遠くあの少女の声を聞いた気がする。青い瞳に意志の強い光を湛えた、アイヌの少女。その声に導かれるように薄らと開いた視界にはぼぼんやりと古びた木製の天井が映った。しぱしぱと何度かまばたきを繰り返して、ようやく頭が徐々に回転していくのがわかる。そうだ、私はあの狙撃手の男とともに川へ落ちたのだ。それも小樽の二月の寒空の下で。どうやら、生きているらしい、と少し奇跡を体感したような気持ちでまだ重い体や油の切れたブリキ人形のようにぎこちない動きをする首を回すと、隣のベッドにはあの狙撃手の男も眠っていた。それにケッ、と内心悪態をつく。そしてどうやらここが病院らしいことを確認した。



「……あれ、あっ……!!気が付きましたか!?お加減はどうですか、もう三日も眠っていたんですよ」




するとそこに、不意に爽やかな声色で誰かに話しかけられた。ベッドに横になったまま、そちらへ首だけ動かすと一人の兵士が足早に枕元まで歩いてくるのが見えた。両頬、もとい唇の左右に対象的なホクロを携えた優しそうな青年だった。しかし彼の肩章に記された “27”の数字に内心ああ、詰んだ。と思う。
狙撃手の男が私を探していたなら周囲に他の兵隊がいてもおかしくないが、よりによって第七師団に助けられるなんて。否、一命は取り留めたものの未だ私の命は風前の灯火だろう。なんたって見張りの一頭卒を誑かし、鬼軍曹を嵌め逃亡した挙げ句スナイパーとともにこの有様である。加えて隣のスナイパーは右腕が折れ、顔にも包帯を巻かれた状態で明らかに重症である。眼前の青年の言葉にも瞑った目を開ける素振りもない。


「………私は、」


「三日前森の奥の川岸であなたと隣の尾形上等兵を兵士たちが見つけました。発見がもう少し遅れたら低体温症で死んでいたそうですよ。不幸中の幸いですね」


「……そう、……ですか……。………あの、鶴見中尉は」


「鶴見中尉殿は小樽の兵舎におられます。意識が回復したと伝えればきっと見舞いに来てくださいますよ。……ああ、挨拶が遅れましたね。僕は宇佐美時重といいます。鶴見中尉殿より、あなた方の世話役を任されています」



「………ウサミ、さん……」


まだあまりはっきりとしない意識の中男の特徴的な唇からつらつらと紡がれる言葉たちをぼんやりと聞いていた。宇佐美………上等兵。と、袖章の三本の線を見て確認する。監禁中に得た階級を見分ける知識である。
やはり青年の言う通り私は九死に一生を得たらしい。そして鶴見中尉はまだこの病室を訪れていないことを知る。その情報を得た私の頭はすぐさま次の逃走計画を謀る。見たところこの青年の他に兵士はいないようだし、あの軍人がうじゃうじゃいた兵舎に比べればこの病院を脱走することの方が容易いだろう。


それに、宇佐美上等兵。この青年とは初対面だが見たところ話が通じそうだし、正直二階堂浩平よりもチョロそうだ。彼の名前を繰り返す私に宇佐美上等兵はにこりとその唇を引き伸ばして笑みを浮かべた。そして手のひらを差し出す。



「ナマエさんですね。鶴見中尉殿から話は伺っています。どうぞよろしく」



礼儀正しい挨拶とともに差し出された手はするりと私の左手を握って、あ、左利きなのか……と柔和な見た目に反して節くれ立った無骨な手の感触をぼんやり感じていたところ、ぐ、と思いの外力強く握られたそこは電撃が走るような激痛を覚える。



「イ"ッッ……!?ダダダダダ!?!?!?」


「あ、すみません。左手折れてるの忘れてました。全治四週間から六週間だそうです」



涙を浮かべながら叫ぶ私に青年はさらりと言う。意識が混濁していて気づかなかったが、言われた通り左手を見ればそこはバッチリギプスで固定されている。その一連の出来事に私の頭は一気に混乱した。
……え?だってギプス、見えるよね?まさか忘れるなんて……そんなことないよね?そもそも握手って普通利き手でするし……いや、彼が単に左利きの可能性も………いやいやいやいや。



「あ、あの……」


「ナマエさんには感謝してるんですよぉ。何を企んでるのか、勝手に単独行動した挙げ句この有様のコイツをこうして僕らの元へ連れ戻してくれて。このバカにはまだまだ貸しがありますからね」



