「ふぅ……少し休憩……」



乾いた枯れ木や落ち葉を拾い集めたり、くくり罠に掛かった小動物を罠から外してトリガーを仕掛け直したり、途中森の奥へ入り込みすぎて道に迷ったりとしているうちに日が落ちてきた。暗くなる前に帰ると言っていた二人はそろそろ家路につく頃だろうか。背負い袋を小屋の中に下ろすと外へ出て沈み始めた夕日を眺めた。気温が下がり夜が近づいてくる気配がする。くっ、とひとつ伸びをすると視界の先に白い雪の中に混じって二つの黒い耳先が動いているのが見えた。ウサギだ。白くてモフモフしててかわいいな、と昔飼っていたウサギを思い出して懐かしい気持ちで一歩近づいた。すると、



「わっ!!……と、」



雪に埋もれて見えなかった大木の樹根がブーツの爪先を引っ掛けた。私は慌てて踏みとどまったが運動神経のなさが災いして「あーー……」と諦めの声を上げながらスローモーションに倒れてゆく。それと同時だった。何かが右足のブーツを掠めたような感触がした。私が体の前面を雪につけてつべたい、と思う間もなくーーカアアン!!と衝撃波が強く鼓膜を揺らした。



「ーーえっ………!?!?」



何だ、と思う間に本能的に心臓が鼓動の速度を上げてゆく。衝撃波とともに私の足元をすり抜けて何かが地面の雪を巻き上げた。散ったキラキラと夕日に照らされる細かな新雪を綺麗だ、などと思う余裕はもちろんなく、撃たれたのだ、と理解するのがやっとだった。どうしよう、逃げなきゃ。冷静さを保とうとする脳味噌とは裏腹に心臓は恐怖を露呈するようにもはやその拍動に休みはない。私は震える体でなるべく体勢を低く小屋の裏まで這って身を隠した。そしてすぐに視界を遮ってくれる森の奥へと走り出した。敵がどこから何の目的で撃ってきているのかはわからないが、もしかすると朝方に感じた違和感もこの狙撃手によるものだったのかもしれない。だとすると逃げれば追ってくるはず。


新雪に足を取られながらも必死で木々の中を走ると時折小枝や飛び出した草が体を傷つける。そんなことを気にしている場合ではない。目指しているのはここから最も近場のくぐり罠を仕掛けたルートだ。くぐり罠、それは刺青人皮につられた獲物を狩る人間用のもの。そこへ誘導したい。
吸い込む空気は冷たく乾燥していて喉の奥がひりつく。緊張と激しい運動で上手く吐き出せない息に呼吸が浅く苦しくなってゆく。そんな時だった。目指していたくぐり罠のエリアに今の自分にとって唯一味方と呼べる二人の姿を見つけた。アシリパさんと杉元。二人はこちらに背を向けてアシリパさんは何やら書物をしているようだった。杉元の方は何か違和感を察知したのか不意に辺りを見回す。そんな杉元と息も絶え絶えな私の目があった。



「……のっぺらぼうさ。俺たちはそう呼んでいた」



「どういう意味だ?」




「顔がないんだ。」




顔が、ない。はっきりとそう聞こえた。その言葉が何を示すのか、男の体に刻まれた刺青はあの刺青人皮と同様のもので、二人は新たな囚人を捕まえたのか、なんてことを考える間もなく、それを最後に刺青の男の額から鮮血が飛び散った。その生暖かい血が頬に注がれて、衝撃に喉元までせり上がった悲鳴は声になることなく押し込まれた。



「ーーー」



アシリパさん、そう呼びかける言葉もないまま男、杉元は彼女の毛皮の首根っこを掴むと座っていた丸太から引きずり降ろして体を伏せた。私も咄嗟に同様にその場で体勢を低くする。撃たれた男は元より体を拘束されており倒れることはなかったが額からは美しいほどの赤い血液が穴の空いたバケツのように吹き出して足元の雪を染めていた。


「……」

「………」

「……あっ、オイ!!何やってんだ隠れてろ!!狙撃されるぞ!!」


「煙幕を張る」



荒い息を整える中、杉元と視線が混ざる。お互い無言だが杉元が何を思っているかその眼差しの鋭さが伝えてくるようだった。『お前が手引したのか?』そう問いたいだろう男の気持ちは尤もだった。あまりにもタイミングが良すぎる。仮に私が白だったとしてもこの狙撃手は金塊と、そして逃げ出した人質である私を追ってきたことは十中八九間違いないだろう。この目の前の刺青の男の後頭部をこうも見事に撃ち抜ける腕前ならば先ほど、足元を掠めた銃弾は狙われたものだったに違いない。私を手負いにして確保するために。どう転んでもこの場の戦犯は私である。


そう睨み合う私たちを尻目にアシリパさんは杉元の制止も聞かず山刀で近場の針葉樹を切り始めた。どうやら生木を焚べて煙幕を張るらしい。私は外套のポケットに入れていたマッチを取り出して火をつけた。そして杉元が軽く火種を吹くといとも簡単に生木は燃え始め大量の煙を出す。それに紛れて私たちはその場から駆け出した。先ほどの全力疾走の疲労で出遅れた私の腕を杉元は乱暴に掴んで引っ張ってゆく。



