二階堂浩平と合流し、小樽の森奥のとある村へ到着した頃にはすっかり太陽は昇り切っていた。私たちはそれぞれ浩平が用意した軍服、そして着物に着替え谷垣一等卒が療養しているという一軒の茅葺き屋根の家の前で立ち止まった。どうやら浩平が自分たちは谷垣の仲間であり様子を見に来た旨を伝えると喜んで招き入れてくれたらしい。

家へ入る際は全員で手を繋いで体を屈めて、という作法らしく先頭を行く子供の手を浩平が、その手を尾形が、そして差し出された彼の手を私が掴むという順番で家の中へ招かれることとなった。


「……オイ、何してる早く掴め」


差し出されたその手を握ることを躊躇ったのは、ここがアイヌ民族の村であること、そして話に聞いていた立地からしてアシリパさんの言っていた故郷かもしれないという疑念が拭えなかったからだ。

谷垣一等卒のことはよく知らないが、何度か小樽の兵舎で食事を運びに来た体格のいい男だった。口数は少なかったが私の食事の最中も急かすことや嫌味を言うこともなくその時間が穏やかで心地よかったのを覚えている。
しかし尾形の言い分では約一ヶ月前、行方不明となった造反組の三名はその企てに気づいた谷垣により始末されたのではないか、とのことだ。人の二面性や軍人の気性などは私にはわからないが、自分の印象では谷垣は裏切り者といえど簡単に同胞を手に掛けるようには見えなかったがーー、ともかく、尾形はその真偽を確かめるため、そして次なる密告を防ぐため彼に圧力を掛けに来たのだ。


つまり、その過程でこの家や村の人たちをも巻き込んでしまう可能性があるということ。そう考えるとその手を握ることは躊躇われた。


「……この家や、村の人たちには危害は加えないと約束して」

「……何故そんな無意味な約束を俺がせねばならん」

「……私の大切な人がきっと大切にしてる場所だから」


「ははぁ、あのなァ」


浩平の手を振り払うように離した尾形はその指先でトン、と私の鎖骨の下の方を突いた。強い力ではなかったが、彼が紡ぐ言葉にじくりと胸が痛む。そしてあの時、この小樽の森で初めて目の前で人が殺される瞬間を目にしたことを思い出した。あの刺青の囚人の命を奪ったのは紛れもないこの男だ。


「ソイツは偽善ってやつだぜ、お嬢さん。大切な人間の大切な人間はアンタにとって他人だ。俺について来たんなら、他人を殺してでも生きる覚悟を決めろ」


そんなぐずぐずとした私たちのやり取りに痺れを切らした浩平が呼びに来る。それに片手で自分の髪を撫で上げた尾形がハイハイとため息をつくように再びこちらへ背を向けると、私は男のその無骨な手を掴んだ。
尾形の言うことは尤もであった。初めから私にこの男の手を取る以外の選択肢などなかったのだ。ただ、自分だけは悪者でないと予防線を張りたかっただけ。そんな愚かさすらこの男に見透かされているようで、鶴見中尉と対峙した時とはまた異なる気味の悪さを尾形に感じる。


「……まァ、安心しろよ。バァちゃん子の俺に良心が痛むような真似はできん」


そう言って虚無的な笑みを浮かべるその男に口から出任せを、と内心悪態をつく。握った男の手はまるで死人のようにひどく冷たかった。









中へ入ると畳一畳ほどはある大きな囲炉裏が印象的だった。ランプの明かりはなく、昼間は窓から入る自然光だけで生活しているだろうその家の中はけれどどこかあたたかかった。私たちを出迎えてくれたのは一人の老婆と、そして多少日本語が解るらしい小さな子供。「あたしオソマ」、そう自己紹介をしてくれたから女の子なのだと分かった。その名前がなんだかウンコ的な意味だった気がするのはこの際無視しよう。


「フチがお腹空いてるかって。お昼ごはんは食べたかって」


そう女の子――もといオソマに訊ねられて私は思い出したように腹の虫が鳴るのを感じた。そういえば、早朝に逃げ出してから何も食べていない。フチーーアイヌ語でたしか祖母を意味するその人は私たちの返事を待たずにすでに鍋の中でくつくつと煮える汁物を器によそっていた。道理でいい匂いがする訳だ。


