて踊り場の扉を開く。
一歩扉の外に出ればそこには十分に人の往来がある。男の子は三歳か四歳か五歳か、明確な年齢はわからないがそこそこに重い。しかしここで挫けるわけにはいかないので、緒都はきょろきょろと周囲を見渡してナースステーションを探した。足を運んだことのない階の地理はさっぱりだが、大体の構造は先生が入院している階と似ているようである。おかげでいつまでも迷ってぐるぐると院内を徘徊するというようなことにはならずに済んだ。
「あの」
「はあい、どう……まあ、仗助くん!?」
「あ、よかった、ご存じなんですね。さっき階段の踊り場でぐったりしてて。お母さんを探しているみたいなんですけど」
「ごめんなさい、本当に助かりました!目が覚めていたのね……さあ仗助くん、お部屋に戻りましょう。お母さんはお着替えを取りに行っただけだから」
白衣にカーディガンを着た看護師が一人、ナースステーションから出てきて男の子……ジョウスケを受け取ろうと手を伸ばす。やはり母親が不在中に寂しくなって徘徊、というのは正しかったらしい。しかし具合も悪そうなので大人しくベッドの上で待っている方がこの子のためだ。緒都は看護師の腕にジョウスケを預けようとした、が。いつの間にか緒都の服を掴んでいた手が離れない。強い力で服が引っ張られる様を見て、看護師は「あら」と困った顔をする。
「あー……あの、じゃあ病室までこのまま抱っこしていきます。お母さんが戻っていれば……」
「本当にごめんなさいね、ありがとう。こっちよ」
困り顔で微笑む看護師が先導するのに従う最中、抱え直したジョウスケが服を握り直す気配を感じた。不安なんだろなあ、とわかるので背中を撫でて保護者の早い帰宅を祈ってみる。
案内されたのは四人部屋らしかったけれど、内二つはカーテンが閉まっていて、残りの二つのベッドには人がいなかった。空いているベッドの内のひとつ、窓際のところがジョウスケのベッドだそうだ。残念ながら、まだこの子の母親は戻ってきていないらしい。
相変わらず服を離さないジョウスケの手はそのまま、緒都はひとまずベッドの上に一緒に上体を屈めて小さな体を下ろし、それから服を掴む手をほどくように手を伸ばす。「大丈夫、どこにも行かないよ」と小さな手に触れれば、熱い手はそれでも信用ならないと言った様子で今度は緒都の人差し指をぎゅっと握って離さない。看護師さんが「仗助くん、お姉ちゃんが困っちゃうわ」と宥めようとするのだが……このところ不安を抱える毎日だった緒都には痛いほど子供の気持ちがわかるので、この手を振りほどく気にも到底なれなかった。
「あの……お母様が戻って来られるまで、いてあげてもいいですか?急ぎの用はないので……」
だからだ。気付いたら、そんなことをしてもいいのかと不安になるような提案がつい口を突いて出てしまっていた。それはちょっと……と言われるかもしれない不安に自然と眉が下りる。が、案外看護師の方は問題視しなかったようで「本当に構いませんか?帰らなきゃならないだとか、何かあったりしたら遠慮なくナースコールを押してくださいね」と助かりますと言う顔をしてほっと胸をなでおろしていた。彼女も忙しく、保護者が戻るまでずっとついているというわけにもいかなかったのだろう。かといってまた徘徊の可能性があるとなれば、誰かがついているという方が安心だったのかもしれない。保護者が戻ってきたら説明をしておくという彼女の言葉にこちらもほっとしながら、緒都は「わかりました」と頷いてジョウスケの方に視線を落とした。
そう、そうしてここでようやく冒頭に戻るのである。
「ジョウスケくん」
絶対に離すもんか、と握り込む小さな手の甲に自由な方な手を重ねて、緒都は看護師が口にしていた名前を呼び掛ける。
「お母さんが戻ってくるまで一緒に居るよ。大丈夫」
ジョウスケは何も言わなかった。けれどもあの啜り泣きは止んで、涙にぬれた目がじっとこちらを見上げている。その目が安心の中でゆっくりとまどろむまで、緒都は小さな手を握り返し、とん、とん、とゆっくりお腹を叩いて傍に居た。瞬きが徐々にゆっくりになっていく様を見ていると、こちらまで眠たくなってくる。
いや、寝ないけども。そう自分に突っ込んで眠気を追い払うけれども、すぐに失敗だったかなと落ち込んだ。途端に家で待つホリィの姿が頭をよぎったのだ。とんだ親不孝者。親よりも初めて会った子供に付き添っているなんて、承太郎ならどんな反応をするだろう。そこまで考えて、緒都はふと壁にかかった時計を見上げた。承太郎は今頃、どこで何をしているのだろうか。
この長い時間、彼らは戦い続けている。あの手帳はその助けになれたのだろうか。あの通りの道を進まず、あれよりも良い結果へ向かっていったのなら……緒都がここに居る意味はそこに見出せるのだろうか。
そう考えていたら、見つめていた秒針がふいに止まった。緒都はハッとしてジョウスケのお腹の上に置いた手を止める。
いち、に、さん。音が消えた世界で目を閉じて数を数える。慣れたものだ。ジョウスケは静かに眠りに落ちようとしているから、ここに他者がいることへの不安は感じない。いや、むしろこの小さな手に安心を得ているのかもしれない。こんなに熱いのに、苦しいんだろうに、小さな手が緒都を世界から突き離さずにいてくれている気がする。
それからしばらく、音が戻って、また音が消えての繰り返し。いち、に、さん。いち、に。ここを最初とする様に少しずつ時間の停止が繰り返される様子にふと、もしかして、と思う。七時間後ろで彼らがついに対峙したのかもしれない。いち、に、さん。いち、に。いち、に、さん、し。連続するたびに高鳴る心臓は、じわじわと緊張を生み出していく。
緒都は思わず、小さな手を包んで祈りの形を作った。そうして額に押し当てて目を閉じ、一緒に応援して、と勝手なお願いを心の中で呟く。動かされた腕に気がついたのか、きっと熱と眠気とで朦朧としているのであろう目が緒都を見上げている。緒都は目を開いて微笑み返し、それからやはり瞼を下ろして小さな手を強く握りしめる。
いち、に。いち、に、さん、し。数えて、数えて、兄の背を脳裏に思い浮かべた。大丈夫だ。承太郎なら大丈夫。それは暗示で、切望で、それでも根底にある絶対的な確信であった。
だからじっと待つ。それしかできないともいうけれど、だからこそただ待つのだ。七時間振り向いた場所に、やがて乾いた朝がやってくるまで。

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