ヒツギノヨカ展示室


 電機屋とモツ鍋屋の合間の、薄暗く、人が一人ようやく通れるくらいの細い路地。両脇に草が生い茂り足下を申し訳程度に設置された飛び石が彩る。
 それは小さな商店街の片隅に息を殺すようにして佇んでいた。
 小さな二階建ての建物。入り口には掛け看板。

《ヒツギノヨカ展示室》の文字。

 ステンドガラスが美しい扉には長い年月を重ねた重厚さと歴史を感じさせるノブが付いている。ともすればひっそりと有る展示室、というよりも館。薄気味の悪さから近付くものは滅多に居ないに等しい、だろう。
 しかし心惹かれて迷い込んでしまったのは何故だろうと少女は思う。身につけている学校指定のセーラー服はぐったりと、彼女の心情を表すように草臥れていた。長かった名残を残す髪は、今はざんばらの趣で少々ーいやかなり滅入ってしまう。
 苛立ちに任せて大勢の目の前で切り落とした矜持のせいで、なかなか帰る気分になれなかった彼女が猫のようにたどり着いた先がこの建物だった。昔から細い路地には浪漫を感じることを禁じ得なかった彼女の、たどり着いた先がよりにもよってここだとは。
 顔をしかめて少女が手を中途半端に伸ばすこと暫し。
 ここは【死体がある】と噂された場所だった。それは子供の詮無き噂に違いなかったけれど、目の前にしてみるとどうだろう。
 間違っていないのかな、と拙く彼女は思う。思って、入ろうか悩んで、悩んだ結果。半ばゆっくりと息を吐いて扉に手を掛けた。

「すみません、」

 声を掛けたのはインターホンも無い家に無言で入っていくのは気が咎めたから。
 開けて真っ先に目を射止めたのは真っ赤な絨毯だった。しかし下品な赤ではなく、入り口の扉と同じくして年代を感じさせる気品ある褪せた赤であったから、少しだけ少女は安心した。高尚な趣味を持つものだけが入れる敷居の高いところかもと、心の片隅で心配していたからだ。
 そんなことは無いようだ。どちらかというと、図書館のような匂いと親しみがある。
 しかし、ここは靴を脱がなくて良いのだろうか。見る限る玄関、というものは存在しないようだけど。
 彼女は逡巡した後に、恐る恐る一歩。踏み出した。

「いらっしゃい」

と、どこからともなく降ってきた声に肩を跳ねさせる。
 声の発信源は直ぐに分かった。右斜め上、二階へと繋がる木製の螺旋階段を。ゆっくりと音もなく人が降りてくる。
 それは、男だった。そう、彼女が直ぐに性別を推し量ったのは他でもない、高い痩躯と髪型、無骨な眼鏡からだった。
 何しろ飾り気がない。女性特有の凹凸が無い。化粧の気配はない。刈り上げた短い黒髪を撫で付け珈琲と煙草の臭いを漂わせ、混ぜながら。はたはたとシャツにベストというシンプルな格好を翻して、人は笑う。

「当代の案内人、兼管理人、タテスミと言います」

 タテスミ。不思議な名前だと少女は思った。
 それよりも耳に馴染む声は、彼女をもっと不思議な心地にさせたけれど。低くも浸透していくテノール。
 非現実感。一瞬惚けた少女に彼は、優しすぎる声で言う。

「外は雨ですか。タオルを、お使いになりますか?」

 勿論雨なんて降っているわけもなかった。真っ赤になった意識のまま水を頭から被らされてーそれで。
 その時はじめて、少女は自らの身に沁みた水の存在に気が付いたのだった。

 差し出されたのはお日様の色をしたタオルと、温かい飲み物だった。
 そしてタオルは少女の頭をすっぽり隠してしまえるくらい、大きかった。丁度良いかもとざんばら頭を隠すようにしてタオルを被ったまま肩口までだらしなく端を垂れさせて、彼女は勧められるがまま飲み物を口にする。
 喉が焼けるような甘さ。
 ココアだった。
 久しぶりの甘さに舌鼓を打って居ると、ずっと口を開かなかった舘隈が小さく微笑んだ。

「こんなにも若いお客さんは、久しぶりです」

 その語り口が余りにも甘いものであったから、むずがゆくなって少女は眉を下げた。

「そうですか」
「ええ。近頃のお客さんは、もっぱら国のお役人様くらいで」

 皆さん一通り、見て帰って行かれましたよ。くすくすとわらいながら彼が言うので、少女もつられて笑ってしまった。死体があるという噂に踊らされるなんて、暇な大人なのかなとのんびり考える。
 スーツ姿の人たちが、彼について見て回る姿は少し、滑稽かもしれない。

