▼ 虎に鰹節
「"可哀想だた惚れたってことよ"」
吉継の家。居間にある箪笥の上に置かれた飾り箱。
その中には幸村が探していたものが入っていた。
パラパラと流し見程度しかできずとも、ほしい情報を手に入れた幸村は、いつしか紫乃がつぶやいた言葉を思い出す。とある物語の台詞であったが、園児には少しばかり難しい本であり、読み聞かせには向かない内容であった。幸村といっしょに聞いていた園児たちはもちろんのこと、いつもならば紫乃の読み聞かせを真剣に聞いている政宗や三成ですら、うつらうつらと舟をこいでいた。幸村だけが、妙に感情を込められたその台詞をしかと聞いていた。
箪笥の引き出しで作った階段をのぼり、幸村は飾り箱を元に戻す。
そして家主にバレぬようにと引き出しを戻したところで、両脇を捕まれた。振り向けば呆れ顔の吉継が幸村を抱えている。
「やれ、大きな鼠がいたものよ」
「……虎でござる」
「さよか」
幸村を畳におろした吉継は引き出しの中身を一段一段確認しながら、上から順番に戻していった。幼子の体重で壊れるようなものは入っていなかったが、階段のように使われるのならば壊れ物も入れておくべきだったと吉継は反省した。子供の知能を甘く見ていた吉継の敗北であった。
立ち上がった吉継を見上げる幸村の目は、幼子にしては獣くささがあった。少しでも気を抜けば喉笛を食いちぎられてしまいそうな気すらする。
「大谷殿はなにゆえ調べた……いや、なにゆえ気づかれたので?」
「はて、なんのことか」
「ここまできてしらを切るのは些か無理はありましょう」
待っても吉継は口を開かないと見た幸村は、淡々と語る。
「佐助と紫乃は戦国の世のことしか覚えていないようだが、某とアレは殺し合いを三度している。一度目は戦国の世のこと、二度目は江戸の中期、三度目は昭和の始まりであったか。そして今回が四度目でござる」
「それで、ぬしは何を言いたい」
「某は元の身体を取り戻し、今生を全うしたい。かつて軍師とうたわれた大谷殿ならば、方法を存じ上げていると考え申した」
「……今生を全うしたいのはわれも同じこと。しかしぬしは前生を全うしていないではないか」
はっきりとした原因など、正直にいえば吉継にだって分からない。自分が記憶を持っていることだって、理由は知らない。
己が命を犠牲に友人を守ったことは吉継にとって未練ではないし、今世の友人である小十郎や佐助も同感だと頷くだろう。
記憶は、曖昧だ。
形を持たず、薄れ、改竄される。誰に覗かれることもなく、ゆえに秘めることも開示することもできる。
小十郎と佐助は、吉継にとって記憶の共有者だ。佐助の記憶に歯抜けがあることには気づいていたし、幼き幸村の見目が見知っている青年と全く似ていないことは気になっていた。
紫乃が付き合っていた男が幸村にそっくりであることを知った途端、背筋が冷えた。
目を伏せ思案していた幸村は、顔を上げた。なんの感情も読み取ることができない真っ直ぐな視線に、吉継は一歩下がる。だが、幸村は気にした様子を一切みせず、深々とお辞儀をした。
「大谷殿、助言感謝いたす。では、失礼いたした。三成殿によろしく伝えてくだされ」
驚くほどあっさりと引き下がった幸村に、吉継は拍子抜けした。
そのまま玄関へと向かっていく幼子の後ろを歩きながらも、不安と緊張は途切れることなく吉継の心臓を急き立てる。
玄関の端に揃えられた靴を履いている最中、ふと幸村は手を止めた。
「"可哀想だた惚れたってことよ"。大谷殿は聞いたことがお有りで?」
「……確か『三四郎』よな」
「さすが大谷殿。博識でござる」
それがどうした。
尋ねると、困ったような笑みを向けられた。
「紫乃が言っていた。ゆえに、気になったのです。紫乃は誰を憐れみ、愛したのかと」
その答えはひどく残酷なものだと分かっているのかいないのか、幸村の声はどこまでも穏やかであった。
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