呼びかける私の声など耳に届かない様子の宇佐美上等兵は薄ら笑みを貼り付けてつかつかと軍靴の鋲を鳴らしながら隣の狙撃手ーーもとい尾形上等兵の元へ歩いてゆく。そして未だ意識不明の重症であろう彼のベッドへ無遠慮に腰掛けたかと思うと何がそんなに憎いのか眠る彼の顔を掴んで耳元でそう声を荒らげた。優しげだと思っていた彼の微笑はただ貼り付けられただけの偽の笑みだと気づいたのも、穏やかな声色の中にたしかな怒りを含んだその口調も、なにかヤバイ、と人間に本能的な危機感を抱かせるものだった。



「………でもナマエさぁん。逃げるのは頂けない。あんなに鶴見中尉殿に良くして頂いたのに、恩を仇で返すような真似は……許容しかねます………」



その怒りの矛先が、徐々にこちらへ向いてくるのを感じ取って私は変な汗が止まらなかった。そもそも、いつ私が鶴見中尉に良くしてもらったか。恩を仇で返すも何も、滅茶苦茶理不尽なことはされたけど、恩を受けたことなんて一度もないと言い切れる。
駄目だ、この人。話通じないし明らかにヤバイ奴だし第一印象詐欺すぎる。そう警戒しながらもベッドに横たわったままの私の顔の左側、耳殻をひやりと何かが掠めて目にも止まらぬ速さで突き立てられた。ひゅ、と風を切る音とともに耳元の髪の毛を幾らか巻き込んだそれは、紛うことなき銃剣だった。


「………ぎ、ギャアアアアア!?!?!?」


「チッ、うるっさいなぁ。病院では静かにしないとダメですよ〜?」



顔の真横に何の迷いもなく突き立てられた銃剣にきらりと恐怖に染まる自分の顔が映る。私は勢いのままごろりとベッドから転がり落ちると打ち付けた体の痛みなど意に介さず一目散に病室の外へ走り出した。冗談じゃない。殺される。看病という名目で絶対殺される。そうなる前に無謀でも逃げてやる。

もはや正常な判断のできない頭で病院着のまま走り出した私の足は幸いにも異常はないようで、どうやら腕が折れた以外は奇跡的にも軽症のようだった。



「どこへ行くんですかぁ〜?ダメですよ、安静にしないと早く元気になれませんよ」


「いやッ、アンタに看病されたら元気になる前に死ぬわ!!!」


「大丈夫ですよ。殺しませんよ。鶴見中尉殿のご意向なので。骨は折っちゃうかもしれませんが」


「それ全然大丈夫じゃないでしょ!!!」



逃げる私を余裕綽々に追いかける宇佐美の恐怖たるや。しかも命は取らないまでも拷問する気満々な発言にこの男の闇を知る。頭の片隅では到底逃げることは不可能な鬼ごっこと理解していても穏やかな表情で物騒な言葉を吐きながら追いかけてくる不気味な軍人相手には逃げざるを得ないだろう。
しかし彼の話では凡そ三日間も昏睡状態であったらしい体はあの時銭湯の前で繰り広げた逃亡劇と同じようにはいかず。早々に息が切れて貧血のような目眩がしてくる始末。そんな時、ああ追いつかれる、と絶望的な気持ちになった私の前にふと一人の男のシルエットが現れた。その影が膝に手をついた私の頭上へ落ちる。



「!!!つ、月島軍曹………!!!」



そこに憮然たる面持ちで立ち尽くしていたのはあの時私が撒いた月島軍曹その人だった。軍人然、はたまたならず者然としたその強面な男は、しかし今の状況において背後から追い立ててくる優しい顔をした頭のイカレた男より幾分か安心できる存在であった。私は銭湯の前で彼に吐いた暴言やそもそも彼を騙して逃亡したことで上からそれなりの制裁を受けただろうことはさておいて、迫り来る宇佐美から隠れるように月島軍曹の背中へと回った。


「……意識が戻ったのか。そのくらいにしろ、宇佐美上等兵。また倒れられたら面倒だ」


「私ウサミやだ!!!月島軍曹がいい!!」



「奇遇だな。俺もお前のお守りは御免被りたい」


「えっ!!」


「ブーーッ!!振られてやんの!!」



さすがに逃亡犯に見舞いの品はなくとも、様子を見に来たらしい月島軍曹は、一旦は宇佐美を落ち着かせてくれたが私の懇願を拒否すると首根っこを掴んで簡単に悪魔へと売り渡しやがった。なんてこった。どうやら私はあの一件でずいぶん軍曹から恨みを買ってるらしい。そんな振られた私を思い切り嘲笑う男の意地の悪い顔にもはや初対面に見た爽やかさはない。
一難去ってまた一難。奇跡的に一命を取り留めたはいいが、また新たな難題に、それも今度は二階堂浩平以上に厄介なその男の存在に私は力なく肩を落とすのだった。


24102022



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