▼ 恩愛転じて恩讐となす
子どもたちには手を出さないで。
私の言葉に、彼の笑顔が一層深くなる。
暗い水底を覗きこんだら、きっと彼の腹に沈んだものと同じものが見えるのだろう。淀み、濁った、得体のしれぬものが。
燦々と陽の光が降り注ぐ中、寒気で身体が震える。遠い昔に死んだ私が経験した、あの日の夜のことを思い出した。
不気味なほど静かな夜だった。鳥のさえずりひとつ聞こえず、木々を揺らす風の音だけがやけにはっきり聞こえた。離れの屋敷を訪れたのは橙の髪をもつ青年。はにかんだ笑みを浮かべる顔とは対照的に、ほの暗い闇を瞳にはめ込んだ×××くんだった。誰が迎えたのか。どうやって入ってきたのか。戸惑う私の問いに答えることなく、部屋へと踏み入る。畳を踏む音がやけにはっきりと聞こえた。久しぶり、と短い挨拶とともに、手を掴まれた。ぬるりとした感触と、彼の着物を汚す赤は、きっと同一のものだ。
彼はひとつ聞きたいと言った。
どうして、自分を捨てたのかと。
手を振り払って逃げた私の目に映ったのは、惨劇であった。
血を流して息絶えている女中、壁によりかかってこと切れた小姓。死体散らばる廊下で硬直した私の背中を押したのは、私を追ってくる×××くんの足音だ。息を吸い込むたびに、血なまぐさい匂いも肺に広がるのが気持ち悪くて、自然と呼吸が浅くなる。息が苦しい。足がもつれそうになる。
なぜ、私は逃げているんだ。逃げ切れるわけがない。どうして逃げるの? 後ろから声が聞こえた。死ぬのが怖いから? ううん、そうではなくて。×××くんが怖いから? すこし、違う。どうして捨てたのか。その問いの答えを、出したくないから。
出口が見えた。もうすぐで屋敷の外だ。気が緩んだ瞬間、玄関に折り重なった死体を見つけ、心臓がとまりそうになった。私が拾った子どもたちだ。ああ、と嗚咽が溢れる。その場で崩れ落ちる私の腕を掴んだのは、猿飛様だった。
幸村様の部下であり、妻である私を快く思っていないお方。どうしてこんな場所へ。猿飛様だけではない。玄関の外には幸村様も立っていた。背中を押され、幸村様のとこに追いやられる。今晩訪れると文が来たことを今更思い出した。
「……」
「あ、あの、」
「旦那、下がって。奥にやばいのが」
廊下の奥、暗闇の中から刃物が飛んできた。弾き落とされた刃物はそのまま廊下に突き刺さる。
「あのさあ、邪魔しないでよ。俺が用あるのは紫乃サンだけなんだし」
「嘘つき。じゃあなんで屋敷の奴ら皆殺しなわけ?」
「ふふふ、ないしょ」
いたずらっ子のような笑みをかたどった青年が闇の中から歩み寄ってきた。殺気を向けている猿飛様ではなく、私だけを見ている。狂気に染まった目は、一瞬、私から目をそらし、子どもたちの死体をみた。つられて私も子供をみる。嫌な予感がした。
背後で轟々たる爆発音が聞こえた。この音を知っている。この音と同じものを聞いたことがある。振り向けば、木よりも高い火柱が見えた。火が、木々をなぎ倒し、火の粉が上がる。嘘でしょ、と猿飛様が呟いた。
声が震える。
恐ろしい予感に、怯えながらも、口にしないことも選べなかった。
「×××くん、なの?」
「そうだよ。もしかして俺が誰だか今までわかってなかったわけ?」
「違う! そういう意味じゃない。私の……私の前の家を燃やしたのも貴方だったの?」
正解。屈託のない笑顔で返され、二の句が継げない。全部私のせいだったのか。私が、この子を育ててしまったから。自己嫌悪に苛まれ、吐き気すらした。焦げる匂い、血の匂い、全部気持ち悪い。戻しそうになりながらも、すんでのところで耐える。
「でも、"これ"は、俺のためだ」
もう一度爆発音。
目の前で死体の山が、爆発した。死んでいた子どもたちの身体と、近くにいた猿飛さんが吹っ飛んだ。幸村様に庇われて怪我はしなかったけれど、充満する濃い血の匂いに、耐えることなどできるわけなく。幸村様を突き飛ばして吐瀉した。廊下に刺さっていた刃物が、爆発の衝撃でこちらに転がってきていた。
猿飛様はどうなってしまったのか。吹っ飛ぶ寸前に幸村様の名前を呼んだ猿飛様の声が耳にこびりついて取れない。
「佐助! 返事をしろ!」
「できるわけないじゃん。あんたもそうなるよ」
「幸村様、せめて幸村様だけでもお逃げください」
「悪いけど、紫乃サンの望みでも逃がさないから。というかさっきの忍より殺す優先順位高いし」
「いいえ。だって、×××くんの目的は私でしょう?」
拾った刃物を己に向けた。
prev / next