「ーー杉元、私、」


「いいから黙って走れ」



ごめん、だとか騙した訳じゃない、とかどんな言葉を口にしても言い訳になる気がしたが意外にも私を見捨てることをしなかったこの男に何かを伝えたくて口からついて出た言葉たち。けれど杉元はそんなことはわかっている、とも今さらどうでもいい、とも取れるぶっきらぼうな物言いで続く言葉を遮った。私は杉元に言われた通り口を噤んでひたすらに走った。そしてサルオガセが暖簾のように下がる太い枝の下を潜って、そこへ続く足跡をわざと残した後に二人と一人、アシリパさんと私、そして杉元と左右に別れて身を潜めた。まだ見ぬ狙撃手が私たちを追って罠に掛かるその時を息を殺して待つ。



「ーーッ、なんだぁ!?」



そして、その時は来た。警戒するように雪を踏みしめた狙撃手が銃口をくぐり罠に突っ込んだところ、引かれた紐がトリガーを外し瞬く間に銃はその反動で頭上へと巻き上げられる。狙撃手ーー男の驚愕した声にしてやったり、と思う間もないまま、向かいから飛び出した杉元は歩兵銃を振りかざして男の頭部を打撃しようと狙った、がすんでで躱される。男はそのまま杉元を押し倒すと彼の腰から銃剣を抜き出して杉元目掛けて刺し下ろした。



「ーー杉元!!」



万事休すか、と彼の目と鼻の先まで迫った剣先をなんとか歩兵銃でガードする杉元に私は一か八か、狙撃手の巻き上げられた歩兵銃を下ろすと男の後頭部に向かって振り下ろした。重さ四キロほどはあろうかというそれは女の力で振り下ろしたとあってもそれなりの打撃を与えられるだろう、狙撃手の勘か、それとも単に私が鈍いだけなのか、背後からの殺気に気づいた狙撃手は見開いた目でこちらを見た。そこで初めて頭まで被った外套の下のその男を見た。底の見えない真っ暗な瞳がこちらを覗いていて、一瞬どきりと怯んだもののそのまま力任せに男の頭を殴打した。



「……やれやれ、気の強い女だな」



ごっ、と鈍い音がして男が頭ではなく咄嗟に左腕でその銃を受け止めたのだと知る頃には杉元の体は反撃に出ていた。男を蹴り上げると体勢を立て直して銃を構える。「動くと撃つ」そんな言葉をまさか現実に聞くことになるとは思わなかった。


男の低くくぐもった声を耳元で聞いたと思った時には腹に強い圧迫感と衝撃を感じていた。ああ、蹴り飛ばされたのだと気づく頃には「う"っ、」と蛙の潰れたような声とともに雪の上へ転がっていた。そんな攻撃を仕掛けてきた男は間髪入れず私の髪を無理やり掴むと立たせ、杉元が構える銃の弾除けにするように顔を掴んで上を向かせた。耳元では多少荒い男の呼吸音が聞こえてくる。



「えっ?……ああッ!!」



そんな緊迫したこの場面には少々不釣り合いな杉元のうっかりした、というような声が辺りに響く。男が杉元にかざした黒いボルトのようなものがなんなのかは私にはわからないが、どうやらそれがないと銃が撃てないようだった。己の身の安全を確信したのか男はボルトを投げ捨てると今まで体を覆っていた外套を外した。その下に見えたのはやはりすでに見慣れた、私にとっては忌々しい第七師団のあの軍服だった。杉元は彼の身形に一瞬目を見開いた後に私同様にやはり、と眉根を寄せた。狙撃手の男は牽制するように腰から銃剣を抜き出して私の頸動脈の辺りに構えた。




「やはり兵士か。そして肩章の連隊番号……」




その先に続く言葉を杉元は口に出さなかったが、大日本帝国陸軍、第七師団。と続くことは明白だった。二人は暫くお互いの出方を探るように無言で睨み合っていたが、会話の口火を切ったのは狙撃手の男の方だった。


「きさま、どこの所属だ」


「第一師団にいたが、こないだ満期除隊した」


「そうか!では二〇三高地あたりで会っていたかもしれんな」


「……」


「……この女とさっきの死体はおとなしくこちらに渡した方がいい。あの戦争で拾った命はカネに換えられんぞ。どれだけ危険な博打に手を出しているのかわかっておらんのだ」



諭すように言う男の地を這うような低い声に背筋に悪寒が走った。ぐい、とさらに顎を掴み顔を上げられて首筋にあてられたひやりとした刃物の感触にうっすらと冷や汗をかく。男の言葉に杉元はややあってはっきりとした声で声で告げた。戦争で受けた銃撃だろうか、縫い直した跡のある古い軍帽をひとつ被り直すと、鍔が持ち上がり彼の迷いのない表情がより開けて見える。