「此処は、何の、展示室なんですか?」

 ふと口を突いて出る彼女の質問に、彼の返事は澱み無かった。

「全ての、です」

 全てとは、聞き返す前に彼が立ち上がる。

「館内を、案内しましょう。そのまま、ココアを持って、いらっしゃい。お嬢さん」

 全く、甘いものだなと思いながら抗う理由も無いので彼の後ろに付いて行く。
 舘隅はタオルお化けになっている少女を伴って先のように螺旋階段を下り、扉を開く。玄関より少し奥まった場所にある空間、そこが展示室のようだった。
 入った瞬間、感じたのは冷気だった。ひやりと腕を撫でる空調に少女は驚く。中はこの建物のどこよりも冷えるようにしてある、と彼女の心境を見透かしたように舘隈は言った。言いながら、紐を引く。
 ぱちり、と少しずつ灯りが点っていく室内。連動する仕掛けなのか、奥までぱちぱちと一つずつ電球が輝き始める。薄暗くぼんやりと脈打っていく明るさに目を慣れさせるのが精一杯の彼女に彼は言った。

「ようこそ、ヒツギノヨカ展示室へ。此処は誰よりも我儘で何よりも優しい、展示室です。貴女だけの特別が、全ての中から見つかりますように」

 口上に、彼女の心は震えた。
 目の前には空間一杯に敷き詰められたものの数々。水槽や書棚の形を取るものもあれば、デパートのウィンドウのように大きなものもある。しかし圧倒的に水で充たされた水槽が、多かった。
 先代は創設者で―水槽や金魚鉢―水で充たせるような容れ物をとみに好いていたと声が、疑問を解かしていく。
 全て中には様々な展示品がびっしりと、各の姿を誇示するかのように犇めき合っていた。惹かれるがままに踏み出す彼女の、動きを制止することを舘隈はしない。
 ただ、連れ添うようにして半歩後ろを歩むだけだった。
 それから暫くは、互いに無言のまま。
 少女は展示された平凡なもの(それは庭先にあるような野花であったり彼女の身につけて居た洋服であったりした)から貴重で世に出回って居ないもの(レコード盤や遠く昔の和綴じの本、世界初の望遠鏡など)、何だって興味深く見つめたし、彼はそんな若い客の邪魔をすることなく、好きにさせていた。
 眺めている合間に言葉は要らない。ガラス越しの世界に目を奪われる。科学館だって博物館だってこんなにも、心を奪うものは無かったと、少女の心は浮き足立つ。言葉を紡がせない世界が、ひっそりと彼女を支配していた。

 少女が、余りの驚きに言葉だけでなく心まで停止してしまったのは、展示室内のものを三周四周と見回って、《特別展示室》と書いてある扉を開いたときだった。
 白い灯りに照らされた―入り口には大きな水槽。大きさは少女と同じくらい、大きく充たされた水の中、ふかふかと浮いているのはまるで生きているように生々しい女の子のお人形だった。

「そちらは先代より贈呈された展示品、マリーです」

 説明の声なんてそっちのけで見入ってしまう、美しさ。
 金色の髪が真っ青に水に溶ける。伏せられた瞳は窺いしれないが、やすらかに目を閉じるその姿は。とても綺麗、と少女は息を吐いた。

「気に入られましたか?」

 舘隈が少女を見て、微笑む。
 夢心地で彼女が頷くと、彼は小さく笑って端から椅子を引いてきた。使い古されたデッキチェア。それを水槽の前に置くと彼女に座るように促し、彼自身は膝掛けを取ってくると行ってしまった。室内に一人残された少女はひたり、と水槽の中の彼女を見つめる。
《特別展示室》はマリーのためだけに用意された部屋のようだった。他に展示品は見受けられない。
 彼女と二人きり。少女は、まじまじと改めてマリーを見る。
 本当に人間のような展示品だった。細部まで事細かく作られ制作者の拘りが散らばっている。形の良い唇。伏せられた真っ白な瞼。そして、首から下がるネックレスが酷く印象的だった。真っ青なワンピースが水の青と同化して、ともすれば手足だけが浮きだって見える。
 まるで、シェイクスピアのオフィリア姫のようだと拙い感想を、彼女は抱いた。狂ってしまって死ぬまで囀ずったお姫様。足を滑らせて眠りへぽちゃん、と

「ねえ貴女。何か私の顔に付いて居るかしら」

 声が。
 口が。
 目が。
 不意に動いて、少女はとても驚いた。口を「わ」の形に開けたまま固まってはくはくと金魚のように声もなく開閉を繰り返す。
 水槽のマリーは、そんな彼女の様子を面白がって言葉を重ねるのだった。

「あら、面白い」

 面白いことなんてない、と動悸を落ち着かせるのに彼女は必死になった。涙目の少女をガラス一枚隔てたところで見つめてマリーは深い緑の瞳を歪め、くすくすと美しく笑ってみせる。

「動かないと思って?全て、貴女の常識で計ってはダメよ。人一人の物差しってとても、短いんだから」
「え、あ、え」
「それに何かしら、その頭」

 言われて気が付いた。ほっかむりのようにしていたバスタオがいつの間にか少女の肩口に腰を落ち着かせて居る。思い切ってしまった気がかり。とっさにざんばら頭を両手で覆い隠した彼女を見つめ、マリーは跳ねるような愛らしい声で言うのだ。

「ずっとこの中なの。私と同じくらいのお客様は久しぶり。どんな専門用語に充たされた賛辞よりも面白い話が聞けそうでわくわくしているわ。
 ねえ、その頭に拘わる面白い話、聞かせてくれない?」

こんな美しい人に聞かせるお話じゃない。分かっているのにマリーの瞳は少女を捉えたまま離さない。
お願い。
 重ねられた懇願に、否定の言葉を紡ぎ出せるような余裕が少女には無かった。

 現実にはありふれたお話だった。
 忌避され追い詰められ踏みにじった沢山の記憶たち。物が無くなった閉じ込められた嫌な心地。軽薄な世界の対応にいい加減苛立ちが募って居たのだった。
 母が、父が、好きだと言ったこの髪を。我慢出来ずに虐げてきた人間の目の前で鋏を奪って切り落とした。少女の思い切った行動に、皆口を開け放して背中を見送った。はじめての逃亡。
 ざまあみろ、と思う。だけど少しだけ、ごめんなさいと、少女は積み重ねた年月を、思う。

 それだけだった。それだけのお話にマリーは一息吐くと、やるじゃない、と呟いた。ぷか、と大きめの泡がこぼれる。それを見遣って、恐る恐る少女は訊ねた。
 この展示品、他の展示品とは較べ物にならないくらいー格別な感情を注がれたであろうマリーに。

「なにが、」
「貴女の行動。やるわね。だけど、忌避のまま、脅えさせたまま世界を閉じちゃ、ダメよ」

 案外、知ったことを言う。
 言葉を失った彼女から次の言葉が出る前に、マリーが悪戯っ子のようににやりと笑って述べた。

「そうね。明日。丸一日学校を休みなさい。休んで、可愛くなりに行くの。
 目一杯、自分を甘やかして、可愛くなっておめかししてまた。戦場に戻るのよ」
「せん、じょう」
「そう、貴女だけの戦場。大丈夫」

 私が保証するわ、と水中で胸を張ってマリーが言う。

「貴女は勝てるわ」

 此処は、貴女だけの味方よとマリーが自信たっぷりに言うものだから。
 戦場なんて大袈裟だ、と反論することもなく少女は吹き出した。頷いて、笑って、壊れたように感情をさらけ出して真っ直ぐに目を合わせー言う。

「そうね」

 明日は学校を休もうかな、と思う。

「そうかもね」

 目一杯可愛くなって戦場へ、そうしようと彼女は心に決めた。
 決めてしまえばふわりと身体が軽くなった。家に帰ろう、と少女は立ち上がる。思考の海に浸って、―だからこそ来ると予期出来ていた筈の扉の開閉音に肩を跳ねさせた。陶酔感よりの目覚めは酷く恥ずかしい。

「おや」

 膝掛けを片手に、舘隈が少女の顔を見て笑う。

「お帰りになりますか?」

 その声に、優しい声に。
 彼女は頬を紅潮させて微笑んだ。

「はい」

 マリーは元のように目を伏せ水の中。
 微笑んだままで沈黙を守り、扉が閉まるのを見送ったのみだった。


 舘隈は迎えた時とは打って変わって晴れやかな表情になった少女を見送り、扉を閉めた。光に透かされたステンドグラス。全てがー全て。先代が用意した舞台だった。
 心の中でぼやいてみせる。マリー、またかい、と。
 返事は案外直ぐに返って来た。
 いいじゃない、退屈なの。動けない分の余興は、向こうから出向くべきでは無くって?旦那様。
 その声が余りにも楽しそうだったので、諦めたように彼は笑う。

《ヒツギノヨカ展示室》。

 それは心の居所に帰りたくない人が迷い込む、ただ一人のために全てが用意された空間である。
 そして今日もマリーが奥で微笑む。静謐の中。密やかに息ずく品々は全て、迷い込む羊を手薬煉引いて待っている。厄介なことに、彼女の深緑の瞳は格別に―酷く美しいのであった。
 そして羊は抵抗虚しく囚われる。絡め取られるように何度でも。
 舘隅は溜息一つ。暫くは大人しくしていて下さいね、という言葉に返事は無い。仕方のないお姫さまだと踵を返す。後に残されるのは秘密を孕んだ美しい水泡のみ。


20120817





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