「ありがとうございます。実はすごくお腹が空いていて」


「谷垣ニシパが戻ってくるまでゆっくりしてって」


「これは何の鍋なの?」


「干した鹿肉とプクサキナとプクサ」


「ユクオハウ」

「ユクオハウ……」


お礼を言って囲炉裏の前に腰を下ろすと今まで黙って見ていた尾形と浩平も同じようにそれぞれその場に座った。ユクオハウ、たしかオハウが鍋物、汁物を意味する言葉だったから鹿鍋か。プクサキナはあのリス鍋に入っていたニリンソウだから、もう一つも山菜なのだろう。フチが口にしたアイヌ語を真似するように復唱するとその目尻に一層皺を刻んで優しく笑ってくれた。そして私たちはそれぞれ器を受け取ると両手を合わせてユクオハウを口にした。


「うん、おいしい……ヒンナ」


「…何だそれは?」


「食事に感謝する言葉だって」


「フーン……ヒンナ」


「………」


アシリパさんに習ったようにその言葉を口にすれば浩平も私の真似をした。その様子を横目に優しい笑顔を浮かべたフチはまな板の上で魚の刺し身のようなものを切っていく。どうやらそれは鮭を凍らせて半解凍したルイペというものらしい。それも頂くと口の中で溶けてとても絶品で、至れり尽くせりの待遇に自分たちの目的を思い出し後ろめたさが募る。



「シンナキサラ!」

「ん……なに?」


「バァちゃん、肩もんでやろうか」


オソマが私の耳を指さして言う言葉の意味は不明だが私の耳たぶを掴んでふにふにと触るその様子はかわいくて目を合わせて笑った。そんな私たちを横目に腰を上げた浩平は意外な提案をする。「俺、上手いんだぜ」そう言いながらフチの背後に再び腰を下ろし肩たたきを始めた浩平にフチも嬉しそうな様子だった。



「……なんか懐かしいな。私、子供の頃はほとんど祖父母の家にいたから」


「…ああ、母親は死んだって言ってたな」


「そう、父は仕事だから。母方の祖父母の家に預けられてたんだけど、そこも古い家でなんとなく雰囲気が似てる」


「……」


「尾形上等兵のおじいさんおばあさんはどんな人たちだった?」


囲炉裏の火が燃える。薪木が時折パチパチと爆ぜる音がする。昼食のにおいとあたたかさの籠もったこの場所は現世の慌ただしさを忘れさせる。ここへ来てからずっと黙りを決め込む尾形に話を振ると、やはり彼は口を噤んだままだった。元々口数の多くない男だが、輪をかけて喋らない。そんな様子に違和感を抱いていたが、ややあって尾形はぼそりと聞き取りづらい声で話し始めた。


「別に……普通のジイさんバアさんだ。ジイさんは銃の扱いを俺に教えて、バアさんは飯を作った」


「そうなんだ。おじいさんが銃を」


「………お前の」


「ん?」


「母親は何故死んだんだ」


「私を産んで死んだんだ。だから写真でしか顔も知らないし。………私は、」



言葉を紡ごうとしてそれを優しく遮るように何かがくいっと着物の袖を引いた。見ればオソマが立派な眉を下げて悲しい顔をするものだから、少し笑って頬を撫でると膝に乗せてやった。その様子を尾形は特別言葉の続きを訊ねることもせず、やはり黙って見ていた。そんな時、不意に入口からの光を遮って大きな一つの影が落ちる。途端に膝の上に座っていたオソマは待ちわびたように駆け出し「シンナキサラ」。あの言葉をその人物に伝えた。


狭い入り口を億劫そうにその大きな体を屈めて入ってきたその男は、私たちの姿を目にするとわかりやすく顔色を変えた。


「谷垣源次郎一等卒……」


まるで獲物を捉えた喜びを表すようなその声音は先ほどまで私と会話していたそれとは全く違った。場の空気が一瞬で張り詰めたのを感じる。私はこの先の展開を想像して一つ緊張に喉を鳴らした。


14112022



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