▼ 我が物と思えば軽し血の雨
なにも終わっていない。
彼らは死んでいない。
彼の言葉を咀嚼し、反芻する。単語の一つひとつの意味はわかっても、到底理解の及ばない言葉として腹に沈んでいく。
口元は笑っているのに、目が笑っていない。ぎりり、と骨がきしんでしまいそうなほど強く手を握られ、恐怖で身体がすくみ上がる。立ち向かう覚悟を決めたとはいえ、力比べで勝つことは到底できない。せめて勝ち目のある土俵へと引きずり込まなければ。
「そう、じゃあ貴方の"身体"の場所はわかっているの?」
前に、幸村くんにされた質問をくりかえす。
想定外の質問だったのか、彼の目がみるみるうちに丸くなっていった。まるで幼子のような顔。握っていた手から力が抜けた。
ああ、見つけたよ。
目を伏せ、眉をひそめ、苦々しい顔は、探した末の結果を憂いていた。
「……あの猿飛って奴が世話している子供だろ」
「幸村くんも身体を探していた。身体を見つけてどうするの?」
死んでいない彼らが己の身体を見つけることによって、どんな風に終止符が打たれるというのか。私が死んでも逃げても終わらない物語。悲劇と呼ぶには滑稽で、喜劇と呼ぶには血なまぐさい。
「言ったろ、俺達はまだ死んじゃいないんだ。だからこそ殺したい。でも同じぐらい紫乃を死なせたくない。紫乃は、自分の死を平気で選ぶから」
別に死ぬのが怖いわけじゃない。
死ぬことよりも恐ろしいことを避けるために死を選んでいるだけ。人間はいずれ死ぬ。それなら、命を賭けてもいいと思えるものに賭けたっていいじゃない。
彼は何をどうすればいいのか、わからなくなってしまったらしい。
決めあぐねている最中、私が海外逃亡をしてしまった。
くしゃりと前髪をくずし、指の隙間で笑った目が怯えた私を捉える。
「昔の話はどうだっていいだろう。紫乃だって言ったじゃないか。今の俺と、今の紫乃の話をしよう。
もう、目の前で死なせやしないから」
ヒーローのようなセリフとは反対に、声は低く、淀んでいる。言葉にせずとも、逃さないと言っているようだ。何度強がろうと、蛇に睨まれた蛙にどんな反撃ができようか。
自己嫌悪と罪悪感で何も言えなくなった私を助けてくれたのは、ここにいるはずのない人だった。
「ちょっとそこの陰険ストーカーさん、センセから離れてくんない?」
「さるとびさん……?」
「ま、なんにも言わず勝手に海外逃亡するセンセも大概だけど」
「な、なんで、ここへ」
「そりゃセンセに会いに決まってるじゃん」
ひと月ぶり。それなのに懐かしさを感じないのは、前と変わらない調子だからか。あっけらかんとした態度の猿飛さんは、情けない顔してる、と笑う。そうだろうね、と返したが、自分がどんな顔をしているか考える余裕はなかった。
「無関係の奴が何の用だ」
「あーあ、粘着質なストーカーは怖いね。旦那の顔をしていたら尚更」
彼と向き合った猿飛さんは、笑っていない。
ああ、猿飛さんも思い出してしまったのか。だから、いや、だとしても。猿飛さんは彼の言うとおり無関係だ。
二度も無関係の彼を巻き込むわけにはいかない。
「関係あるよ」
考えを見透かされた気がして、心臓が小さく跳ねた。
「無関係じゃないから俺様はあんたらを知っている、いや、覚えているんだぜ。あんたはさ、どうして今生きている自分以外の記憶があるか知ってるわけ?」
「そんなの知るか。知るやつだっているわけ……」
「知ってるやつがいたんだよ。俺様たちより考えることが好きで、時間と金が有り余っていて、性悪な奴がね」
肩を竦めながら説明する猿飛さんはまるで謎解きをする探偵のよう。
ならば犯人はこの中にいるのだろうか。その答えを猿飛さんは握っている。
「正直記録というには生々しい記憶さえなけりゃ生まれ変わりなんてスピリチュアル的なこと信じない性分だけど、ま、それはいいや。そいつが言うには全ての人間は記憶のあるなしの違いはあれど誰かの生まれ変わりであり、因果か因縁だか知らないけど切っても切れないややこしいものに縛られてるわけ。
まず、俺様と先生は死んだ。あの頃の俺様たちの人生はあそこでお終い。まあ、恐らく、今の俺様たちが生まれ変わりなんだろうね。
次に、あんたも旦那も死んでいない。あの頃も、その後も、だ」
ということは生まれ変わりではない、
では、彼らはなんなのだろう。口元に手をあて考えるも、答え合わせをするつもりはないらしい。私達の予想を待たずに猿飛さんは悲しげに微笑み、答えた。
「俺様たちの未練の形さ」
「私たちの?」
「死ぬ前に心から願った。旦那を死なせたくない。センセイも同じだろ?」
そうだ。もちろん、そうだとも。短い期間とはいえ、本当の子のように愛していた子を、死なせたくなかった。他の子どもたちを殺したことを知った上で、あの子を守らなければいけないと考えた。
だけれど、歪んだ形で願っていたように思う。
「これ以上罪を重ねてほしくないとも思った。私さえ死ねば、この子は人を殺める理由がなくなるのではないかと」
そして、これは言えないけれど、あの子が罪を重ねるのを、罰を受けるのを、見たくなかったから、自害したのだ。
「それで? 俺らが未練の形だからってどうなるのさ」
「死ぬことができない。この無意味な殺し合いをいつまでも続けるのさ、死ぬまでね」
つまり、永遠に彼らは生きることになる。私達のせいで。
どうしてそんなことになってしまったのか。誰かに死んでほしくないと思うのは私達だけではない。家族や友人、恋人、どんな関係であれ、もっと生きていてほしいというのは、ありふれている願いのはずだ。
どこにでもある気持ちがなぜ、呪いのような形になってしまったのだろう。
「センセイの気持ちはわかるよ。死なせたくない気持ちなんてどこにでも転がってる。だからもう一つ条件があるのさ」
「なんですか、それは」
「死なせたくない、と思う誰かが代わりに死ぬこと」
私だ。
猿飛さんだ。
よくぞ、そんな条件を見つけたものだと、感心した。
時間とお金と人をかけてそんな調べ物をした人ならば、きっと私の疑問にだって答えてくれるのだろう。代わりに猿飛さんが答えを聞いてくれていると期待し、質問する。
「じゃあ、どうすれば終わらせられるの」
猿飛さんは微笑んだ。苦しげに、寂しげに、今にも泣きそうな顔で笑った。
「俺様たちが終わらせるしかない」
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