割烹着ヒーロー | ナノ


▼ 子の心親知らず

 あの日の私はもういない。
 子どもにしか愛情を注ぐことのできない愚かな女は、己の喉笛を掻っ切って死んだのだから。
 心配そうに服の裾を掴んだ子どもの頭を撫でる。私の手に収まりそうなほど小さな頭。私が守らなきゃいけない。自然と足の震えは止まった。大丈夫よ、とできるだけ優しい声で笑いかける。
 ねえ。子供の声を遮って、彼が私の名前を呼んだ。不貞腐れた顔で、私の名前をもう一度呼ぶ。唇をつきだすさまは子供のようだけど、その奥に殺意が隠されているのを知っている。


「紫乃に会いに来たんだ。もっと歓迎してくれよ」

「そうね。30分ぐらいで休憩だから待ってて。お茶ぐらいなら出してあげる」

「ん、待ってる」


 心底嬉しそうに、細められた目。笑うと幼く見える笑顔は変わらないんだ、と当たり前のことを考え、子供たちを連れて教室に戻った。




 お茶を水筒に注いで、彼の待つ運動場に向かった。木陰で涼んでいた彼は私に気づいて、ひらりと手を振る。隣に腰かけようかと思ったけれど、用心のため立ったままでいることにした。二つのコップにお茶を注ぎ、片方を手渡す。


「ねえ、聞きたいことがあるの」

「なに」

「どうして、浮気をしたの」


 ずっと聞きたかった。
 今聞くべきことなのか迷ったけれど、本当の理由を聞くことができるのは、きっと今だけだ。
 浮気をしたのに。浮気をしたくせに。ずっと胸の奥に溜まっていた恨みつらみを吐き出しそうになって、口をつぐむ。
 

「全部、思い出したんだよな?」

「……」


 無言を肯定と受け取った彼は、すでに笑っていなかった。
 聞いたことないのない低い声。わずかにかすれた声は、なんとなく泣いているようにも聞こえた。


「憎かったから。捨てられたことが許せなかった」


 憎しみをぶつけられ、恐怖や罪悪感より先に違和感をおぼえた。妙だ。


「捨て子だった俺を愛してくれて、嬉しかった。褒めてもらえるなら、となんでもやったのに、ほかの奴らに負けないぐらい、必死に、やったのに。
ほかの女に手を出せば、嫉妬してくれると思った。捨てられる痛みを知ればいいと思った」

「……」

「どうして、俺を捨てたんだ」


 すがりつくように手を握られた。指が、手の甲に食い込む。泣きそうな顔に見上げられ、振り払うこともできず、答えを探した。
 私は、答えを知っている。知っているだけだ。あの日、あの女が、なぜ×××くんを捨てたのか、心をなぞった私だけが知っている。
 
 でも、


「なんの話をしているの?」


 私が経験したような感覚があるから思い出した、という表現にしたけれど、それでもあの出来事は私たちとは切り離されるべき事象だ。今の私は佐々木紫乃であり、彼は今×××くんではない。だというのに、今のことのように話してくる。


「私は、今の貴方の話をしているんだけれど」

「だから、あの日捨てられたことを恨んで……え、俺のことをわかっているんだよな? ×××って名前覚えているんだよな? 前世なんて信じないなんて言わないでくれよ、だって、俺は、」

「もう一度言う。今の、貴方の、話を聞いているの。声に出して言いたくなかったけれど、前世の記憶は確かにある。夢で見ただけだったけれど、やけにはっきりと覚えているし、あの日あのときの五感を知っている。だけどね、今の私達はどうなるのって話よ」


 黙って聞いていようかと思っていたけれど、結局遮ってしまった。だめだ、止まらない。いや、もういいか。この勢いで言い切ってしまえ。
 呆気にとられる彼に、畳み掛ける。


「大学二年生から付き合っていた彼氏に浮気され、お酒で失敗した回数は数知れず、最近目元のシワが気になってきた佐々木紫乃が今の私。
大学二年生から付き合っていた彼女とは別の女を抱いたことによって別れ、お酒1杯で顔を赤くして、笑うと目元にシワができるのが今の貴方。そうでしょう?」


 問いかければ、顔いっぱいに広がる困惑の色。
 さっきまでの殺気が嘘のように失せ、見慣れた顔に戻ってきた。私の手を力いっぱい握る手を、反対の手で握り返す。情けないぐらい眉尻が下がった彼は、何度か言いよどみ、それでも言葉にしてくれた。


「……あのさ、浮気してごめん」

「うん」


 いいよ。なんて言えないけれど。
 許したい、と思えるぐらいには、きっと貴方のことがまだ好きだよ。
 一応、と付け加える。私がなぞった感情も伝えよう。


「昔々、あるところに住んでいた女は×××くんという自らが育てた子供を捨てました。子供が自分を捨てるという幻想に取り憑かれ、その前に子供を捨てたの。子供を一人の人間として見ることができなかったのね。もっと子供と向き合えば、捨てられるのではなく巣立つことだと認識できたのに」

「……馬鹿だな」

「うん、本当に馬鹿でしょう? 」


 顔を見合わせ、どちらともなく声に出して笑う。
 そう、どうしようもないぐらい馬鹿なの。あの女も、そして私自身も。 
 ふと真剣な顔になった彼は、渡したお茶を一気に飲み干した。掠れていた声が幾分かマシになって、聞き取りやすい。


「昔々、あるところに住んでいた女は死にました」


 私の真似か、おとぎ話のように紡がれる思い出話。
 それは、めでたしめでたし、なんかでは終わらない。


「あの日死んでしまった紫乃にとっては昔の話でも、この話はまだ終わってないんだ。俺たちは、まだ死んでいない」


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