「カネじゃねえ。惚れた女のためだ」



そこで私は初めて杉元が金塊を探す理由を知る。その迷いのなさが眩しくて、呆気に取られたのは私だけではなかったはず。否定、すなわち交渉の決裂。それは戦闘の開始を意味する。私は一瞬怯んだ男の隙をつき顔を押さえられていた手を振りほどくと男の銃剣を持つ右腕に思い切り噛み付いた。


「ぐっ、…!?」


この女、そう続きそうな憎しみを込めた唸り声とともに私の体は突き飛ばされ地面に転がる。噛みちぎった男の手の肉片とともに口内に付着した血液を吐き出して拭う。その一瞬の隙を杉元は見逃すことはなかった。瞬時に男の胸ぐらを掴みあげた杉元は軍服の縫い目が引き裂かれる音とともに男の体を背負い投げた。そのまま利き手が使えぬようあらぬ方向に曲げられた腕は思わず耳を塞ぎたくなるような生々しい音を立てて骨が折られたことを周囲に知らせた。うつ伏せになった男の首元、頸動脈の辺りに男から奪い取った銃剣の手入れされ、輝く切っ先を構える杉元。その迷いなく冷静な、真っ暗の瞳を見て心臓がひとつどくりと鳴った。
その表情は、ああ、杉元はこの男を殺すつもりなのだと本能的に感じさせた。



「杉元ッッ!!」



ダメだ、殺すな。そんな心の叫びが聞こえてくるような叫びだった。杉元がこれから起こそうということを彼女も感じ取ったのか、居ても立ってもいられない風情で飛び出してきたのはアシリパさんだった。杉元はそんな彼女の姿すら冷静な眼差しで見つめ、一方彼女の一言でなんとか生き長らえた男はしかしそんなことを意に介する素振りも見せずに「杉元……第一師団の杉元、」とどこか記憶を掘り起こすように言葉を反芻するとああ、とようやく思い当たったように呟いた。


「“不死身の杉元”か」


その導き出した正解と男が杉元の両目を潰したのは同時のことだった。私がアッ、と思う間もないまま男は倒れている私の腕を乱暴に引き上げて怒りを露わにする杉元を横目にこの場から逃げ去るつもりのようだった。


「この状況で不死身の杉元は手に負えん。片腕だけに」


そう折れた右腕を痛がる素振りも見せずにブラックジョークをかます男に独特の笑いのセンスの持ち主だな……というこの状況であくまで冷静な感想を持った私はとはいえ、そんな悠長にしている余裕はない。刺青人皮はともかく、私だけでも連れ去ろうと考えているらしい男は片腕の癖に抵抗する私を軽くいなして引きずってゆく。冗談じゃない。せっかく外に出られたというのに、まだ女将の無事や白石にも会っていないのに。それ以上に、今度第七師団に捕まったらそれこそ殺されるーー車で走り去る私を射抜くあの鬼軍曹の恐ろしい目付きを思い出して血が下がっていくのを感じた。



「ーーふざけんなッッ!!離せこのオッサン!!!」


「オイ、大人しくしろ。あと俺はまだオッサンと呼ばれる歳じゃねぇ。撤回しろ」


「嘘つけ絶対ラインでおじさん構文使ってくるタイプだろ!!つまんねーギャグで周りを困らせるタイプだろ!!」


「何の話をしているお前」




「ーーー伏せろナマエさん!!」




そんな私たちが妙に緊張感のない攻防を繰り広げている背後で、何かを振りかぶって投げたらしい気配とそれに対して注意を促す……もとい叫ぶ杉元の声が私の視線を男の背後へと導いた。けれどそこにはすでに杉元がぶん投げた歩兵銃の床尾板が男の後頭部に迫っていて、伏せるも何も、思い切り頭に衝撃を食らった男の黒目はぐるりと上を向きその体は私の方へ倒れてくる。そんな馬鹿な。倍とはいかないまでもかなりの体重差がある男の体を支えることなど当然できず、ぐらついた私の体は倒れるーーとその衝撃を予期して地面に何か障害物はないか、と確認する動物的本能が働いた。が、そこには何か障害物どころか、積もった雪も、続く地面すらなかった。



「あ……」


「落ちる!!!」



慌てて手を伸ばすように駆け寄ったアシリパさんのその小さな手はこちらへ届くことなく、杉元のあ、やっちまった的な本日二回目となるあまりにもうっかり感のある呟きに先ほどまでの杉元に対するかっこよさや眩しさといった感情がぜんぶ綺麗さっぱり吹き飛んだ。あ……。じゃねえよ。あ。じゃ。死んだら絶対呪ってやるからな。



「ーーーー杉本ォォォオオ!!!!」



かくして私の体は北海道は小樽、二月の真冬の川へ向かって軍人の男とともに真っ逆さまに落ちていったのでした。そもそも、この高さの時点で死ぬかもしれんし、真冬の川とか軽く氷点下だろう。詰んだ。と思う。全く、アイヌの隠し財産とはとことん呪われたものらしい、と妙に冷静な頭で考えた。なんたって今日だけで刺青人皮を巡って三人(うち二人、つまり男と私は今のところ生死不明だがたぶん死ぬだろう)が命を落とすことになるのだから。


16102022



prev | index | next

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -