「……撃つの?」


「俺の腕を舐めてもらっちゃ困る。奴以外に当てるような真似はせん」


「……」


その返事の後間髪入れずに引き金を引いた尾形の指先に迷いはなかった。こちらが心の準備をする間もないまま響いた衝撃波に寒さとは違う冷たさが背筋を上った。


「外れたようです」

「……」


「手っ取り早くあの場で殺してしまえばよかったのでは?」


「あの場でやれば目撃者も殺さなければならん。バアチャン子の俺にそんなことをさせるな」


どうやら弾は外れたらしい双眼鏡を覗く二階堂の報告に小さく舌打ちをする尾形とほっと息を吐く私。そして良心の痛むようなことを宣う男の本心は不明だが、あの場で殺し合いになるような事態は避けられたことに僅かながら安堵した。
あれから緊迫したやり取りを展開した尾形と浩平、そして谷垣だったが、結局造反のこと、杉元佐一のことも知らないと突き通した彼に、尾形もまたあっさりと身を引いた……ように見えたのだが。しかし尾形が谷垣へ向ける疑いは晴れていないなかったようで、チセを後にした私たちは三百メートルほど離れた見晴らしの良い丘の上に移動していた。そこから谷垣一等卒を狙撃するらしい。元より、真偽を確かめるよりすでに殺すつもりでこのコタンへ来たのかもしれない。情報を得られないとわかれば謀反の企てとともに谷垣を闇へ葬る。恐らくその算段で尾形は彼の歩兵銃からボルトを抜き取ったのだ。



「……谷垣は真面目な男だ。鶴見中尉を出し抜こうなどという話には乗ってこないと玉井伍長には釘を刺したのに」

「……」


「玉井伍長たちは谷垣の説得に失敗し返り討ちにあったと考えるのが自然だろう。鶴見中尉より先に私たちに居場所を知られないよう人を使わず完全に回復するまでアイヌの村に潜伏し、鶴見中尉に直接会って我々の謀反を伝えるつもりだったに違いない」


「………そんな、計算高い男には見えなかったけど」

「お前に何がわかる?」


雪の上に腰を下ろした尾形は自身の左腕を土台に銃を構えスコープを覗く。躊躇いがちにこぼした言葉は淡々と一蹴された。尾形の言う通り、付き合いの長い彼らの方が遥かに私より谷垣のことを知っているだろう。無事でありながら部隊へ報せを寄越さなかった谷垣の行為は脱走兵と見なされるらしい。造反を企てた彼らに言えることではないが、ともすれば制裁を受けるのは妥当かもしれないが……。


雪と土とが混ざりあった汚れた地面に尾形の外套の裾が広がり私はそれを踏まないよう遠巻きに見ていた。それから何度かあちらが双眼鏡や煙幕でこちらを煽ったり、尾形の方も再び引き金を引いたりとお互いの出方を窺っていたが、谷垣の方が一枚上手だったようで壁に穴を開けて私たちの死角から逃げ出すことに成功したようだった。それに安心して良いのか、どうなのか。


「谷垣狩りだぜ」


そう、少し面白そうに言う尾形に私は徐々に下がりゆく気温の中で一層白く染まった息を吐いた。









「笹薮から出た足跡を見つけました。ほんとに手負いか?あの野郎…」


「手負いだが奴はマタギだ。山でどう逃げられると追っ手が困るか知り尽くしてる」


「わっ、……と、」


「……オイ、気をつけろ鈍臭ぇ」


「ごめん、ありがと浩平…」



ブーツのつま先が雪に隠れた木の根を踏んだ。それにバランスを崩した体が助けを求めるように手をばたつかせたところ、それを捕まえたのは浩平だった。礼を言うも浩平はそう言うと素っ気なく手を離して尾形の後ろを歩いてゆく。そんな後ろ姿を見つめて、思えばあの小樽の兵舎で監禁されていた頃以来、浩平は私に意地悪を言うことも、逃亡したことを怒ることもしなかった。それどころかまともに言葉を交わしていない気もする。別に私たちは友人ではないからそこに特別何かを思うわけではないが、彼の中で何か気持ちの変化があるのだろうか、と考えることは自然だった。それをもたらしたのは勿論兄弟を杉元に殺されたことだろう。


あの時チセへ帰ってきた谷垣は松葉杖をついていた。どうやら右足を怪我している様子だったが、にも関わらずこの長い笹薮から抜け出た足跡を見つけたという。さすが見た目通りタフな男といったところか、加えて尾形の言うように東北マタギの出身らしい谷垣は山での戦い方を知っている。今夜中にこの膠着状態を打開することは不可能に思えた。



