「最近は寒くなったなぁ……」

僕は夜道を一人歩きながら、ポツリと独り言漏らす。
衣替えの季節になり、学校の制服も冬服へと変わった。

つい最近までムシムシするような熱さだったのに、今月に入ってから途端に冷えるようになった。
早く洋ちゃんの家で温まりたい。心も、体も。ドクドクと疼く僕の心が止まらない。

するとそんな僕の心と連動したかのように、ポケットの中の携帯電話がブルブルと振動を始めた。

「……メール?」

見慣れた文字列。差出人──野上洋太。
それは間違いなく僕の恋人の名前で、僕ははやる心を落ち着かせながら、そっとメールを開封した。

《家の鍵は開いてるから好きに入ってきて》

ただそれだけの素っ気ない内容。でも今の僕には十分だった。
洋ちゃんは人一倍恥ずかしがりだから、きっと。

「……ふふ」

僕は顔を綻ばせて、小さく笑った。


 ◇


ようやく僕は洋ちゃんの家の前にたどり着く。
外観は何度か見たことがあっても、中に足を踏み入れたことは今まで一度もなかった。

僕は絵の仕事が忙しかったし、洋ちゃんはというと、父子家庭のため家事全般をこなさねばならないそうだ。

暇なんてほとんどない僕たちが、今日みたいにお互い時間が取れる偶然なんて滅多にない。
まさに奇跡──そう表現しても過言ではないだろう。

まあ、そんなことはどうでもいいのだ。
緊張して門前で立ち止まる。

どんな表情をしていたらいいのだろうか。
身なりはおかしくないだろうか。
緊張しすぎて挨拶の声が裏返ったりしないだろうか。

「すぅ……はぁぁ……」

僕は軽く深呼吸して、震える手でキィ……と門を開けた。
お庭の手入れは綺麗に施されており、植えられた花が美しく花弁をつけていた。

ああ、今が夜でなかったらこの風景を記憶して絵に描いてみたい。
それくらい、綺麗な庭だ。

そんな風にぐだぐだと関係ないことを考えているうちに、僕はとうとう玄関前へ。

インターホンは鳴らすべきだろうか。
いや、でもメールには『好きに入って来い』って書いてあったような。

「……」

僕はもう一度息を吸って、小さく小さく深呼吸。
そして、ついに。

「おじゃま、します……」

蚊の鳴くような声で挨拶をしながら、ガラガラと洋ちゃんの家の扉をゆっくりと開けた。
そこにあったのは──。

「……ひっ!?」

真っ暗な家の中で、僕は、僕を出迎えた“あるもの”に、思わず悲鳴を上げて後ずさる。

「……っ」

二枚の風景画。
この二つの絵画は、同じ作品のように見える。

だが、ただひとつ──ただひとつ、違うことがあった。
一方は大袈裟でわざとらしいくらい豪華な額縁に飾られており、もう一方は。

「な……に、これ……!?」

酷くボロボロで、ひび割れた額縁に囲まれおり、絵の所々がカッターナイフで切り刻まれていた。
キャンバスの一部はみっともなく剥がれて、数ヶ所が床に欠け落ちている。

一言で言い表すならば、それは紛れもなく──『狂気』。

同じ作品に見えるのに、まるで対照的だった。
同じ作品に見えるのに、まるで正反対だった。

「洋……ちゃん……?」

一体どうしたというのか。
洋ちゃんの身に何かあったのか。

僕は恐怖で足がすくんで、その場所から動くことが出来ない。
最悪の結末が僕の脳裏をよぎった。

「洋……ちゃ……っ」

怖いよ、洋ちゃん。
なにこれ、一体なんなの。

「洋ちゃんっ……!」

返事はない。しんとした部屋に響く、自分の声。
背筋が凍って、ぞわっと身震いする。
もう、ここから逃げ出したかった。

すると、そんな僕の限界を悟ったかのように暗い闇の奥からすたすたと足音が聞こえてきた。
その足音は迷いなく僕の方へ近づいてくる。

「ようちゃっ……」
「──よぉ、俊雄。結構遅かったな」

足音と共に、あの聞き慣れた彼の声。
いいや、違う──聞き慣れてなんか、いない。

「待ちくたびれたぞ?」

聞き慣れてなんかいない。
こんなに冷たい、彼の声なんて。

「洋……ちゃ……これ、どういう……こと……?」

僕は震え声で尋ねる。
すると暗闇から姿を見せた洋ちゃんは、クスクスと薄ら笑いを浮かべた。

「分からねぇのか? そうだな、分かるはずがねぇよな……はは」

洋ちゃんは可笑しそうに可笑しそうに、不気味な笑いを浮かべ続ける。

「洋ちゃ……」
「ああそうだな、そうだろうよ。そん時は、俺もテメーもまだガキだった。ガキだったお前が、俺の“傷”を理解できるはずもねぇ」

洋ちゃんは笑いながら、どんどん僕ににじり寄ってきた。
いつもと雰囲気が違う洋ちゃんに恐怖して、僕は知らず知らずのうちに後ずさりしてしまう。

「なんだよ、逃げるなよ」
「……ッ!?」

僕の両腕が洋ちゃんに掴まれて、そのまま玄関先に押し倒される。
恐怖で、僕は抵抗することを忘れてしまっていた。

「なぁ、見てくれ俊雄。この絵、どうだ?」

洋ちゃんの視線は、あの切り刻まれた“狂気の絵”に向いていた。
僕も無意識に洋ちゃんの目を追って、その絵を見つめる。

「なぁ、汚ねぇだろ? 汚ねぇと思うだろ?」
「……ッ」
「んだよ、なんか言えよ。少しは画家らしいこと言ってみろよ、ホラ!」

僕の腕を掴む洋ちゃんの力がグッと強まった。
怖くて、冷や汗が流れる。

「たまんねぇよ、ほんと。汚らしくって、とても見てられない」
「……」
「それに比べて……あの隣の絵は本当に綺麗だろう? なんせ、天才画家様がお描きになった作品だ」
「……っ」
「美しいだろ……まるでその風景が目の前にありありと浮かんでくるようだ」

なんだろう。あの豪華な額縁に入っている絵、どこかで──。

「なぁ、笹川俊雄“先生”。お前の絵はスゲーよ……綺麗だよ……美しいよ……本当に」
「……っ!?」
「隣の、俺の絵が──糞以下に見えるほどに」

ああ、ああ、思い出した。
あの、豪華な額に入っている絵は──!

「この、お前の描いた初入賞の絵はたくさんの人の心を動かしたよなぁ。すげぇよ、ほんと……俺の絵なんかただのラクガキ同然だ」
「……洋……ちゃっ……」
「なぁ、笹川先生……俺の汚い絵をもっとよく見てくれよ。ほら……色も、構図も、題材も、全部お前と一緒」
「……っ」
「分かるか? 全部全部、お前の真似──盗作だよ」
「……ッ!?」

僕の初入賞は、小学生の時だ。雨上がりの通学路を描いた、『僕の道』という作品。
そして恐らく隣にあるボロボロの絵は、小学生の頃の洋ちゃんの絵。

「最低だろう? 絵を描く人間のすることじゃないだろう? ほら先生、小学生の時の俺を叱ってくれよ」
「……くっ……」

握りつぶすかのようにぎゅうぎゅうと僕の手首を締め上げて、卑下た笑いを見せる洋ちゃん。
その洋ちゃんの顔は、今まで見たこともないくらい、恐くて。

「はははっ、おっかしいよなぁ! テメーの事なんか知りもしなかったのによ? 子供ながらに一生懸命描いた絵が……テメーの作品の盗作呼ばわりされて……!」
「……っ」
「有名画家だった両親も、そのバッシングの対象になって!」
「……っ!」

恐くて、恐くて。

「──離婚した!」

こんなに、恐いのに──。

「アトリエで仲良く楽しそうに絵を描いていた両親が、俺のせいで離婚しちまったんだ!!」

大好きな洋ちゃんの顔が、こんなにも苦しそうで、辛そうで、泣きそうで。

「いいや、違うな」

こんなにも、悲しそうにも見えて──だから、僕も。

「テメーのせいだよ、笹川。顔も素性も何も知らない他人のテメーに、俺たち一家はメチャクチャにされちまったんだ」

僕も、こんなに泣きたくなって。

「でも、もう今更謝ってもらおうだなんてバカなことは思っちゃいねぇよ。これはただの、俺個人の逆恨みだ」
「んっ、あっ……洋ちゃっ……!?」
「ヤラせろよ、笹川。いいだろ?」

だって俺たちは“恋人同士”なんだからさ──。
そう言って、洋ちゃんは僕の洋服を乱暴に剥いた。



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