「ーーうう、勇作……殿、」



起きぬけに、苦しそうな男のうめき声をどこかに聞いてナマエはその意識をゆっくりと覚醒させる。裸足を床につければその冷たさに身震いをするような北海道の朝だった。ナマエは毎朝のそれを想像しては布団から出ることが億劫で、しかしいつも静かに眠るその男が珍しく魘されているものだから起こしてやろうと身じろぎをした。ところで、もう一人の聞き慣れた男の声を耳にする。



「勇作殿ぉ?」



その男ーー宇佐美上等兵の遠慮のない声量に計らずも尾形百之助は目を覚ました。起床して初めに視界に映すものが宇佐美上等兵とはなんだか胃もたれがしそうだ、と考えつつナマエは彼の声を聞いて慌てて背中を向けて寝た振りをする。昨夜の尾形との会話を思い出しその後ろめたさと、まだ日も完全に昇り切っていない薄暗い早朝に姿を現した宇佐美への警戒心が、一先ず様子を窺うのがいい、とナマエに判断させた。


宇佐美は間近で尾形の顔を覗き込むと鼻を鳴らして小馬鹿にするように笑った。尾形はといえば突然現れた宇佐美に特に動揺することもなく普段通りの無表情を保っている。そんな二人の雰囲気にナマエは緊張しながらも尾形が口にした勇作殿、とは一体誰のことだろうかとその名前が引っ掛かっていた。



「具合はどうだ?百之助。昨日は二階堂一等卒が見舞いに来てくれたそうじゃないか。よかったな、お前友達いないのに」


「………」


「みかんなんていいモン貰ったじゃん。こっちでは中々手に入らないだろ、コレ。上官思いの部下だねぇ。……で、何話したの。二階堂一等卒と」


「………」


「わざわざ僕の留守に来ちゃってさァ、お前が裏で造反組を煽ってたのはわかってるんだよ。奴らが死んだと見れば今度は二階堂か?」



穏やかな彼の口調が徐々に語気を荒げるのは何度聞いても心臓に悪い。宇佐美は尾形の胸ぐらを掴んで問い詰めるも一向に口を割る様子がないどころか反応も見せない尾形に焦れたように土足でベッドの上に上がった。そしていつかナマエにしたのと同じように彼の体を跨ぐと自白を促すようにそのスプリングを揺らして見せた。ナマエはなんだろう、このシュールな拷問は……。と思いつつ、しかし宇佐美上等兵の勘の良さに背筋に冷たいものが走った。




「鶴見中尉殿のなにが不満だ?」




そう宇佐美が問うもやはり反応を示さない尾形はされるがままにベッドの上で無抵抗に揺らされる。これも効果なしと悟ったのか宇佐美はベッドから降りると今度は友人に語りかけるように彼の傍らに腰掛けた。「まさか…あのことか?」と問われた尾形は宇佐美の目を見る。あのこと、について詳しい言及はなかったが二人の上等兵の間にはとある一つの出来事が脳裏に浮かんでいたのはたしかだった。
反対にその言葉が示すものを想像できないナマエは尾形が造反を企てた理由に迫る話の流れに耳をそばだてた。


「やっぱりあれでへそを曲げたんだろ!!花沢閣下殺害にはお前とは関係のない別の目的があったから!!」


「……」


「勇作殿を殺したのにお父上は愛してくれなくて、お父上を殺したのに鶴見中尉殿は代わりに愛してくれなくて、誰もお前を愛してくれる人がいなくて不貞腐れて全部鶴見中尉殿のせいだって逆恨みしてんだろッ!!!」



尾形の胸元で拳を握りしめてその怒りをぶつけるように宇佐美はぐ、と彼の体を抑え込んだ。尾形は宇佐美の一方的な言葉に否定も肯定もしない。そんな曖昧な態度が彼をさらに苛つかせ、そして今後二度と今回のような悪さができないように、と釘を刺すつもりで宇佐美は尾形の顔を覗き込み現実を突きつけるように言った。尾形の顔に興奮した宇佐美の唾が飛ぶ。


「わきまえろよ!!僕たちは鶴見中尉殿の「駒」なんだぞ!!」


「……」


「月島軍曹殿を見習え!!あの人は自分が「駒」だってよく分かってる。ただ僕が月島軍曹殿に嫉妬しないのは本当の鶴見中尉殿を理解できていないからさ!」


そんな彼らのやり取り(というか宇佐美上等兵の一方的な罵倒)を聞いていたナマエはその内容の深刻さに衝撃を受けた。つまりは、尾形は親に対して何らかのコンプレックスを持っており愛してほしいが故に父親と勇作殿とやらを殺害し、しかしそれを画策した鶴見中尉には駒として扱われ、その恨みにより造反を企てた……と、宇佐美は推察しているらしい。殺したいほどの憎悪や愛があるのだと理解はできるが、あまりに淡々と紡がれるその経緯はナマエにはフィクションのように思えた。その実、人を殺すことについて単に引き金を引くことや息の根を止める行為、と捉えている上等兵二人とナマエの間には考えの齟齬があるのだが。



「僕もお前もこの女も!!月島軍曹殿や勇作殿や鯉登のボンボンと同じ「駒」なんだよ!!いっちょまえに鶴見中尉殿に盾突きやがって、可愛さ余って憎さ百倍で執着してるんだろッ!!僕にはわかるんだ!!お見通しだぞ!!」



そんな状況下でナマエは唐突に自分の存在を引き合いに出されて内心びくりとした。が、宇佐美が彼女の狸寝入りに気づいている様子はない。もとい興奮で恐らく彼女に意識は向いていない。

尾形がご主人様の気を引きたいがために悪さを繰り返す猫ならば、宇佐美は主人にどこまでも忠実な犬のようだった。それは狂気を感じるほどに。そしてこの複雑な愛憎模様すら鶴見中尉が作り出したものだとすれば、すでに鶴見ワールドにどっぷり浸かっている二人には決して本当の鶴見中尉など拝める日は来ないだろうに、とナマエは自分はさも第三者である視点で考えるのだがそんな彼女またその片足をすでに戻れぬところまで突っ込んでいることに気づいていないのだ。


そんな激高する宇佐美の耳に小さく低い声が届く。


「……え?」


思わずそう訊き返すと宇佐美は普段以上にボソボソと、かさついた唇が紡ぐその言葉に耳を傾けた。





「……その陳腐な妄想に付き合うとすれば、宇佐美は「駒」でも農民出身の「一番安い駒」だな」




その言葉を理解した瞬間、宇佐美は無言ながら冷静に帯革に装備した銃剣を抜き取り素早く尾形の頭上に振り上げた。その間ほんの数秒のこと、憎しみに奥歯を噛み締め青筋を浮かべるその男が尾形の顔に切っ先を振り下ろそうとするより前に、こうなることを予想していたように尾形はベッドの下から携帯型小便器を振り上げて宇佐美の顔面を殴打した。



「えっ……!?!?何!?!?」



ほんの僅かな静寂が訪れたと思えば鈍い音とともに人が倒れる音。それと同時に何か金属のようなものが床に転がる音。この数秒の間に一体何が起きたのか、と今まで背を向け狸寝入りを決め込んでいたナマエもさすがに驚いたように飛び起きた。見れば脳震盪を起こしたらしい宇佐美上等兵が銃剣とともに床に転がっており、その側には凶器とみられるオマル。その状況を把握するまでにまごついたナマエだったがそんな宇佐美を捨て置いてベッドから降り駆け出した尾形が一度だけこちらを振り返る。



「オイ、何ボサッとしてる!!来い!!」



そう怒鳴られてナマエは入院着のまま早朝の床の冷たさも忘れて裸足で飛び出した。目の前を行く男はもうすでにナマエの存在など意に介さず先を走っている。逃亡の決行日は翌週の宇佐美が非番の日だと聞いていた。計画が狂ったということだろう。そんな幸先の悪さとこの尾形百之助という男が思いの外壮絶な過去を背負っていると知り果たしてこの男と逃げることは自分にとって得策なのだろうか、という不安が今更ながらナマエの脳裏に過ぎった。
そんな不安を見透かすようにナマエの首に我が物顔で収まった赤い首輪が背後から何者かの手により引っ張られる。思わずぐえ、と蛙が潰れたような声を上げたナマエだったが、そんな引力を感じる方向へぎぎぎ、と恐る恐る首を回して見ればそこには地べたを這いつくばりながらナマエの手綱を握る鬼の形相の宇佐美上等兵がいた。



「………ミョウジナマエ〜〜〜〜」



「ヒッ………!?!?」



尾形にまんまと一杯食わされた怒りやそれに乗じて抜け出そうとするナマエへの憤りをすべてぶつけたその見た目通り地を這うような声を出す宇佐美上等兵にナマエは短い悲鳴を上げる。首輪に繋がる手綱を引き、恐らく脳震盪による吐き気や目眩などと戦いながら徐々にこちらへ距離を詰めてくる宇佐美はさながらホラーである。彼の手が立ち竦むナマエの足首へと伸びた。冗談じゃない、ここで掴まれると恐らく女の力では逃げ切れない。尾形上等兵は初めにナマエに声をかけて以降我関せずと言わんばかりに先を急いでいる。この判断が正しいかどうかはわからないが、今この状況で宇佐美に捕まることは最も最悪な道だ。



「………ご、ごめんなさーーーい!!!!」



そう判断したナマエは渾身の力を振り絞って息も絶え絶えな宇佐美の顔面を蹴り飛ばした。宇佐美はぶっ、……!!と短い悲鳴を上げて少し先の床に転がった。その衝撃で手綱を握る手が緩んだのを確認したナマエはまるでリードを外された犬のように一目散に逃げ出した。ごめんなさい、思わずそう謝ったのは宇佐美の今にも噛み付いてきそうな人を殺しそうな目が怖かったからだが、正直、一蹴できたことは今までの屈辱が少しだけ晴れたようで気持ちがよかった。



「待って!!!尾形上等兵!!!」



同じく入院着に裸足で走るその男の背中に追いついてナマエはついに二度目となる第七師団からの逃亡に成功したのだった。


02112022




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