「完全に見失いました。日が暮れますよ」



浩平がなだらかな丘を登る途中で振り向いて言う。尾形もまた白い息を吐きながらどうしたものか、と自身の髪を撫でつけた。


「どのみち俺たちはもう鶴見中尉の元へは戻れない。谷垣が残りの造反者を中尉に報告しようがもう俺の知ったことではないですよ」


「見捨てるのか」


「……もう俺は金塊なんてどうだっていいです。一分一秒でも早く杉元佐一をぶっ殺したい」



頬を撫でる風の厳しさに、心まで凍てつくようだった。私はあの小樽の兵舎で交わした彼の片割れとの会話やその仕草を思い出していた。見た目はそっくりでも当然言葉の端々や表情の一つに違いは現れる。二階堂洋平はもうこの世にいないのだ。故郷に思いを馳せ、厳しい環境と任務に耐え、その時間を共にした肉親を亡くし今復讐のためだけに生きようとするこの男にかける言葉などなかった。そして惚れた女のため金塊を探す男も、世話になった恩に報いるためこの男を利用した私も、一体誰が責められると言うのだろう。



「……今日はもう休もう。直に夜になる」



ようやく口にした言葉に返事を返す者はなかったが、もうすっかり山の向こうへ姿を眩ませている夕日に私たちはそれとなく今夜の寝床を探し始めるのだった。









奥歯がかたかたと震えて音を鳴らす。外套に加えて浩平が背嚢に仕舞っていた毛布を与えられた私はそれでも氷点下だろう気温にもはや話す気力もなくなっていた。息も、体内の冷たさを表すように白さを無くしただ闇の中へ溶けてゆく。呼吸をするたび喉がひりついて苦しいのでせめてもと頭から毛布にくるまりその中で息をした。


「…火を起こしていいですか」


そう、浩平が訊ねたくなる気持ちも頷けた。それほどまでに命の危険を感じる寒さだった。私たちはそれぞれ近くの太い木の幹に体を預けそこを寝床としていたがアシリパさんが用意してくれた仮小屋に比べると野宿というより遭難に近い。しかし今の私たちには目立つ動きもそれをする手段もないのだ。


「……焚き火なんて居場所を知らせるようなものだ。闇に紛れて襲われるぞ」


「…上等ですよ。探す手間が省ける」


「……」

「うんざりだ。クソ寒い北海道も、屯田兵も何もかも……。……故郷の、静岡に帰りたい」


そうこぼした浩平の言葉は森の中の闇へ消えた。小刻みに震えながら静かに目を伏せる尾形はそれに何を言うこともない。静かな夜だった。恐ろしいほど。夜の闇や雪の白やすべてを凍らせてしまう冷たさというのは美しいものだと、この過酷な状況下で馬鹿なことを考えた。
私は不意に立ち上がると急に動きを見せたこちらへ二人の視線が移る。そしてそのまま浩平の隣へ腰を下ろすと、羽織っていた毛布を広げて浩平の体を覆うようにした。すっかり冷え切った体の奥から触れた体温が軍服越しにじんわりと染み出してくるように感じる。浩平は私の突然の行動に言葉もなく固まっていたがそれは寒さによる硬直ではなく動揺が伝わってくるようだった。



「……私ね、体温高いの。そんで、けっこう汗っかきなんだ」



冷たい心や体を解すようにぎこちない浩平の手を取って、そのかさついて骨ばった男の指の間を自分のもので一つずつ割入っていく。親指、人差し指の間、中指の間……。そうしていくうちに氷が溶けるようにじんわりと熱を持った手のひらはそれを逃がすように今度はぬるい汗を帯びる。それは、もはやどちらのものとも判別がつかないが湿り気を帯びた指紋を撫でるように指を動かせば浩平の体がびくりと震えた。汗の感触は消して心地よいものではないのに、浩平はその手を離すことはしなかった。そして皮肉や小言を言うこともなかった。


「ホラ、ね……」

「……」


浩平はやはり何も言うことはない。しかしこの手が離れてしまえばこんなに熱い手のひらの熱もまたこの地の冷たさに奪われてしまうだろう。そう思うと離し難かった。そんな私たちの様子を尾形もまた何を言うでもなくじっと見ていた。夜は更けてゆく。明日になればまた誰かが死ぬだろう。そう思いながらも私たちは明日が晴れることを望まずにはいられないのだ。


「おやすみ、浩平。良い夢を」


そう言って彼の肩に頭を預ければ少しして同じようにこちらへ体を預けるような感触がした。繋がれた手はそのままに、この凍えそうな夜に私たちは静かに目を閉じたのだった。


14112022



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